◆第三章:王都の洗礼
グラドゥスと子供たちは、王城から続く大通りを抜け、活気あふれる市場へと足を踏み入れた。城下の道は綺麗に舗装され、行き交う人々の服装も、彼らが住む北の村とは比べ物にならないほど華やかだ。露店には色とりどりの果物や香辛料、職人たちの手による精巧な工芸品が並び、都市の豊かさを物語っている。フィーナは目を輝かせて珍しい品々を眺めているが、その喧騒の中、クレオラが不意に立ち止まり、リアムの服の裾をくい、と引いた。
「リアム……」
クレオラの視線を追うと、路地の入り口で、一匹の三毛猫が香ばしい匂いを放つ屋台をじっと見つめている。
リアムは心得たように、やれやれと溜息をついた。
「またですか、姉さん」
リアムは特に猫好きというわけではないのだが、不思議と猫の方から寄ってくる体質だった。逆に、動物の本能か、クレオラの持つ常人離れした気配を察してか、彼女が近づくと猫はすぐに逃げてしまう。そのため、クレオラはこうして弟を利用するのだ。
リアムがおずおずと近づくと、やはり猫は警戒するどころか、にゃあと鳴いてその足に頭をすり寄せてきた。喉を撫でてやると、気持ちよさそうにゴロゴロと鳴る。その光景を少し離れた場所から見つめるクレオラの、普段は固く結ばれている口元が、ほんの僅かに綻んでいた。
「……はぁ。この猫に好かれる力と、姉さんの剣の才能を交換できたらな……」
リアムの呟きは本心だった。父や姉の姿を見て、彼も剣の特訓に明け暮れている。だが、いざ手合わせをすると、父にはもちろん、姉のクレオラにも赤子扱いされるのが常だった。
父グラドゥス曰く、リアムには一歩踏み込む「勇気」が足りず、姉には剣が正直すぎると言われている。
四人は市場の賑わいを抜け、昼食をとるために一軒の酒場を見つけた。
「眠れるグリフォン亭」と掲げられた看板の、趣のある店だった。
木の扉を開けると、じっくり煮込まれた肉料理と、芳醇な酒の香りが鼻をくすぐる。昼間から酒を酌み交わす男たちの陽気な声と、隅の席でリュートを爪弾く吟遊詩人の穏やかな音色が満ちていた。
四人は奥のテーブル席に座り、店自慢だという肉のシチューを注文する。グラドゥスとクレオラは、それに加えてエールを頼んだ。
王に対する疑心で落ち込んでいたグラドゥスも、酒が進むにつれて本来の快活さを取り戻し、リアムの幼い頃の失敗談を肴に上機嫌で語り始めた。リアムは顔を赤くしてやめてほしそうにしているが、そんな一家のやり取りに、遠目の席で酒を飲んでいた兵士たちが気づいた。
アルドリックは、遠目の席からグラドゥスたちに目をやると、吐き捨てるように言った。
「おい、見ろ。あの騒いでる奴ら、王の知り合いだって話だ。あのアールヴの女、舞踏会のドレス姿も大したものだったな。側近連中はパートナーも放って釘付けになっていやがった」
隣の兵士が諫める。
「客将でしょう。絡むのはおやめください、隊長」
「なぁに。田舎者とアールヴが俺と同じ席にいるのが、そもそも気に入らねぇんだ」
豪快に酒を煽ると、アルドリックと呼ばれた男はグラドゥス達に近づいた。
「なぁ、俺も席に混ぜてくれよ」
「今日は家族での食事なんだ。すまない」
「俺はそこの女を誘いたいんだ」
グラドゥスが制止する。「クレオラ、相手にするな」
「相手にするなとはどういうことだ? 丁重に誘っているだけだろう。お前ら田舎貴族は他所へ行け! それと、耳長はこの国では奴隷だ! 貴族の言う事をよく聞くんだ」
クレオラはゆっくりと立ち上がり、無言でアルドリックの前に立った。その紫の瞳は、静かに、しかし鋭くアルドリックを捉えている。
アルドリックはニヤリと笑い、彼女を見下ろした。「ほう、大人しいアールヴの奴隷か。良い心がけだ――」
彼の言葉が終わるよりも早く、クレオラの体が動いた。
目にも止まらぬ速さ。
最初の一撃はアルドリックの鳩尾に沈み、鈍い衝撃が彼の言葉を途切れさせる。間髪入れず、クレオラの体は捻られ、二の矢が彼の顎を打ち上げた。強烈な衝撃に、アルドリックの意識が一瞬飛びかける。
それが終わりではなかった。三度、クレオラの足が地面を蹴り、今度は彼の蟀谷を正確に捉える。脳が揺さぶられ、アルドリックの巨体が前のめりに崩れ落ちた。
一連の動きは、ほんの一瞬の出来事だった。周囲の誰もが何が起こったのか理解できないほど早く、クレオラはすでに元の静かな佇まいに戻っている。
酒場は一瞬の静寂に包まれた。その静寂を、ぽつんと爪弾かれたリュートの弦の音が断ち切る。
皆の視線が音の主、隅のバードに集まると、彼は悪戯っぽく笑い、即興で歌い始めた。
「♪王都の兵は勇ましい
声の大きさ天下一
物言わぬ乙女の一撃に
ごろりと転がる木の実かな♪」
その的を射た滑稽な歌に、最初はくすくすと、やがて酒場中に大きな笑い声が響き渡り、場の空気は一気に和んだ。
「お前ももうやめておけ、娘をこの国で指名手配にしたくはない」
グラドゥスが、床で咳き込むアルドリックに声をかける。
「不意打ちをしただけだ! 外に出ろ!」
アルドリックが叫び、酒場の空気が再び張り詰めた、その瞬間だった。
それまでの喧騒や熱気が嘘のように、店内の空気がすっと冷え込んだ。近くのテーブルでは、エールのジョッキの縁が白く曇り始める。その異常な静寂と冷気の中、入り口から静かで、しかし芯の通った声が響いた。
「交代の時間ではないのか? 何をやっている、アルドリック」
声の主、騎士ヴァルガスの姿を認めると、アルドリックの顔から血の気が引いた。
「う……ヴァルガス卿……ただちに持ち場へ戻ります……」
彼はすごすごと部下を引き連れ、嵐のように去っていった。
場の空気が元に戻ると、ヴァルガスはグラドゥスの方へ向き直り、深く頭を下げた。
「グラドゥス卿、部下の無礼、失礼いたしました」
ヴァルガスは深く頭を下げ、陳謝した。
「問題ない。私のような田舎者が王の隣にいれば、気に入らないものも出てくるだろう。間に入ってくれて助かった」
グラドゥスが礼を言うと、ヴァルガスは無言で一礼し、静かに去っていった。
その背中を、クレオラだけが鋭い視線で見送っていた。彼女の紫の瞳は、目の前の騒動ではなく、今去っていった男の内に秘められた、凍てつくような力の気配を探っていた。まるで、次なる好敵手を見つけたかのように。




