【幸せとまどろみ】②
日差しが強い。窓を開けて、風を入れる。
涼風に吹かれ、今度はいつの間にかまどろんでしまう。
――先生。
声が、聞こえる。
――またカルテが飛んじゃいますよ。
わかっています。でも、もう少しだけ。
――先生ったら! こんなところで眠ったら風邪を引くわ!
あなたに怒られたら、ずいぶんと重みがあります。
ごめんなさい。彩子さん……。
「――先生! 先生!」
まぶたを上げると、ぼんやりとした視界に人影が映った。彩子さん? ……違う。
「いくら天気がいいからって、こんなところで寝たら風邪引くよ、タダ先生」
「ああ……ごめんね、郁人くん」
どうやら、机に突っ伏して寝ていたらしい。カーテンのすき間から射し込む太陽が、眩しい。
「もう、机の上も散らかしっぱなしだし……あれ?」
書類の山から這い出す1枚の紙。
手を伸ばして引き抜くと、郁人はそれを覗き込んだ。
「……『彩子』って……やっぱりおふくろのカルテだ。でも……」
「こら」
「わっ……?」
握りこぶしをコツンと頭に当てる。郁人が驚いた隙に、カルテを奪い取った。
「個人情報だよ。勝手に見ちゃ駄目じゃないか」
「でもおふくろのだよ? っていうか、タダ先生っておふくろも診てたんだ」
「そんな時期もあったねぇ」
「……あのさあ、勝手に見たのは謝るけど、難解すぎて名前しかわからないよ、その文字」
「ならよかった。関係者以外に見られたときのための暗号対策だよ」
「素直に字が上手く書けないって言ったらどうなの? つーか先生もそこら辺に置いとくなよな」
八神は笑った。この子は相変わらず切り返しが速い。
「職業柄、書き殴ったような字になるのは仕方ない。ここには優秀な人材が揃っているようだから、看護師さんたちが解読してくれると信じて」
「……寝不足なの?」
「医者につきものの不治の病さ。さてと!」
八神は弾みをつけて立ち上がった。
「郁人くん、もう起き上がって大丈夫? キツくはないかい?」
「そのことなんだけど……俺、退院していい? どうせただの風邪なんだしさ、もうすっかりよくなったから」
「……無理はしてない?」
「ははっ、タダ先生は心配症だなぁ。……先生、最近やたら忙しいだろ」
「ああ。物騒な話だけど、暴行事件が多発しているらしくてね。軽傷の人たちばかりだよ。それがどうかしたのかい? まさか……」
「軽傷軽傷って言ってるけど、数がハンパないって聞いた。それで先生も寝不足なんだろ?」
「郁人くん、医者をやっている以上、それは仕方のないことだよ」
「でも、これ以上先生に負担はかけられない。ただでさえアイツに心配かけてるのに……」
「セラさんのことかい?」
ピクッと肩を震わせて、郁人は頬を染めた。
「……初めてだったんだ。家族や先生以外で、俺のために泣いてくれるヤツなんて。
自分のこと心配してくれるヤツがいるのに、怖気づいたままなのは嫌なんだ。ちゃんとケリはつけなきゃいけない。
だから、いつまでものんきに過ごしてるわけにはいかないんだよ」
「郁人くん……」
そうか……こんなに考えて。
ゆっくりと息を吐き出す。
「わかった。セラさんに連絡を入れておこう。……君は本当に優しい子だね」
「わっ、先生! 子供扱いすんなって!」
八神は微笑みながら、しかし頭を撫でる手は止めない。
「誰に似たんだろうね……」
「え?」
名残惜しい感触を残し、そっと手を離す。
「それじゃあ私も、郁人くんを見習ってバリバリ働こうかな!」
「……先生が奇妙なほど元気だ。心配……」
「おや、心外だねぇ。私はもともと頑丈なんだよ。鍛えていたからね」
「え、マジで? 何してたの?」
「合気道だよ。大学に入る前に辞めてしまったけれど」
へぇー、ほぉー、合気道かー。ところで合気道って何すんだっけ? と首をひねる郁人。
「ごめん先生、いまいちピンとこない」
「それは残念。積もる話はあるけど、また今度にしようね」
「あ……ずいぶん時間取っちゃったな。ごめん」
「気にすることはないよ。ただ、君も準備があるだろう? 退院して、落ち着いたときにまたおいで」
「うん……そうだね」
郁人が頷いたのを確認すると、八神は部屋を出た。
ドアを閉めて、廊下に立ち尽くす。
「……あなたのお子さんは、とても立派に育っていますよ」
手のひらに残った温もりに、どうしても探してしまう面影がある。
だからこそ、私はあなたを忘れることができないんです。
そう言って、また天国の彼女を怒らせてしまうのだろう。




