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ピクピクと無意識に動く鼻が最近嗅ぎ慣れた幸せの匂いを感じ取り、靄のかかった頭を刺激する。眠りから醒める寸前の至福の時に私は微睡んでいた。
(…あぁ、ご主人の匂いだぁ)
ここ二ヶ月ですっかり住み慣れたご主人の家の匂いとシーツから香るご主人の匂いに安心しきって、さぁ、今から起きるぞという私の脳は突然の金切り声に一気に覚醒した。
「きゃあぁぁぁーーーーーぁぁあああっ!!」
反射的に身を起こし、構える私。
(何っ!!何っ!?何ぃぃぃいいっ!!!?)
身を低くして歯を剥き出し唸り声をあげ、辺りを窺うが特に異変は見当たらない。
(…っ!?ご主人がいないっ!!)
金切り声が聞こえてから、しーんっとなった居間には、今の私の命とも言えるご主人の姿がなかった。
「がうっ!!がぅぅっ!!(ご主人!!ごしゅじぃぃぃいいん!!)」
寝起きで状況把握を出来ず、ご主人の姿も見つけられない私は軽くパニックになってしまう。
「がうっ!がぅ…。………くぅん(ご主人!ご主人…、どこにいるの?)」
どんなに部屋を見渡してもご主人の姿は見当たらない。だんだん不安になって、終いには耳もか尻尾もペタンと力無く垂れてしまう。
(…ご主人、どこぉ)
目線を漂わせながら、体の力が一気に抜け落ちていく。そんな中、ガチャリと音がして、居間から丸見えの玄関からご主人が姿を表した。
「がふっ!!(ご主人っ!!)」
いつもと変わらないご主人の様子に安堵と嬉しさで、今までで垂れていた耳をピンと立て、尻尾を勢いよく振るとバシバシと壁が鳴った。
「ブラン、おはよう。でかくなったままだぞ。小さくなって、居間を片付けといてくれ」
そう言いながらご主人は私に近づき頭を撫でてくれる。それに対して、まだ頭が働かない私はこてんと頭を捻りながら、
ご主人が寝室に向かうのを見守る。
(大きいってなんだ?)
ご主人が寝室のドアに手をかけ、漸く自分の体を見るという考えに至った私は、美狼姿の自分を見て、昨日のことを思い出し始めた。
(そういえば…)
「ブランっ!」
「がぅっ!!」
昨夜のことから遡り始めた思考を遮るように、ご主人が私を呼ぶ声がしたかと思うと、横顔に柔らかい何かが勢いよく当たり、私は何かが飛んできた方向に向けて威嚇の体勢をとった。
「いやぁぁぁぁぁあああぁぁぁああっ!!」
再び耳をつんざく様なひどい悲鳴がしたかと思うと、寝室のドアを開け耳を塞ぐご主人の先に、シーツを纏い真っ赤に染まった顔の女が潤んだ瞳でこちらを見ていた。
知らず知らずのうちに、姿勢を低くしていつでも攻撃が出来る様に身構える私。そんな私に、ご主人は近づくと落ち着かせるように喉を掻いてくれる。
「ブラン、落ち着きなさい。そのサイズで暴れ回られると流石にうちが壊れてしまう」
女を睨みつけながら、ご主人をチラッと窺えば、苦笑している顔が目に入り、なんとか剥き出しになってしまった歯を収めたが、鼻息だけは俄然荒いまま。
「ブラン…、小さくなってくれないと抱けない」
鼻をふがふが鳴らしている私の耳にご主人がそっと唇を寄せ囁く。
「がふっ(ふんっ)」
女を一瞥して、興奮をなんとか抑えご主人に顔を擦り寄せる。
(抱けないのは一大事だよね)
そのまま体の力を抜く様に毛玉になると、すぐにご主人が抱き上げてくれた。
それからご主人は徐に寝室の方に体を向けると、女に向かって話しかけた。
「お前も少しは落ち着いたか?」
ご主人の懐についつい埋めてしまっていた顔を女に向ければ、女はわなわなと唇を震わせ、体に巻きつけていたシーツを握りしめていた。
「もう大声を出さないでもらうとありがたい。近隣がいないといえ、うちのブランが興奮してしまうんでな。…あぁ、後服が着たいならそこのチェストに入っているのを適当に着ればいい。私の服だが、気に食わなければ好きなだけその格好でいろ」
ご主人はそう言うと、寝室のドアに近づく。
ベッドの上の女がビクリと震えて警戒して見せたが、ご主人はそれを鼻で笑うようにドアノブを掴むとパタンと閉めた。
「自意識過剰なんだよ…」
私の頭上でぼそりとご主人が憎々しげに呟く。私は心底、自分が獣でよかったと思いながらご主人に甘えてみせた。
「びっくりしたな、ブラン。もう大丈夫だぞ」
私の頭を撫でながら話しかけたご主人は、先程の憎々しさはさっぱりなく、私を甘やかす優しいご主人だった。
「さぁ、ブラン。片付けをして置いてくれ。私は朝食を作ってくるよ」
ご主人は私の体を持ち上げ、私の目元にキスをすると、私を床に降ろしてキッチンへと向かった。
キッチンといっても、本当にご主人の家は小さいので、居間の隣に敷居もなくそこにある。
私はご主人がキッチンに立ったのを見てから、昨夜使った物を動かす魔法を使って、居間を元通りに戻していった。
それが終わると、ご主人の所に走っていって足元で一吠えする。
そんな私にご主人は目を細めて笑いかけてくれた。
ご主人が朝ご飯を作り終え、居間にあるテーブルへと運ぶ。その足にじゃれるように近づくとご主人が"コラッ"と、笑いながら怒った。
ご主人がテーブルに食事を並び終えたころ、寝室の扉がガチャッと音をたて、女が顔を覗かせた。
「食事は出来るか?食べるならそこに座れ」
女を横目で見たご主人はすぐに、テーブルに視線を戻すと顎でいつもご主人が座る向かい側の椅子を指した。
女はおずおずといった風にゆっくりと扉から体を押し出すと、静かにご主人が示した椅子に歩を進め座った。
私はその間ずっと女に向けて牙を剥いていたが、女は私を見るとふんわりとした微笑みを浮かべた。
その女の笑みは儚げで、ご主人の服をダボっと着こなした肌から覗く手当された後がより一層儚さを演出していた。そして、何よりも閉じていてはわからなかった緑の瞳がとても美しかった。
グルルルルルゥッ
私の喉が激しく唸る。
人間と獣が張り合うのもおかしいのかもしれないが、女の澄んだ瞳に余計に私の危機感は煽られた。
「ブラン、おいで」
ご主人が近くに来たことにも気づかないくらいに女を警戒していた私は、ご主人の声にビクッと毛を膨らませると、そのまま声のした方に顔を向けた。
「がふ」
パタパタと尻尾を振りながらご主人が差し出した腕に飛び込めば、ご主人がサッと抱き上げてくれて、そのままご主人はいつも座る席に着席して私を膝に乗せた。
テーブルには、いつの間にか女の食事も用意してあり、流石ご主人と思うのだった。
☆お知らせ☆
気づいている方もいるかと思いますが、こちらの小話などを"獣と叫ぶ愛"という紛らわしい題名で晒しております。よろしければどぞ!