◆第九章:偽りの王子
テオドール王の指南役であった錬金術師サンギーヌは、王の代理として、東のアールヴの国シルヴァリアへ停戦の調停に向かっていた。数名の屈強な護衛の兵士たちに囲まれ、彼は馬を進める。やがて一行は、巨大な木々が壁のようにそびえ立つ、大森林の入り口にたどり着いた。
「お前たちは、ここで待て」
サンギーヌは、護衛の兵士たちにそう命じた。アールヴの聖域に、人族の武装した兵士を連れて入るのは、礼を失するだけでなく、無用な警戒心を煽るだけだと彼は知っていた。彼がこの困難な役目に選ばれたのも、アールヴへの敬意と、一人の学者としての純粋な知的好奇心を持っていたからに他ならない。
サンギーヌは馬を降り、一人で森の中へと足を踏み入れた。
すると、まるで待っていたかのように、木々の間から一人のアールヴの少年が姿を現した。まだ若木のように線の細い少年と、森の道に適した、足取りの静かな二頭の馬だった。
「あなたが、サンギーヌさんですか?僕の名前はコリン!エルデランさんから、大事なお客さんをちゃんと都までお連れするようにって、きつく言われてるんです。さあ、この馬に乗ってください!」
コリンと名乗った少年は、そう言うと、サンギーヌが馬に乗るのを手伝い、自らも軽やかに馬に跨ると、先導するように森の奥へと進んでいった。
光さえ通さぬほどに鬱蒼と茂る巨大な木々の間を、コリンは慣れた様子で馬を進めていく。時折、木々の間から淡い光を放つ小さな精霊たちが現れては消え、まるで森の呼吸そのものが形になったかのようだ。サンギーヌは、そのような幻想的な光景を、目を凝らして見つめた。
「サンギーヌさん、僕から離れないでくださいね。この森は、招かれざる人を迷わせるって言われてるんです。迷い込んだ人は、森の木にされちゃうんだって。怖いですよね!」
無邪気にそう語るコリンに案内され、サンギーヌは静かに馬に揺られながら、後を続いた。精霊たちの優しい光は、深い森の暗闇の中で、微かな道標となっているようだった。
やがて、視界が開け、息をのむほど美しい光景が広がる。
「着きましたよ!ここが僕たちの都、シルヴァリアです!」
コリンに案内され、サンギーヌが通されたのは、玉座の間ではなく、神木の一室に設けられた、静かな待合の間だった。しばらくして、部屋に入ってきたのは、女王とは違う、威厳のあるアールヴの男性だった。
「サンギーヌ殿ですな。長旅ご苦労だった。私が女王陛下の側近、エルデランだ」
エルデランと名乗ったアールヴは、サンギーヌを値踏みするように見つめた。その瞳の奥には、人族への深い不信の色が宿っている。
「女王陛下にお会いになる前に、いくつか、お聞きしたい。サンギーヌ殿、貴殿は、本気で我らと友好を望んでいると?」
サンギーヌは、エルデランの厳しい視線を真っ直ぐに受け止め、静かに答えた。
「…もちろんです。私は、ただ王の言葉を伝えに来ただけの使者ではありませぬ。一人の学者として、貴国と我らが、真の理解を築ける日が来ることを願っております」
その言葉に嘘がないことを感じ取ったのか、エルデランの表情がわずかに和らいだ。
「…よろしい。女王陛下がお待ちかねだ。こちらへ」
エルデランに案内されて通された玉座の間は、人族の王城にあるような、冷たい石と金で飾られた場所ではなかった。巨大な神木の中をくり抜いたような広大な空間で、天井の隙間からは柔らかな木漏れ日が差し込み、壁には光苔が星々のように瞬いている。空気は澄み渡り、清らかな水の流れる音だけが静かに響いていた。
その中央、巨大な木の根が絡み合って形成された玉座に、アールヴの女王が座していた。女王リリエル。幾世紀もの時を生きてきたという彼女の姿は、人族とは時の流れが違うことを、その存在だけで示していた。
「人族の使者よ。よくぞ参られた」
その声は、鈴の音のように凛として、それでいて森の木々のように、どこか物悲しい響きを持っていた。
サンギーヌは、一国の使者として、礼を尽くして頭を下げた。
「女王リリエル陛下にこうしてお会いでき、光栄の至りです。我が主、テオドール王は、貴国との長きにわたる戦いを終わらせ、友好関係を築きたいと切に願っておられます」
「友好、ですか」
リリエルは静かに呟いた。
「その言葉を、我ら同胞の流した血と涙の歴史を知って、なお口にしているのですか?」
その言葉は静かだったが、サンギーヌの心に重く突き刺さった。
「ええ、存じております。だからこそ、我々は過去の過ちを認め、新たな関係を築きたいのです」
「ならば、話は早い。我らも、あなた方との争いをやめましょう」
女王の意外な言葉に、サンギーヌは顔を上げた。
「それは、まことですか?」
「ええ。ですが、それは我らの意志ではありません。この森に住まう、古き神のご意志です」
リリエルは、まるで祈るかように目を伏せ、続けた。
「我等の創造神が、お告げを下さいました。…古の邪神が、その永き眠りから目覚めようとしている、と。その邪神の鼓動を感じ、創造神はこうおっしゃいました。『邪神の目覚めの前に、アールヴと人族が争うべきではない』と」
サンギーヌは、息を呑んだ。(邪神…。そのようなものが、本当にいるというのか?)
