マイヒーロー
新学期の準備に追われ、あれよあれよと言う間に来週にはその時を迎える。月曜日は新年中さん、新年長さんの進級式、そして火曜日には入園式が控えている。今宵は新年度一発目の一大イベントを目前にして、新人二人と新園長の歓迎会も兼ねた飲み会が行われていた。
上座に槇園長、鬼頭先生、山本先生が座り、その男性三人をまるで崇め奉るかの様にして女性教諭達が取り囲む。興味津々とばかりに女性教諭から質問攻めにあっていたが、対する回答も実に三人三様であった。
末席に座っていた私と史見ちゃんは梅酒サワーをチビチビと呑みながら黙って見つめていた。
「彼女はいるんですかー?」
皆が気になるプライベートな質問。その先陣を切ったのは唯一の既婚者大川先生だった。マイクを模したつもりなのか手を軽く握ると『はい!』とインタビュアーさながらにまずは一番聞きやすそうな山本先生へとその拳を向ける。
「つい最近彼女と別れたんっスよー。誰か慰めてくれませんかー」
誰かの慰めが必要だとは微塵も感じさせないこんな物言いでも、若い教諭達はキャーキャーと何故か喜んでいる。母上が市長であるという事が既に皆に知れ渡っており、ちょっとしたセレブに対する好奇心からなのか山本先生のフリー宣言に皆目を輝かせていた。どんな女性が好みだとか、年上なら何歳まで大丈夫なのかなど、一通り自分たちが聞きたかった情報を入手すると、じゃあとばかりに大川先生が次のターゲットへと狙いを定める。
「次ー。鬼頭先生は?」
ジョッキになみなみ注がれているウーロン茶を両手で持ち、大川先生にマイクを向けられると鬼頭先生の肩がビクッと竦んだ。
「あ、えと、あの……そ、その」
みるみる顔を真っ赤に染め上げると大きな身体を小さく縮こまらせ、蚊の鳴くような声でポツリと言った。
「いません……」
皆声には出してはいないが、表情からして『だよね』と言っている様なものだ。身体が大きい割にシャイな純朴青年は、あまり皆の興味を引かないのかそこから会話が広がる様な事はなかった。
「あー、……じゃあえーと、槇園長は? ご結婚とかされてるんですか?」
大川先生もここで止めておけばいいものを、この盛り下がった空気を変えなければと責任を感じた様だった。そのままの流れに身を任せて槇園長にもマイクを向ける。途端、皆の視線が一斉に槇園長へと集まった。
「いえ。――ただ、親同士が勝手に決めた許嫁とやらがいるらしいので、ゆくゆくはその方と結婚する事になるでしょう。……それよりも皆さん。来週の準備はもう万全ですか? 進行が遅れているものがあれば、皆さんが集まっているこの機会に――」
話を振られた槇園長は特に動揺するわけでもなく淡々とそう答えると、手にしたウーロン茶に口をつけ、その場を仕切り直すかの様に仕事の話を始めた。
大川先生をはじめ周りを取り囲んでいた教諭達は、飲みに来ているのに仕事の話になった事にシラけてしまったというよりも、槇園長とその許嫁について色々聞きたいのにそれを聞けない雰囲気になってしまった事にイライラを募らせている、と言った様子だった。
「ああ、それと。最初に言っておくのをわすれておりましたが、園内で恋愛は禁止とさせて頂きます。業務に支障をきたすので」
ニッコリと微笑んではいるものの、どこか冷たさを感じさせられるその笑顔に、誰も反論することなど出来なかった。
◇◆◇
「……? 史見ちゃん、もう帰るの?」
トイレから戻る途中、荷物を手にした史見ちゃんが出口へと向かっているところに出くわした。その顔はどこか引き攣っていて明らかに様子がおかしい。
「あ、うん。ちょっと飲み過ぎちゃったみたいで気分が悪くて」
「大丈夫? あ、待って、私が途中まで送ってくよ」
「あ、違っ……」
急いで自分の荷物を取りに戻ろうとしたその時、
「いえ、心配はいりませんよ。私がちゃんと山中先生をご自宅まで送り届けますから」
口元を手で抑え明らかに気分の悪そうな史見ちゃんの背後から、槇園長がスッと姿を現した。
