◆第十章:黄金の天秤
『深赤の刃』のアジトを壊滅させた翌日、二人は何事もなかったかのようにルミナリアの街を歩いていた。
リアムは、活気あふれる港の方を見つめて言った。
「姉さん、僕も見てみたいものがあるんだ」
二人が向かったのは、巨大なガレオン船が停泊する埠頭だった。帆船のマストが森のように林立し、様々な国の言葉が飛び交う。リアムは、故郷の村では決して見ることのできないその光景に、目を輝かせていた。いつか自分も、あのような大きな船に乗り、未知なる海へ冒険に出る。それは、騎士になることと同じくらい、彼が幼い頃から抱いていた、密かな憧れだった。
宿に戻ると、リアムは部屋の中に人の気配がするのに気づいた。クレオラと視線を交わし、警戒しながら扉を開ける。
そこにいたのは、満身創痍のエリアスだった。彼は椅子に深く腰掛け、力なく項垂れていた。
「どうしたんだ!?」
リアムが駆け寄ると、エリアスはゆっくりと顔を上げた。
「……『深赤の刃』の者たちを、全員、始末してきた」
「そんなことを頼んだ覚えはない!」
リアムの声には、怒りよりも戸惑いが滲んでいた。
「クレオラ様」エリアスは、リアムではなく、ただクレオラだけを見つめて苦しげに息をしながら言った。「出過ぎた真似を、申し訳ございません。ですが、奴らが貴女方を襲撃する計画を耳にしたのです。女王陛下の面影を持つ方を、危険に晒すわけには……」
「だとしても、全員を殺す必要はなかったはずだ! 何か、他に方法は……」
リアムが言い募ろうとした、その時だった。エリアスが、静かに、しかし鋭くリアムを遮った。
「火種は、小さいうちに消し尽くさねばなりません。一人でも生かせば、それが貴女様の未来にどのような災厄をもたらすか。……その危険を、見過ごすことはできませんでした」
その言葉に、リアムは息を呑んだ。エリアスの瞳には、後悔も、罪悪感もなかった。ただ、クレオラを守るという、狂気的とも言えるほどの、揺るぎない決意だけが宿っていた。
リアムは、エリアスの覚悟に言葉を失った。
「……わかった。今は、この部屋で体を癒してくれ」
そう言うのが、精一杯だった。
リアムは、エリアスのための部屋を借りようと、階下の女将の元を訪ねた。
「すまないけど、今は部屋がいっぱいでね。お連れさんでも来るのかい?」
血を流し、深手を負った暗殺者を匿っているとは言えず、リアムは口ごもった。
「……わかった。無理を言ってすまない」
結局、リアムはクレオラと同じ部屋に戻るしかなかった。
「姉さんと同じ部屋になってしまった……。エリアスのやつ、勝手なことを……」
リアムが文句を言うが、クレオラはすでにベッドに横たわっている。
「僕は床に寝るから気にしないで」
だが、返事はない。
「……姉さん?」
リアムが覗き込むと、クレオラはすでに静かな寝息を立てていた。
(アールヴは睡眠を取らないって噂、嘘だろう。姉さんは人の気も知らないで……)
リアムは小さく呟くと、毛布にくるまり、床に横になった。
「おやすみ、姉さん」
朝が明け、食事を頼むと、女将から一通の手紙を渡された。
「あんたたちに手紙が来てるよ」
自室に戻り、封を開けると、そこには短い文面と、血のような赤い染みが付着していた。
『やってくれたな。
古い灯台、教会横の商人の家にて待つ。 カーマイン』
招待状ではない。エリアスの行動が、カーマインを激怒させたのだ。
リアムが部屋へ行き、手紙の内容を伝えると、エリアスは傷の痛みに耐えながら身を起こした。
「罠である可能性が高い」と、エリアスは即座に断じた。
リアムは反論する。「だが、お前が奴の手下を全員潰したのだろう?」
「そうだ」エリアスは頷く。「だが、カーマイン本人の力は未知数だ。『深赤の刃』の前のリーダーは、奴に惨殺された。それ以降、組織の者たちは、恐怖だけで奴に従っていた」