リリエルの紫の瞳が、再びサンギーヌを真っ直ぐに射抜いた。
「神の御心に従い、我らは無益な争いをやめる。その代わり、あなた方人族にも、誠意を示していただきたい。ドヴェルグとの交易を停止し、武器を放棄なさい。それが、我らが停戦を受け入れる、唯一の条件です」
(…神託、か)サンギーヌは、その言葉の裏にある真意を探ろうとしたが、今はやめた。理由が何であれ、アールヴが停戦を望んでいる。それだけで、テオドール王は満足されるだろう。交渉は成功だ。サンギーヌは、ひとまず安堵の息をついた。
***
謁見を終え、帰路につくサンギーヌの心は軽やかだった。コリンに案内されて森の入り口まで戻る道すがら、彼の頭の中は王への良い報告のことで満たされていた。
だが、森の入り口で待っていた彼の護衛たちの顔が、一様に強張っているのを、サンギーヌは訝しんだ。彼らの間には、見慣れぬ伝令兵が一人、汗だくの馬を休ませていた。
コリンが心配そうにサンギーヌを見つめる中、彼は護衛たちのもとへ馬を進めた。
伝令はサンギーヌの姿を認めると、駆け寄って膝をついた。
「サンギーヌ様!ご無事でしたか!」
「何があった」
「…テオドール王は、崩御なされました。アルベール公爵が、新たな王として即位を宣言…」
「なんだと…?」
「叙任式の最中に…。城では大きな混乱が…その…」
伝令は、言いづらそうに言葉を濁した。サンギーヌの胸に、冷たい予感が突き刺さる。
「…娘は、私の娘はどうした」
「…申し訳ありません。城の混乱の中…巻き込まれて、お亡くなりに…」
その言葉を最後に、サンギーヌの世界から、音が消えた。
彼は全てを失った。
サンギーヌは街人に変装して王都の片隅に隠れ家を構え、ただ娘の仇である新王アルベールへの復讐心だけを、心の支えに生きていた。だが、一個人の錬金術師に何ができる? 復讐を果たすには、力が必要だった。アルベールに反対する者たちを束ねる、大義名分となる「旗印」が。
サンギーヌは、かつてテオドール王に絶対の忠誠を誓い、今は引退して王都の下町で静かに暮らしているという、老将軍マルケルスの噂を思い出した。マルケルスはアルベールの簒奪に憤慨し、水面下で反対組織を作っている、と。サンギーヌは、この老将軍と接触することを決意した。
数日後、サンギーヌはしがない行商人を装い、マルケルスの屋敷の裏口を叩いた。
「…何の用だ。サンギーヌ殿。今の私には、新王に与する気も、旧王を懐かしむ気もない」
マルケルスの老いた瞳の奥に、消えぬ怒りの炎が宿っていた。
「王子は、生きておられます。今も、あの塔に幽閉されたままです」
マルケルスの瞳が、大きく見開かれた。
「…まことか」
「ええ。アルベールは、前王の血筋を絶やすことを恐れ、生かしているのです。あの方を救い出せば、我らの大義は揺るぎないものとなるでしょう」
「ならば、すぐにでも王子の救出に向かわなくては!」
「お待ちください、将軍」
サンギーヌは、その実直な行動を、冷静な声で制した。
「今は行動を起こすときではありません。救出の手はずは、すでに進めております。時を待つのです」
サンギーヌが依頼を終えてから数日後、彼の隠れ家に、一羽の伝書鳩が舞い込んだ。その足に結ばれた小さな羊皮紙には、たった一言だけ、暗号で記されていた。
『駒は確保。ルミナリアの港にて待つ』
計画は、成功したのだ。サンギーヌは、復讐の第一歩が踏み出されたことを確信し、静かにルミナリアへと向かう準備を始めた。
霧深いルミナリアの港、指定された倉庫に、サンギーヌは一人で足を踏み入れた。中には、アールヴの暗殺者エリアスと、フードを被った小柄な人影が一つ。サンギーヌは逸る心を抑え、その人影に近づき、片膝をついた。
「王子、ご無事でしたか。お迎えに上がりました。私です、サンギーヌです」
フードの少年が、ゆっくりと顔を上げる。その顔は、間違いなく前王の王子と瓜二つだった。
だが、少年は何も答えない。
ただ、サンギーヌをじっと見つめている。その瞳には、子供らしい怯えも、安堵も、何の感情も浮かんでいなかった。まるで、精巧に作られた人形のように。
(違う…。この瞳は、王子のものじゃない。…まさか。生きているはずがない。あのホムンクルスは、とうの昔に…!)