「支払いを先に済ませるので、山中先生は外の風にでも当たっていてください」
「はい。……じゃあ、なっちゃ、――那都先生また」
「あ、うん。気を付けてね」
ふらふらとした足取りで出口へと向かう史見ちゃんを見届けると、レジに立つ槇園長に声を掛けた。
「あの、山中先生のおうちはご存じなんですか?」
「――いえ。でも、先ほど伺いましたので大体はわかります。今日はこの後、人に会う予定があったので車で来ていたんですが、丁度良かった」
「そうですか。――じゃあ後はよろしくお願いします」
冷たそうな雰囲気とは違って、実は親切な人なのだろうか。
背中を向けている相手に対してペコリと頭を下げると、踵を返し皆の元へと帰るため足を進めた。
「ああ、そう言えば」
「?」
振り返ると長財布を胸の内ポケットにしまい込みながら槇園長が私を見やった。
「園長室の片付け。ちゃんと私の使い勝手の良い様に整理されていました。まずは合格と致しましょう。それにしてもよく私が左利きだとわかりましたね」
「あ、はい。この間園長室に呼ばれた時、槇園長が黒いファイルに左手に持ったペンで何かを書き込んでいる所を見たので」
「ああ、なるほど」
『その調子で今後も園児達の様子をつぶさに感じ取れる様心がけて下さいね』と告げると、槇園長はその場を去った。
◇◆◇
「二次会行く人ー!」
「大川先生、旦那さん大丈夫なんですか?」
「えー? ああ、平気平気! 今日は出張でいないのよー」
先ほどの支払いは槇園長が既に済ませていた。払うつもりでいたお金が浮いた事で気が大きくなったのか大川先生が次へ行こうと誘いをかけるのだが、ここ数日の激務のせいか皆二次会に行く気力などなさそうだ。
「はいはいー!! 俺、行くッス!」
もとい、山本先生は若さのせいかまだまだ有り余るほどのエネルギーが残っているのだろう。その山本先生につられて、パラパラと若手の先生たちの手が上がる。
「あれー? 那都先生は?」
「あ、私は持ち帰っている仕事があるので、これで失礼します」
そう言うと、いそいそと逃げる様にしてその場を後にした。
「あ、あの、櫻井先生」
「……? あれ? 鬼頭先生も帰る組?」
タクシー乗り場へと向かう私の背後を大きな身体が追いかけて来た。
「あ、はい。僕はお酒があんまり得意じゃなくて」
「みたいだねー。ずっとウーロン茶飲んでたよね」
「はい。……あの、持ち帰りの仕事があるって言ってましたよね。僕も手伝いますんで」
それを気にして慌てて追いかけてきたという事がわかり、あんな事を言わなければ良かったと反省する。しかし、この人は本当に真面目な人だ。
「ううん、大丈夫だよ。この土日に何とか仕上げるつもりだから」
「いや、でも僕の指導に時間を割いたせいで出来なかったわけですから。あれですよね? 教室に飾る園児たちの名札ですよね? 何なら僕が半分持ち帰りますよ」
「そうだけど――。字体が代わるもの余りいいもんじゃないしね」
「あ、じゃあ僕が形を作るので、櫻井先生が文字を書いていくってのはどうですか?」
言うや否や、私が手にしていた画用紙の束を無理に取り上げる。やれやれと小さく溜息を吐き、改めて鬼頭先生を見上げた。
「それじゃあ、私はいつ名前を書いたらいいの?」
「あっ、……そう、ですね」
この土日に仕上げると言っているのに、休みの日にまで園の人と会いたくない。その事をわかってもらおうと遠回しにそう言うと、取り上げられた画用紙を奪い返して又前へと向き直った。
斜め後ろを歩く鬼頭先生の肩はきっとがっくりとしているのだろう。何とかして役に立とうと一生懸命なのは認めるが、少し空回り気味なところが少しだけ不憫に思えた。
「鬼頭先生おうちはどこ?」
「――あ、僕はS町です」
「あ、そうなんだ。ご近所さんだね、私はN町だよ」
「……そうですか」
「あー、私このままタクシーで帰るんだけど、鬼頭先生はどうするの?」
