第三話 生きるということ
第三話 生きるということ
変化の無い通路の先に、三つ目の部屋が現れた。先頭の男は扉に触れる直前で動かなくなってしまった。傍の人が声をかけているが反応が無い。仕方なく別の人が扉を開けて先に進んだ。
春香は固まった男性の隣を通り過ぎる。まるで彫刻のように固まった姿は人間に見えない。まるで粘土か何かで出来ているように思えた。
部屋は広く先程の部屋と同程度だと思う。
「ちょっと、どういうことなの。開けて、まだ人が居るのよ。」
春香が振り返れば扉は閉じられていた。彼女は見ていないが、固まった男性の傍に居た何人かが部屋に入れず取り残されたようだ。女性が何度も扉を叩いている。
「なんなのよこれ。どうしてこんなことに。」
女性がその場に崩れると、扉はあっさりと開いた。扉の先にはただ腕輪が転がっているだけ。それらも消えてしまった。
意味も理由もなく彼女たちは消されていくのだろうか。しかし、何のために。
その時、どこからか男の声が聞こえた。最初の部屋で聞いたあの声だ。
「さあさあ、立ち止まっていては時間が勿体無いよ。私にも時間が無くてね。さっさと先に進んで欲しいんだ。」
この男は何様なのだ。みんなを勝手に集めて勝手に消していく。彼はなんなのだ。
「私は神だよ。お嬢さん。」
春香はびくっとして意味もなく辺りを見た。男は確かに春香の問いに応えた。思っただけの事なのに、口に出していないのに。どうしてわかったのだ。彼女は無意識に後退して壁に背を付けた。立っていられない。
「これからはもっと滞り無く進んで欲しいね。そうそう、この部屋から先はみんなに色々と見てもらうよ。素直に反応することが先に進める秘訣だよ。それじゃあね。」
一気に言い終えると、男の声は消えた。
突如部屋中を満たす良い匂い。これは料理だ。母親が作ってくれたあの……。
次の瞬間、匂いの発するものが目の前に現れた。パンとシチューだ。春香はその場に座り込み、恐る恐る触れてみる。皿は熱を持っていて、湯気を立ち昇らせている。
「温かい。美味しそう。」
周りを見ればみな座り込み、料理を目の前にしている。
春香はスプーンでシチューをすくってみた。匂いを嗅いでみる。特に変な匂いはしない。目を瞑って一気に口に含んだ。突如熱い液体が口内に広がる。あまりの熱さに声が出た。
春香ははっとして周りを見ればみんな見ている。最初に食べたのは彼女らしい。彼女は大人数からの視線に慣れていないためか固まってしまった。固まる彼女をよそに、各々が料理を食べ始めた。
春香はひと通り食べ終わると皿を置いて深呼吸した。食べてしまった。誰が作ったかも分からないものを食べてしまった。お腹を壊したらどうしよう。いや、今はそんな事を考えてもしたかがない。仕方が……。
背後で金属音がする。春香がすぐに振り返れば、腕輪が床に転がっていた。傍には手付かずの料理。また、誰かが消えた。
別の場所から悲鳴が聞こえる。これで二人消えたらしい。一体どうして消えてしまうのだろうか。春香も、何時か消されてしまうのか。
しばらくすると独りでに扉が開いた。お腹を満たした人々は部屋を出て行く。残されたのは二つの料理と二つの腕輪。それらも、跡形もなく消えてしまった。
「ほら、あんたも早く来なさいよ。」
誰かに呼ばれて早々に部屋を出た。
また、通路を歩く。代わり映えのしない世界。この先にまた部屋が現れるのだろう。そして、誰かが消えて行くのだ。行きたくないが行かなければ終わらない。ただただ、進み続けるのだ。
四つ目の部屋が現れた。扉を開ければ体育館ほどの広さ。先に続く扉は見えない。
「上見ろよ。おい、何だあれ。」
