2
読んでくださった方、評価をしてくださった方、お気に入り登録してくださった方、すべての方に感謝を!
こちらに来て二ヶ月近くたった今日。昨夜から妙な胸騒ぎを覚え、浅い眠りを繰り返していた私は、日も昇らぬうちからご主人の家を飛び出し、闇の森を探索していた。
闇の森に漂う四大元素から派生した精霊たちに挨拶をしながら、あまり長いとは言えないもこもこの毛玉の一部である可愛らしい四つ足を懸命に動かす。
朝露に濡れた新緑に混じり、微かに人間の匂いがしたー。
私とご主人の住む闇の森はあるルートを除いて、湖から離れるほど、闇の森の名に相応しい姿になる。昼間でも暗く鬱蒼として、森に侵入してくるモノを拒むかのように。
そんな様子だからか、時折ルート外に自殺志願者、訳あり、死体なんてものがあったりする。
森に住む精霊は、基本自分本位なので興味がない限り、それらを放置する。動物たちに関しては外敵とみなすか餌としか捉えない。ご主人はそれらを見つけた時に限り、個別に対応するといった感じだ。
私はここに来てからそれらの徹底的排除を試みている。
理由は簡単。ご主人との時間を邪魔されないため。
自殺志願者は問答無用で、精霊たちに頼んで森の外にお帰りいただき、訳ありはご主人の元へ案内したり脅かしたりする。死体についてはそのまま放置する。動物の餌になるし、わざわざ墓を作ってやるほどお人よし(今は獣よし?)ではない。初めて森に転がる死体を見たときに、自分は案外冷たい人間だったのかと思ったものだ。
匂いを辿り、どんどん森の端へと近づく。匂いが強くなり、その匂いに血の匂いが混じっていることに気づいて、鼻がフガフガと鳴らしてしまう
。
(死臭は混じってない…みたいだけど…)
近づくほどに血の匂いがきつくなり、出血の多さが窺えた。あまりの血生臭さに、本来なら生きていても森の動物たちの餌と認識されて、生きたまま食べられていてもおかしくない状況なのに、動物たちの匂いはしても、その匂いの近くにいる感じは全くしなかった。
(おかしい…)
違和感があり過ぎるそれに、本能は近づくなと告げている。だが、流石に冷たいと自覚しても、死臭のしない生きていて大怪我をしているかもしれない人間を放置出来るほど図太くもなかった。
背の低い木々や生い茂る草を掻き分け、ルートから大分外れたところに匂いの元を発見した時、私は大いに後悔した。
うつ伏せの状態で転がるそれの性別に嫌気がさした。
(お、…女…)
土や泥に塗れ、引き裂かれて無惨な布切れになっているドレスと思しきものは、どう見ても一般的な布質とは違い、光沢を帯び柔らかそうなもの。加えて、薄汚れてはいるが柔らかな丸みを帯びた曲線を描く肌は、この世のものとは思えないほど艶めかしく見える。
その上質なドレスにしろ、悩ましい肢体にしろ、ご主人との生活をぶち壊されそうな雰囲気のそれに嫌気は益々高まる。
女には大きな怪我はなく、軽い擦り傷や打撲があった。このむせ返るような血液の匂いは、女自身が大量に出血している訳ではなく、どうやら女を取り囲むようにして撒かれ、まだ乾き切っていない血痕からしていた。
女自身からではなかったが、これだけの血の匂いにも関わらず、女が獣の餌になっていなかったのは、女が加護持ちだったからのようだ。
女を護るように淡い光が女の周りに集まっていた。
加護持ちとはその名の通り、何かしらの加護を受けている人を指す。加護を与えてくれるのは主に精霊で、稀に神様などからも与えられる人もいるらしい。加護持ちは、自然の動物たちからすれば手を出してはいけないものらしく、そんな加護持ちを平気で食べるのは魔物ぐらいなものだった。
この辺りに魔物の気配はなく、お陰で女は命拾いをしたというわけだ。
状況からして厄介ごとにしかなりそうにない女だったが、この女に加護を与えたであろう精霊が、私の目の前をふよふよと漂いながら助けろと訴えてきている。この精霊は四大元素とは別格の、中位以上の者しか生まれない光の精霊だったが、酷く弱っており、しきりに女を心配している。
(仕方がない…)
かなり不本意ではあるが、精霊は嫌いじゃない。むしろこの世界において、ご主人の次ぐらいには好きだ。本当は女を森の外に放り出してしまいたくて仕方がなかったが、嫌々ではあるが光の精霊のためにしょうがなく女をご主人の所へ連れて行くことにした。
(その前に…っと)
うつ伏せの状態で転がる女の顔をまだ見ていなかったので、見てみることにする。私とご主人の生活に介入する邪魔者なのだ。確認ぐらいはしておかなければならないと思うのだ。
女の顔が見えるように、前足で女の頭を軽く押さえながら動かす。そして…。
(…お、終わった)
その顔は、汚れていても美しいものだった。細い眉にぽってりとした唇。閉じられている瞳を長くカールした睫毛が密集して彩っている。青褪めて苦悶の表情を浮かべていたが、その美しさは少しも損なわれている感じはしなかった。
舌打ちしたい気分を押さえつつ女を運ぶために、可愛らしいふわっふわのもっこもこの真っ黒な毛玉を、恰好いいさらっさらのつやっつやの漆黒の美狼もどきへと変化させる。毛玉が腕の中に収まるサイズなら、美狼はご主人を乗せられるくらいの大きさだ。
身体が膨張するイメージをしつつ、周囲に漂う魔力を皮膚から吸収するように集めることで、私のサイズは大きくなる。変化をする際、骨がゴキゴキ鳴り、肉が波打つというようなグロテスクな変化はない。しいて言えば、身長が伸びるのを早送りにしたような変化の仕方だ。
大きくなった私は、鼻面を女の腹部に差し込み、森の精霊の助けを借りつつ背中に乗せる。
魔法があるのだから、魔法を使えばいいと思うかもしれないが、私は基本的に人が使って、自分の目で見たり、体で感じた魔法しか使えない。魔法使いであるご主人は、魔法使いにも関わらずあまり魔法を使わない。物体を浮かすだとか、瞬間移動だとか、ご主人が使ったところを見たことがない私は、地道に運ぶしかないのである。
精霊に頼めば…と思わなくもないが、彼らは気に入ったモノ以外、酷く扱いが雑になる。女はまだ、この森の精霊たちに受け入れられていそうにないし、女に加護を与えた精霊は弱っているしで、精霊はアテに出来ないのだった。
女を乗せて、ご主人のもとへ出発するが、私の足取りはかなり重い。
こんな美女が女日照りのご主人にあったら…と思うだけでとても憂鬱だ。可愛らしい毛玉を溺愛しているご主人に捨てられることはないだろうが、女に夢中になれば構ってくれる時間は減りそうだ。
仮にご主人がなんとも思わなくても、この女がご主人に夢中になることもありえる。何せご主人も超美形なのだ。女がご主人に惚れる可能性はかなり高い。
(ああ、早くこの女が出て行ってくれますように)
まだ、ご主人の家にすら着いていないのに、私が思うのはそんなことばかりだった。