サンギーヌの血の気が引いた。目の前にいるのは、王子ではない。それは、サンギーヌが影武者として創り出したものであった。
サンギーヌは、背後でエリアスが油断なくこちらを見ている気配を感じた。ここで動揺を見せれば、全てが終わる。彼は、込み上げる絶望と恐怖を、年老いた顔の皺の奥に押し殺し、あくまでも優しく、慈しむように少年の肩に手を置いた。
「ええ、ええ。よくぞ、ご無事で…。さあ、参りましょう」
サンギーヌはエリアスの方へ向き直り、努めて穏やかに言った。
「…見事な仕事ぶりだ、エリアス殿。報酬は、約束通り支払おう」
隠れ家に戻ったサンギーヌは、マルケルス将軍へ宛てた密書を書き始めた。
『将軍、ご安心を。王子は、我が手で確かに保護いたしました。決起の準備が整い次第、ご連絡を…』
この密書が、アルベールへの復讐の狼煙となるはずだった。彼は信頼できる伝書鳩に、その密書を託した。
***
その頃、王都の中央広場には、鉛色の空の下、重苦しい沈黙が満ちていた。
即席の処刑台の上には、鎖に繋がれた老将軍マルケルスの姿があった。拷問の跡が痛々しいが、その背筋は折れず、民を見つめる瞳には、まだ確かな光が宿っていた。
広場を埋め尽くした街人たちは、皆、俯き、唇を噛み締めている。兵士たちの厳しい監視の目に怯えながらも、あちこちから、こらえきれない嗚咽が漏れていた。テオドール王に仕えた老将軍が、反逆者として処刑される。その理不尽な光景に、民はただ無力に悲しむしかなかった。
役人が甲高い声で罪状を読み上げた後、マルケルスは空を仰ぎ、最後の力を振り絞って叫んだ。
「簒奪者に、忠誠など誓わぬ! 正統なるテオドール王に、栄光あれ!」
その叫びも虚しく、黒頭巾の処刑人が、巨大な斧を振り下ろした。広場は、悲鳴ではなく、ただ静かな涙と、絶望のため息に包まれた。
***
サンギーヌが送った鳩は、二度と戻らなかった。
約束の返信日はとうに過ぎている。焦燥に駆られたサンギーヌが、裏社会の繋がりを辿って王都の情報を探らせた結果、もたらされたのは絶望的な知らせだった。
マルケルス将軍と、彼の率いる反対組織は、サンギーヌが密書を送ったまさにその頃、アルベール王の兵によって突き止められ、捕縛されていたのだ。そして、マルケルスは王都の広場で、見せしめとして処刑された、と。
サンギーヌの計画は、始まる前に、終わっていた。
旧王党派という最大の駒を失い、彼は完全に孤立した。サンギーヌは、絶望のあまり、その場に崩れ落ちた。
その時だった。
これまで部屋の隅で、人形のようにただ静かに座っていたホムンクルスが、ゆっくりと顔を上げた。そして、子供のものではない、底知れない声で、初めて口を開いた。
「復讐を、望むか?」
「何を…何を言っている! 貴様は……一体…」
サンギーヌは、恐怖と混乱で言葉を失った。
悪魔は、人形の顔で、楽しげに笑った。
「我が名はカーマイン 我の前で、願うのだ」
その言葉を聞いた瞬間、サンギーヌの脳裏に、アールヴの女王の言葉が蘇った。
『…古の邪神が、その永き眠りから目覚めようとしている…』
(まさか、本当に…。邪神は、存在するのか…?)
目の前の存在が、その答えであるかのように、静かにサンギーヌを見つめている。
全ての希望を失った今、彼に残された道は、一つしかなかった。
(…ああ、願うとも)
サンギーヌは、心の内で叫んだ。
(アルベールへの復讐を。そして、叶うならば、もう一度、娘の笑顔を…!)
その願いは、祈りとなり、彼の魂は、ゆっくりと、そして確実に、闇に染まっていくのだった。