「罠だとしたら、『銀の鍵』が関わっていると?」とリアムはさらに尋ねた。
「それはないと思う。奴らは金が絡まないと動かない連中だ」
リアムは決意を固めた。「わかった。しかし、このまま雲隠れされる可能性もある。今回の機は見過ごせない」
エリアスは、その決意を止めようとはしなかった。「止めはしない。だが、十分に気をつけろ。……カーマインからは、人とは違う気配を感じる」
エリアスの忠告を胸に、リアムとクレオラは指定された場所へと向かった。
港の堤防を歩くと、古い教会と、その隣に一際大きな二階建ての邸宅が見えた。富豪が住むにふさわしい、壮麗な建物だ。表札には『黄金の天秤』と刻まれている。
(ここのことだろう)
正面の扉は、警戒していたにも関わらず、あっさりと開いた。
奥の扉を開けると、そこは広大な書斎のような部屋だった。そして、その中央に、車椅子に乗った青年と、一人の老人が立っていた。
「やぁ、お初にお目にかかるね。僕がカーマインだ」
リアムは警戒を解かずに答えた。「手紙を読んだ。どんな用件だ?」
カーマインは、楽しげに言った。「君達は僕を探していただろう? それに手下を全員殺した君達に興味を持った」
リアムは、その挑発に乗らず、本題を切り出した。「ルミナリアに不穏な動きがあると聞いた。この港町はハイレディン公が領主だろう。ハイレディン公をどうしたのだ?」
「ここは彼の家だ」カーマインは悪びれもせずに答える。「今は僕のだけどね。交易についても僕がやっているよ。王国には税金も納めている」
リアムは声を荒げた。「そんなことで許されるとでも!?」
「現王も簒奪者の身だろう? 僕と何か違うとでも?」
カーマインのその言葉に、リアムは返す言葉を失った。
カーマインは、クレオラに視線を移した。その瞳は、まるで彼女の魂の奥底まで見透かすかのように、細められる。
「ところでお連れの女性は、変わっているね。僕と似ている気がする」
その言葉に、それまで無表情だったクレオラの眉が、わずかに動いた。
リアムは、カーマインの言葉の真意を測りかねていた。(姉さんと、こいつが、似ている……? 一体、どういう意味だ……?)姉の珍しい反応も、彼の不安を煽る。
リアムは、その不気味な空気を振り払うように叫んだ。
「『深赤の刃』と『銀の鍵』を率いて暗躍していると聞いた。何を企んでいる!」
「君は色々知っているようだね。サンギーヌ、彼らをどうすべきかな?」
黙っていた老人が、ゆっくりと口を開いた。
「……王国の依頼かは分からぬが、これ以上関わるな。帰るが良い」
カーマインは、その言葉を聞いて、楽しそうにクツクツと喉を鳴らした。
「聞こえたかい? サンギーヌは、復讐すべき相手の手先である君たちを、逃がそうとしている。優しい男だろう? さて、君たちはその優しさに甘えるのかい?」
リアムは剣を構えた。
「お前を投獄し、全ての事情を聞くまでだ!」
カーマインは、心底残念そうに、小さく首を振った。
「君たちを気に入っていたが、チャンスを不意にしたようだね」
その言葉と同時、カーマインの体が、内側から爆ぜるように赤く染まった。少年の姿が風船のように膨張し、骨が軋み、肉が引き裂けるおぞましい音が響き渡る。
「逃げるんだ!」
サンギーヌの最後の理性が叫ぶ。カーマインの体はもはや人間のものではなく、禍々しい悪魔の姿へと変貌していた。
突然のことに呆然とし、リアムは立ちすくんだ。その体を、クレオラが突き飛ばす。
悪魔と化したカーマインが咆哮と共に手を凪ぐと、近くにあった巨大な本棚が、見えない力でリアムがいた場所を通過し、遠くの壁に叩きつけられて粉々に砕け散った。衝撃で部屋全体が揺れ、天井から埃が舞い落ちる。
(なんという力だ……! 攻撃を一つでもくらえば死んでしまう!)
