【大空へ……】①
「たまご……ですか」
「ええ、たまごです。……そんなに不可解そうな顔しなくてもいいじゃないですか!」
「でも寝込みを叩き起こされて外に連れ出されたと思ったら、コレをいきなり渡されたんですよ。驚きもします」
「叩き起こしたなんて人聞きが悪いです。真之さんがまた窓を開けて寝ているから、カルテが飛んでしまうと思っただけですよ。
徹夜は仕方ないですけれど、ぜひ加減を知ってくださいね」
「……お世話をかけます」
「もう、気分転換の散歩なんですから、もっとのびのびしてください」
彼女はそう言うが、これでも充分のびのびしていたつもりだ。不可解なものをまじまじと眺めてみたり……
そうすると彼女のご機嫌を損ねてしまうと、今しがた気づいたのだが。
持っているソレを頭上にかざす。この空を映すように澄み切った蒼色のソレは、たまごの形をした不思議なモノ。
「初めて見ました。コレ……」
「……お守りなんです」
「お守り?」
「願いをかけて大事に持っていると、きっと叶うっていうお守りです」
「それなら彩子さんが持っていたほうがいいんじゃないですか? あなたが手に入れたものなのでしょう?」
「いいんです! 真之さんが持っていてください! せっかく内定をもらったんでしょ? その励みにしてくださいよ!」
差し出したたまごを押し戻されて、苦笑い。
「ははは、知られてしまいましたか」
「『知られてしまいましたか』ってどういうことですか? 念願の消化器科に配属されるんですよね。嬉しいことじゃないですか!
……確かに、会えなくなるのは寂しいですけど」
「ふふっ」
「何がおかしいんですか!?」
「いえ」
もごもご呟いたり、怒ったりする彼女がとてもおかしくて。
とても、愛おしかった。
「また会えます」
風と共に、彼女が振り向く。
「僕は、あなたの病気を治すために消化器科で学んできます。
絶対に病と対抗できるだけの実力を備えて戻ってきますから、そんなに心配しないでください?」
明るく笑いかけたつもりだったのだが、彼女が寂しそうに眉を下げる。
「行ってからもじゃ、ダメなんですか? 研修に行く病院はここから近いんですよね。
だったら、行ってからも会えないんですか? 私、できるだけ真之さんと一緒にいたいんです」
「彩子さん……」
僕は、そっと笑いかける。
「そうですね。行ってからも会いましょうね。あなたの体調がよければ」
「……本当ですか? 私はいつも元気です! だから毎日会いましょうね!」
「毎日ですか……それは過密スケジュールですね」
「あら、真之さんはお嫌なんですか?」
「そんなことはありません。ただ……」
ここでお茶を濁すべきではなかったと、眉間にしわを寄せる彼女を見て気づく。
「なぁに、また私に隠しごとですか? ひどい。全部洗いざらい吐いちゃってください」
「……言ってもいいんですか?」
いつもなら苦笑いを浮かべるはずの僕が、今日に限っては普通の笑みを浮かべることにどうも違和感を感じたのか、彼女が困惑する。
「な、何ですか。そんなに変な話題ですか?」
僕は微笑み、蒼く澄み渡った空を見上げる。
「今日もいい天気です。太陽の光が暖かくて、風が気持ちいいですね」
「真之さん?」
……ずっと言いたかったこと。それを、この機会に言ってしまおう。
視線を下げ、彼女を見つめる。すると丸みを帯びた頬がポッと染まる。
それだけで、僕はこの上なく優しい気持ちになれるのだ。
「もし、今日の空のように穏やかな日々が訪れたら、そのときは――――結婚、しましょうね」
風が吹いた。
「……え」
呆然とする彼女のもとへ歩み寄り、小柄な身体をそっと抱き締めた。
最初は強張っていた細腕が恐る恐る背中に回り、ちいさく抱き締め返してくる。
「……どうして今、そんなことを言うんですか」
「あなたにバレそうだったので、いっそのことと思いまして」
「やめてください。真之さんのくせに……かっこよすぎですよ」
「僕にそんなことを言ってくれる女性は、世界中であなただけです」
「……真之さん、それ無意識に言ってらっしゃいます?」
「はい?」
「……っぽいですね」
彼女がホッとしたように息をついた。
けれど、実を言うとこのとき、すっとぼけたんです。
なんて言ったら、やっぱり怒りますか?
「……隼斗」
唐突に彼女が呟いたのは、しばらく経ってからのこと。
「はい?」
聞き返す僕に、彼女は嬉しそうに口元をほころばせた。
「隼斗。子供の名前です。私は姉妹だったから、兄弟がほしいな!」
「……え、いくらなんでもそれは早すぎでは」
「いいえ。私の身にいつ何が起こるかわからないんですから、早いほうがいいです!」
「こら、そんな縁起でもないことを言わないでください」
こつん、と握り拳を額に当てると、彼女がまた笑って空を見上げた。
「隼斗……はやぶさのように、この大空を力強く羽ばたいてほしい。2番目の子は……そうですね」
今度は空から視線を外し、僕を見つめる。
「郁人。空の上からじゃわからない、人の心の細かいところまで思いやれる子に。明るくて活発な子になってほしいです」
そう語るさまはとても嬉しそうで、到底口出しできそうにない。
「……なーんて。言葉にするのは簡単なんですけどね。
今、真之さんや私の置かれている状況はよくわかっているつもりです。ワガママは言えません。ごめんなさいね、真之さん……」
申し訳なさそうに俯く彼女へ、静かに頭を振る。
「確かに今はまだ無理ですけれど、きっとすぐですよ」
彼女と共に歩める道がある。辿り着くまでそう時間はかからない。僕はその道を目前に、待ち遠しくてたまらなかった。
「そんなに寂しそうな顔をしなくても大丈夫。少しずつ進んで行けばいいんです」
焦ることはない。未来に向かい、2人でしっかりと今を歩んでゆくのだ。
彼女は頷いて僕の胸に顔をうずめる。そのとき、白衣のポケットに入れていたたまごをそっと包み込んだ。
「真之さんも、まだたまごですよね」
「たまご、ですか?」
「はい。お医者さんのたまごです。私があっためますね。早くかえって、雛になあれ」
それは優しい、おまじない。
「はは、彩子さんが僕の親鳥ですか」
「いいえ? 親鳥だと、雛のうちしか一緒にいられませんよね。そんなの辛すぎます。
だから私は空になります。そうすれば、真之さんをずっと見守ることができますもの」
「空……?」
「ええ、空です。私はずうっと、真之さんのことを見守っていますから」
――微笑んだ彼女の、澄んだ瞳が忘れられない。
「そうですか。なら僕は、大空を目指しますね」
そう返したときの彼女の笑みも、抱き締めた温もりも、胸の愛しさも。
すべてが色あせることなく、この日のまま。