春香は誰かの声で見上げた。順に灯る光の中に何か見える。あれは、扉か。扉から部屋の中央に向かって床が飛び出している。
扉と床を見つけたからといってここからはどうやっても辿りつけない。例えば床が上昇するとか。何か梯子が出てくるとか。
春香は素早く周囲を見た。何か嫌な予感がする。行き止まりの部屋、宙に浮いた出口と床。まさかこれは……。
一際大きな音が部屋に反響する。石と石をすりあわせた音だ。そして、眼に見える形でそれは現れた。石の壁が両側からせり出してきたのだ。いや、せり出してきただけなら予想出来た。問題はそれが一部だけでゆっくりということだ。これでは簡単に避けられる。高いところにある壁も一部せり出してきた。両側からせり出した壁がぴったりとくっつく。そのままなのかと思ったら勢い良く空気の抜ける音がして、接触した一部の石を除いてそれ以外は壁に引っ込んだ。残ったのは黒く四角い棒。平均台に見える。それが中心にある正方形の石と両側の壁を繋いでいる。
そんな平均台がせり出した壁の数だけ出来上がる。
次に現れたのは平均台を繋ぐ階段。これは平均台の間にある壁がせり出して出来た。平均台と宙に浮いた床の間にも同様に階段が現れる。これら階段の出現によって一つの道を出来上がった。行き着く先は、宙に浮いた床と出口。
「こ、これを通って行けって言うの。なんなのよ、何でこんな事しなきゃいけないのよ。」
出口への道は細く、落ちたら下は石の床。下手をすれば死ぬ。何故こんな危険な事をしなければならないのだ。
「危なくなったら平均台を掴めば落ちないだろう。やるしかない。」
気がつけば、男性グループが階段を登り平均台渡り始めていた。怒っても何も変らない。誰かが助けに来てくるなんて期待できないんだ。だったら、先に進むしかない。
一つ目の平均台は身長よりも高い位置にある。平均台から床まで目視で2メートルほどだろうか。二つ目以降はそれに階段の高さが加わっていく。
その時、悲鳴とともに鈍い音が聞こえた。平均台を渡っていた男性数名が落ちたのだ。彼らはぴくりとも動かず、そのまま消えてしまった。
「平均台に触れるな。触れたら回転しやがった。」
触れたら平均台が回転したらしい。回転すればバランスを崩して真っ逆さま。男性たちの考えた落下防止策がかえって危険な状況を作りだしてしまった。立ったまま進めということらしい。
平均台に触れば回転して落ちる。人間というのは誰もが同じような考えを思いつくもので、階段のところに居ながら平均台に触れる男が現れた。
結果は平均台に乗っていた人間全員が落下。平均台に触れた男は何が楽しいのか気持ち悪い笑いを周囲に振りまいている。まとまりのないこの場の全員がさらにバラバラになるのは簡単だった。やられたらやり返すように、落とし落とされる光景が続く。他人を疑い、恐怖して自ら落ちて行く者も後を絶たなかった。
春香は未だ床から上空に掛けられた平均台を見ていた。こういうものは最後まで参加しないことにしていた。勇気がないともいえるが、我先にとなる中に入っていくのが面倒だからだ。
「待って、みんな落ち着こうよ。このままじゃ全員ここで終わりよ。」
春香の言葉は階段を登った者には届かない。今は生きるか死ぬかの最中なのだ。床に残っている人の中には何人か反応してくれたがそれだけだ。
春香が何も考えず天井を見ていると。歓喜の声が部屋中に響きわたった。
「よっしゃクリアしたぞ。やった。」
最初に平均台を渡り始めた男性グループの一人のようだ。春香からはすごく遠い存在に見えた。あの場所に行けるのだろうか。
「ほら、あなたも早く来なさいよ。置いて行くわよ。」