「えっと」
こんな事にもすぐに答えられない程優柔不断なのか、後ろを振り返ってみるとあーでもないこーでもないと首の後ろをさすりながらブツブツと何か言っていた。
「良かったら一緒に乗っていく? 正確には私が先に降りる形になるんだけど」
「……はいっ! お願いします!」
ずっと硬い表情だった鬼頭先生の顔から、わずかではあるが笑みが零れ落ちた。
「……。」
――へぇ。こんな風に笑うんだ。
初めて見た鬼頭先生の笑顔だったが、どうしてだか懐かしさを感じさせられる。その理由もわからないままに私たちはタクシーへと乗り込んだ。
運転手さんに行先を告げると、ゆっくりと車が動き出す。二人で乗り合わせた方が安くなると思って声を掛けたものの、ラジオも流れていない車内の静寂がとても息苦しい。
こんな事ならケチらず一人で帰れば良かったと後悔し始めていた。
「あの」
「――?」
会話をするのも面倒だとばかりに窓の外へと顔を向けていたのだが、鬼頭先生も沈黙が耐えられないのか車が動き出して五分程経ってからやっと声を発した。振り返ると膝の上に両手を置き、シートに背中をつけずビシッと座っている。その様子がなんだかおかしくて、クスクスと笑ってしまった。
「え?」
「あ、ごめんなさい、何でもないの。どうしたの?」
私が笑った意味がわからなくてなんだか腑に落ちないと言った表情になりつつも、話題を戻した私に合わせ鬼頭先生が話し始めた。
「あ、えっとつかぬ事をお伺いしますが」
「はいはい?」
「櫻井先生の下のお名前って“ナツ”さんですよね?」
「うん」
「家の近くにタバコ屋さんありませんか?」
「タバコ屋……? ああ、あったよ。今はコンビニになってるけど。それがどうかした?」
「やっぱり! “なっちゃん”ですよね! 僕、昔近所に住んでた一太です。あ、えーっと大河内 一太って言った方がわかりますか?」
「……え?」
――オオコウチ イッタ?
その名前にピンときた私は目と口を大きく開け、人差し指を鬼頭先生に向けた。が、すぐに眉が顰められる。それもそのはず、私の中の“オオコウチ イッタ君”の記憶は身体が小さくいつもお母さんの後ろに隠れている様なシャイな男の子であって、幾ら大人になったからと言ってあの小さかった少年がタクシーの天井に頭がつきそうなほどでかくなるとは思えない。
同年代の子に比べはるかに身体の小さかったイッタ君は、同級生だけではなく下級生にまで虐められて泣いて帰って来る様な男の子だった。
「両親が離婚して母方に引き取られて姓が変わって。高校まで母親の実家に住んでいたんですが大学進学を機にこっちに戻って来たんです」
「一太……君?」
「はいっ!」
鬼頭先生があの一太君? 気の弱い所は一緒だけれど、体格が全然違い過ぎる。過去の記憶を遡りながらボーっと鬼頭先生の顔を眺めている私が面白いのか、鬼頭先生はくしゃっと屈託のない笑顔を見せた。
「……! ああっ!」
その時の笑顔を見て、一気に昔の思い出が呼び戻された。
◇◆◇
静まり返っていた車内だったのが嘘の様に、今では昔話に花を咲かせている。
「へぇー、そうなんだー、あの時の一太君がねー」
「はい。あの頃泣いて帰って来た僕を心配して、留守がちな母の代わりによくいじめっ子を懲らしめてもらいました」
「こ、懲らしめ……!? って、そんな物騒な事したかな?」
一太君はそう言うけれど、私の記憶ではその辺はぽっかりと穴が開いている。もう十年以上も前の事だから流石に覚えていなかった。
一太君の事は何とか思い出すことが出来たものの、私の記憶では近所に住む気の弱い小さな男の子止まり。一太君により次々と知らされる過去の自分の話に、思わず耳を塞ぎたくなった。
当時の私は正義感溢れる女子高生だったのだなと思っていると、
「なっちゃんは、僕のヒーローなんです!」
切れ長の目をやたらキラキラと輝かせながら、鬼頭先生は臆面もなくそう言った。