クレオラは、その破壊の嵐の中を、疾風のごとく駆け抜けた。
悪魔の薙ぎ払う腕を、身を交わして潜り抜け、伸び切ったその腕に深々と剣を走らせる。
黒い血が飛び散り、悪魔が怯んだ一瞬の隙を突き、今度は低く身をかがめて膝の関節を的確に斬りつけた。
巨体がバランスを崩し、わずかに首が下がったところを、クレオラは見逃さない。彼女は踏み込み、がら空きになった首筋へと、渾身の力で剣を横薙ぎに振るった。
ザシュッ、という肉を断つ生々しい音と共に、悪魔の首に深い裂傷が刻まれ、黒い血が噴水のように噴き出した。
「姉さん、やったか!?」
リアムが希望の声を上げる。普通の生物であれば、間違いなく致命傷だった。
だが、クレオラがわずかに警戒を緩めたその瞬間、悪魔は驚異的な速さで再生を始めた。首の傷口から黒い煙が立ち上り、みるみるうちに塞がっていく。そして、体勢を立て直すよりも早く、悪魔は怒り狂ったように巨大な手を振り上げた。
クレオラは咄嗟に剣でガードするが、悪魔の想像を絶する膂力に弾き飛ばされ、壁に激突した。
「姉さん!」
リアムの悲鳴が響く。壁に叩きつけられた衝撃で、クレオラの腕はありえない方向に折れ曲がっていた。
だが、クレオラは、何事もなかったかのように即座に立ち上がり、折れていたはずの腕で、再び剣を構え直したのだ。
そして、悪魔が追撃の爪を振りかぶるよりも早く、反撃に転じてその手の指を数本、鮮やかに切り飛ばした。
その光景を、サンギーヌは唖然として見ていた。
(ありえない……。これまでカーマインに挑んだ者たちは、皆、一撃で肉塊に変えられた。だというのに、あの娘は……。悪魔の猛攻を、捌ききっている……? 人間業ではない……!)
絶望的な戦況の中に、サンギーヌは初めて、万に一つの可能性を見出した。
(あの娘ならば、あるいは……!)
彼は、最後の理性を振り絞って叫んだ。
「無駄だ、その傷はすぐに再生する! 斬撃では死なぬ! 体の中にある聖句箱を破壊しろ!」
リアムは、崩れたカーマインの体の一部を注視した。体の中央に、肋骨に守られるようにして存在する、禍々しい光を放つ箱が見える。
「姉さん! 体の中央だ!」
クレオラはカーマインの薙ぎ払いをスライディングで交わすと、がら空きになったその胴体に、渾身の力で剣を突き刺した。さらに、もう一つの予備の剣をその傷口にねじ込み、力任せに肋骨を破壊する。そして、その穴から、躊躇なく手をカーマインの体内に差し入れた。
「やめろ!」
カーマインが初めて、焦りの声を上げる。
クレオラは、その手で掴んだ箱を、両手で挟むように、万力の力で握り潰した。
カーマインのホムンクルスの身体は、甲高い悲鳴と共に、四散した。
だが、声だけが、部屋に響き渡った。
「身体は失ったが、これで私が死ぬわけではないぞ! 復讐は、必ず果たす。恐怖して、待つがいい!」
「よくやった! ホムンクルスの媒体である聖句箱を破壊し、悪魔の体を分離させたのだ!」
サンギーヌの声だった。
リアムは、その声の主へと向き直った。
「先程の助言には感謝するが、あなたはカーマインとどういう繋がりがあるのだ?」
サンギーヌは、崩れた書斎の惨状を見渡した。ハイレディン公がいたはずの場所には、禍々しい血痕が残るのみ。その無残な結末と、この騒動で命を落としたであろう者たち。その全てが、自分の行いの結果だった。
「……全て、私の罪だ」
彼は、か細い声で、全てを語り始めた。王国への忠誠、クーデターで失われた娘、そして、娘を取り戻したい一心で、自らが創り出したホムンクルスに宿る悪魔と手を結んでしまった、愚かな過去を。
「私の願いが、罪のないハイレディン公を死に追いやり、結果として、お主たちまで危険に晒してしまった。……全てが、私の計画が招いたことだ。これは、私の望んだ道ではなかった……」
サンギーヌの瞳からは、静かに涙がこぼれ落ちた。それは、娘を失った悲しみだけでなく、自らの願いが、さらなる血を流してしまったことへの、深い後悔の涙だった。
話を聞き終え、リアムが尋ねる。
「悪魔はまだ生きている。倒す方法はあるのか?」
「錬金術においても、そういった伝承は残っておらん……。だが……」
サンギーヌは考え込み、そして、閃いたように顔を上げた。
「だが、その方法を知っているやもしれぬ者に、心当たりがある。シルヴァリアの女王に会うのだ」
「シルヴァリア……」
王国の東、人族とは深い因縁があり、不可侵となっているアールヴの国。
二人の新たな旅が、始まろうとしていた。