ふと気がつけば床に居るのは春香だけになっていた。みんな階段か平均台の上に居る。一人ずつ平均台を渡り、残りは階段で待機。疑心暗鬼にならず相手を信頼すれば渡りきれるのだ。もし、バランスを崩して平均台に触れてもしがみつけば落ちない。その状態で反対側に渡りきれば良い。
春香も最後まで残った女性グループと一緒にこの細い道を進んだ。平均台というのは学校で行う分には良いのだが、いざこのような状況で行うと非常に疲れる。それは神経を研ぎ澄ませながら進むからだ。ほんの少しの体重移動が悲劇を招く。平均台を掴んで進む事もできるが、体力を奪われる上に目が回る。
春香は平均台のひとつを渡りきって階段に座り込んだ。これで何本目だろうか。残り平均台本数を数えるのも出口を見るのも止めた。残り本数に愕然とし、一歩も動きたくなくなるだろう。平均台の上で立ち止まると、いっそ落ちてしまいたい気持ちになる。その時は先に渡ったグループの人が声をかけてくれた。それで何とか再び動き出せた。お互い名前もよくわかっていないのに優しい。
春香が足のすくむ高さまで来ると、精神的にも体力的にも限界が近づいてきていた。平均台を渡ると休み、休むと渡るの繰り返しだ。高所恐怖症なので心まで削られていくような気がした。
「手触れるなよ。触れるなよ。」
一つ上の平均台の所から聞こえた。男性が渡っているところらしい。自分を安心させるために言っているようだ。
「それは振りか。振りなのか。」
春香の位置からは見えないが、他の男性が声をかけている。なんだか楽しそうだ。
「そんなわけねぇだろ。」
男性たちの笑い声が聞こえる。当初の空気とは違い、お互い声を掛けながら進むようになっていた。独りじゃないというのはこの場合凄く大切だと思う。
春香は何度も休憩を挟みながらすべての平均台渡りきった。最後の平均台を渡って階段に到達したとき、全身の力が抜けてその場に倒れてしまった。
「次の部屋で休めるよ。こんな所で寝てないでさあ立ち上がって。」
先に進んでいた人が戻ってきて手を差し伸べてくれた。春香はなんとか立ち上がると、宙に浮かんだ床を通って扉を開けた。
扉の先はまた部屋だった。この部屋は天井が高く、壁一面に沢山の扉がある。それらは階段や廊下でこの部屋と繋がっている。
「おやおや、やっと最後の一人が来たね。」
春香はどこからとも無く聞こえてきたあの男の声に周りをしきりに見た。そろそろ姿を見せろと言いたい。
「お疲れ様。疲れただろう。好きな部屋に入ってゆっくり休むと良い。空いているのは扉のプレートが青いものだ。時間が来たら教えるよ。じゃあね。」
「ちょっと待って。どういうことよ。私たちに何がさせたいの。」
一緒に居た女性が止めようとしたが構わず続けた。
「私たちが何したっていうのよ。なんで、こんな事しなきゃいけないのよ。」
どうしようも無い気持ちが体を満たす。何故こんな事をさせられているのだ。
「君はよく出来ている。だから、最後まで残って欲しいね。」
「ちょっと、それどういうこと……。」
男の声はそれ以降聞こえなくなった。春香は仕方なく一緒にいてくれた女性を見る。
「それぞれの扉の先に一人用寝室があるわ。先に着いた人はみんなどれかの部屋に入ってるの。じゃあ、私も行くわね。」
それだけ言うと女性は自分の部屋に戻っていった。一人取り残された春香は壁にある扉を見た。幾つぐらいあるのだろうか。いや、今は疲れたので休もう。
春香は近くにあった空いている部屋に入った。彼女は室内に入って驚いた。部屋はまるでホテルの一室のようで、お風呂場もトイレも完備されていた。まるで扉一枚で世界が違うような気がした。
春香はそのままベッドに倒れた。ふわりと良い匂いがする。
今日はもう休もう、難しい事は後だ。