【舞い降りた幸運】①
自分でも、意気地がないことはわかっていた。
呼びとめる声を振り切り、逃げ出すことしかできなかったのは、自分が弱かったからだ。
『大変! また熱を出しちゃったのね!』
……頭が痛い……。
それなのに、声が脳内で響き渡る。能天気で優しい、母の声が。
『ちょっと待っててね。すぐにおかゆ作るから』
『……いらない。食べたくない』
『ダーメーよ。具合が悪いんだから尚更食べて体力をつけなきゃ』
どこかで聞いたようなセリフ。セラが言っていた言葉だ。
いや違う。おふくろがいつも言っていたのを、アイツが言ったんだ……。
『郁人、また熱?』
『あら、お兄ちゃんお帰り! そうなのよ。困ったのよねぇ』
『バカだな。だから言っただろ。後で熱出しても知らねーぞって』
『……ちょっと川で遊んだだけだろ。バカバカ言うな』
『スネても可愛くねぇって。文句言うんなら、ちゃんと治してからにしな』
――いつからだろう。兄を恨めしいと思うようになったのは。
よく俺をからかっては面白がっていた兄も、今では別人。
子供の頃があんなに幸せだったから、思い出すのが辛い。
……ああ、また頭痛だ……。
☆ ★ ☆ ★
「郁人くん、どこ!?」
すっかり夜になり、街灯が光を灯し始めた。
駅前は様々な店が立ち並び、店内から聞こえてくる音楽に声はかき消される。
道の大部分は薄暗く、すれ違う1人1人の顔を判別するのは困難を極めた。
「……セラちゃん!」
すぐさま振り返る。若葉くんは陽が落ちてなお途絶えない人波へ、じっと目をこらしている。
「……いた、郁人くんだ!」
「本当!?」
「うん。でも様子がおかしい。…………っ、いけない!」
顔色を変えた若葉くんに手を引かれ、私も駆け出す。
人と人の間を縫うように進み、やがて行き着いた先で聞こえるざわめき。
「ごめんなさい! 通してください!」
何とか人波を抜け出し、街路樹の根元にもたれかかった郁人くんに駆け寄る。
呼吸が浅い。上体を抱き起こし、額に手を当てたところであぜんとする。
身体がすごく熱い。なのに顔が真っ白だ。
「郁人くん! 郁人くん!」
返事がない。それが余計に焦燥を煽いだ。
このまま目覚めないんじゃないか? 嫌な考えが頭をよぎる……。
「――すみません、診せてください!」
どこからか、聞き覚えのない男性の声が聞こえた。
振り返るより先に伸びてきた手が、私の腕から郁人くんをさらう。
そろそろ目も慣れてきたのか、そこには30代後半くらいの男性がいて、素早い動作で郁人くんの症状を確認しているというのがわかった。
「ひどい熱です。このままではさらに悪化するおそれがあります」
「あの……あなたは」
「申し遅れました。医師をやっている八神といいます。私の医院がすぐ近くにあります。彼を運びましょう」
「僕が背負います」
帰宅途中だったのだろう。八神さんは一度荷物をおろして郁人くんを背負おうとした手を止め、若葉くんの言葉に力強く頷いた。
「お願いします」
――突然のこの出会いは、私たちにとって大きな幸運をもたらすことになる。




