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銀月のレガシー  作者: 七日
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◆第七章:女王の面影

挿絵(By みてみん)


 クレオラはルミナリアの市場で、熱心に洋服を見ていた。派手な装飾には目もくれず、実用的で丈夫そうな生地を選んでいる。おしゃれには無頓着な姉のことだ。きっと、故郷に残してきた妹フィーナへの土産だろう。小さな包みを手に取り、フィーナが喜ぶ顔を想像して、クレオラの口元には微かな笑みが浮かんでいた。


 楽しい時間は過ぎ、街はすでに夜の顔へと変わっていた。職人街の穏やかな灯りはすぐに途絶え、潮と、生臭い魚のはらわたの匂いが立ち込める、港区の迷路のような路地へと二人は足を踏み入れる。建物の窓から漏れる灯りはまばらで、ほとんどの道は深い闇に包まれている。


 ごろつきたちの潜めた話し声や、遠くから聞こえる誰かの怒鳴り声。ここは、昼間の賑やかな大通りとは違う、ルミナリアのもう一つの顔だった。


「大酒飲みのクラーケン亭」

 錆び付いた看板が、わずかな月の光を反射している。


「姉さん、ここでハイレディン公の情報を集めてみよう」

 リアムはそう言って、扉に手をかけた。


 扉を開けると、そこはむっとするような熱気と、安いエール、そして汗の匂いで満ちていた。低い天井の下、様々な人種の船乗りや、腕に無数の傷跡のある傭兵、そして、見るからに密輸業者といった風体の男たちが、所狭しと座り込み、大声で騒いでいる。


 二人は騒がしい船乗りたちの間をすり抜け、酒でべたついたカウンターへ辿り着いた。カウンターの中では、顔に古く醜い傷跡を持つ、大柄なバーテンダーが、黙々と汚れたグラスを拭いていた。


「注文は?」

 低い、しかし威圧感のある声が響く。


 リアムは一杯のエールを注文する代わりに、数枚の銀貨を、カウンターの上で、彼の目の前で滑らせた。酒代にしては明らかに多すぎる量だった。

 バーテンダーは、グラスを拭く手を止め、油断のない目で銀貨を見下ろし、それからリアムを無感動な目で見返した。


「港湾都市はハイレディン公が統治していると聞いている。彼に会うにはどうしたらいいか?」

 リアムの言葉に、酒場で数人の男たちが嘲笑を含んだ笑いを漏らした。


「お前ら、役人か?」

 バーテンダーは低い声で言った。


 その時、がたいの良い、ガラが悪そうな男が近づいてきた。彼は酔っているのか、足元がふらついている。男はクレオラのすぐ横のカウンターに、乱暴にナイフを突き刺した。刃先が木製のカウンターを震わせ、周囲の喧騒が一瞬途切れる。


「俺が教えてやるよ。そいつは海の底でも探しな。ここの港の支配者はカーマインだ。痛い目を見る前に、おとなしく坊やは帰りな」


 クレオラは静かに立ち上がった。その動きは無駄がなく、獲物を狙う獣のようだ。次の瞬間、彼女の拳が音速で男の顎を打ち抜いた。男は悲鳴を上げる間もなく、椅子ごと後ろへ倒れ込み、周囲の仲間たちを巻き込んで派手な音を立てた。酒場は一瞬の静寂に包まれた後、怒号とテーブルがひっくり返る音、割れたグラスの破片が飛び散る音で、一気に大乱闘の渦に巻き込まれた。


 リアムは、周囲の乱闘に巻き込まれないように身を護りながら、カウンターのバーテンダーに声をかけた。

「すまない、店を壊して。だが、カーマインについてもっと詳しく教えてくれないかな?」


「お前ら、後悔するぞ……!」

 低い唸り声がバーテンダーの喉から漏れた。


 クレオラはカウンターに突き刺さったままのナイフを掴み、いとも容易く引き抜くと、その切っ先をバーテンダーの喉元に当てた。刃先から冷たい殺気が伝わり、バーテンダーは息を呑んだ。


「わかった……! わかったから、やめてくれ!」

 彼は震える声で言った。

「俺はただのバーテンだ。案内しかやってねぇし、詳しいことは知らねぇんだ。だが……店の裏に、『血溜まりの路地』って呼ばれてる薄暗い場所がある。そこにいつも、顔に古い傷のある片目の乞食がいるはずだ……」


 バーテンダーは唾を飲み込み、続けた。

「そいつに、『梟の夜鳴きが、三度聞こえた』とだけ言え……それで、あんたが『客』か、そいつが判断する。俺から言えるのは、そこまでだ。頼むから、とっとと行け。面倒事をここに持ち込むな」


 リアムとクレオラは、騒然とした「大酒飲みのクラーケン亭」を正面扉から出た。

 その瞬間、店の奥の薄暗い席から、フードを目深に被った男が、すっと立ち上がった。クレオラの鋭い目は、その動きを見逃さなかった。


 クレオラはリアムに小さく合図を送ると、警戒しながら腰の剣に手を置き、いつでも抜けるように身構えた。


「何者だ?」

 リアムが低い声で問いかけた。


 フードの男は、ゆっくりと近づいてくる。そして、フードを上げると、その顔を露わにした。尖った耳を持つ、アールヴの男だった。彼はクレオラをじっと見つめ、息を詰まらせるほど驚いた。


「そんな……。女王陛下が、なぜこのような場所に……?」

 男は信じられないものを見るような目でクレオラを見つめた。


「陛下、なぜこのようなところに……。皆も、ずっと心配しておられます。どうか、お戻りください」


 クレオラはきょとんとした顔で、そのアールヴの男を見つめた。


「彼女は僕の姉さんだ」

「姉さんだと? 種族が違うではないか」


「義理の姉だが、子供の頃からずっと一緒に生活している。お前が言っている陛下とは、顔立ちが似ているのだろうが、全くの他人だ」

 リアムの言葉に、男はまだ納得がいかない様子だったが、自らを落ち着かせるように深く息をついた。

「貴殿の言うことはもっともだ。名乗り遅れたな。私の名はエリアス」


 エリアスは改めて二人に向き直った。

「カーマインの情報を求めていたな。カーマインのことは知っている。見た目は青年だが、ただ者ではない。『深赤の刃』と『銀の鍵』を支配下においている」


 エリアスはかつて助け出した男の子を思い出し、そう語った。


 リアムは息を呑んだ。「『深赤の刃』だと……?」


 リアムは深赤の刃のことを知っている。彼らは金さえ払えば、王族だろうと、悪魔崇拝者だろうと、誰の依頼でも受けるという。

 彼はエリアスの服装と、その佇まいから隠しきれない、ただならぬ気配に気づいた。

「なるほど。その服装と佇まい……まさか、レギオンの者か?」


「依頼者のことを、そう易々と話していいのか?」


「……かまわない。それより、お願いがある」

 エリアスはクレオラに真っ直ぐな視線を向けた。

「クレオラと言ったな。私を、あなたにお仕えさせてほしい」


 唐突な申し出に、クレオラは露骨に嫌そうな顔をして、小さく首を横に振った。

「すまないが、姉さんは困っている」

 リアムも、クレオラの意を汲んで断った。


「そうだな……。すまない。だが、カーマインという男は、見た目は青年のようだが、決してただ者ではない。気をつけろ」

 エリアスは最後にそう忠告すると、クレオラとリアムに丁寧に挨拶をし、諦めきれないような複雑な表情で、二人がバーテンダーに聞いた『血溜まりの路地』へ向かう後ろ姿を見送ったのであった。

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