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銀月のレガシー  作者: 七日
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◆序章:赤き月の夜

挿絵(By みてみん)


 風が哭いていた。血のように赤い満月が、大森林の木々の隙間から、ごつごつとした岩肌を照らし出している。グラドゥスは、崩れた崖の下で意識を取り戻した。全身を打つ痛みに顔をしかめながら身を起こす。王の勅命は、塔から前王の息子である王子を連れ去ったとされる侵入者の追跡。それを追いこの禁断の森へ馬で分け入ったが、その結果がこの様だ。今は部下たちの安否もわからない。


 全ての発端は、数日前の王都の夜にあった。


 月明かりさえ届かぬ夜陰に乗じ、一人の侵入者が白亜の塔の壁を登っていた。その動きは影のように滑らかで、レギオンでも指折りの手練れであることが窺える。彼の任務は、ここに幽閉されている瓜二つの少年――王子とその影武者を「二人とも」無事に救出すること。


 警備兵の視線の死角を縫い、音もなく最上階の部屋の窓にたどり着くと、鍵を特殊な道具で静かにこじ開け、室内へと滑り込んだ。

 石造りの冷たい部屋には、ほとんど何もなかった。打ち捨てられたように埃っぽく、あるのは壁際に並べられた二つの粗末な寝台だけ。

 それぞれの寝台に少年がいた。一人は静かに横たわり、もう一人は隅で膝を抱え、闇の中で息を潜めていた。


 侵入者はまず、動かずに横たわっている少年に近づき、その首筋に指を触れた。

 脈はない。すでに体は冷え始めていた。

「……!」

 一人、死んでいる。完璧なはずの計画が、根底から崩れた。予期せぬ事態に、侵入者の呼吸が一瞬乱れ、思考が停止する。依頼主に、これをどう報告しろというのか。彼の眉間に、深い皺が刻まれた。


 だが、感傷に浸る時間はなかった。彼は舌打ちを飲み込み、即座に思考を切り替える。任務は半分失敗したが、まだ終わってはいない。

 侵入者は、膝を抱えたもう一人の少年へと向き直った。少年は微動だにせず、侵入者をただ静かに見つめ返してきた。その瞳には、子供らしい恐怖も驚きも一切ない。あるのは、すべてを見透かすかのような、年不相応な深い闇だけだった。


 その瞬間、歴戦の侵入者の背筋に、一瞬だけ得体の知れないものへの悪寒が走った。だが、彼は即座にその感情を思考の隅に追いやる。目の前の存在が何であれ、任務の遂行が最優先だ。


 彼は人差し指を口の前に立てて静寂を促すと、手招きで「来い」と示した。

 少年は、まるでその合図を待っていたかのように、音もなく滑らかに立ち上がった。その動きには、一切の無駄も感情の揺らぎもなかった。


 侵入者は少年を連れ、再び窓から闇の中へと溶けていく。王国の追手から逃れるため、彼らが目指すのは、人の理が及ばぬアールヴの聖域――禁断の森だった。


 夜が明け、王城の一角がにわかに騒がしくなった。

 塔の見張りの交代に来た一人の兵士が、最上階へと続く階段の踊り場で、物陰に倒れている同僚の姿を見つけた。居眠りを咎めようと近づいた彼は、同僚の首筋に刻まれた、針のような細い傷跡と、すでに失われた命の温もりに気づき、息を飲んだ。

 侵入者だ――。兵士の脳裏に最悪の事態がよぎる。彼は恐怖を振り払うように、塔の最上階、王子が幽閉されている部屋へと駆け上がった。案の定、厳重に施錠されているはずの扉は僅かに開いている。彼はためらわず扉を押し開け、室内に転がるもう一つの小さな亡骸を認めるや否や、責任者である警備兵長アルドリックの元へと転がるように駆け込んだ。

「へ、兵長! 見張りが殺害され、王子も……王子もおそらく……!」


 兵士からの錯乱した報告を受け、現場に急行したアルドリックは、影武者の存在を知る数少ない一人だった。部屋に死体が一つしかなく、もう一人の少年の痕跡が完全に消えていることを確認した彼の顔から、血の気が引いた。事態は単なる暗殺ではなかった。

 彼は自ら、王の筆頭側近である騎士ヴァルガスの元へと急いだ。

「ヴァルガス卿、緊急事態です」

 アルドリックから事の次第を聞いたヴァルガスは、その怜悧な表情を僅かに曇らせ、最終的にアルベール王の執務室の扉を叩いた。


「陛下、緊急のご報告が」

 ヴァルガスから報告を受けたアルベールは、手にしていた羽根ペンを置き、地を這うような静かな声で問い返した。「……何があった」

「はっ。塔の部屋にて、少年のうち一人が死体で発見され、もう一人の姿がありません。おそらく、侵入者によって連れ去られたものと……」


 アルベールの表情から感情が消えた。内心の動揺を完璧に押し殺し、彼は静かに、しかし抑えきれない怒りを声に滲ませる。

「……どちらが死に、どちらが連れ去られたかは判明したか」

「いえ、二人とも同じ顔、同じ背格好ゆえ、即座の判別は……」


「愚か者どもが!」 アルベールは激昂し、机を強く叩いた。彼の計算では、もっと静かに、そして完全に事が運ぶはずだった。予期せぬ侵入者は、彼の盤上を根底から引っ掻き回したのだ。「……どちらでも構わぬ。だが、私の許可なく盤上の駒を動かした罪は重いぞ! 直ちに城門を封鎖! 市内に潜んでいるはずだ、虱潰しに探せ!」

 アルベールは立ち上がると、窓の外に広がる王都を睨みつけた。

「――グラドゥスを呼べ。追跡にかけては、奴の右に出る者はいない。侵入者を追い、必ずや王子を取り戻させよ」


 王の勅命を受け、追跡部隊の指揮官に任じられたグラドゥスは、王の兵士たちを率いて侵入者の追跡を開始した。そして、彼らが禁断の森へと逃げ込んだことを突き止める。だが、森の奥深く、アールヴの聖域とされる領域へ踏み入った途端、木々の間から警告なき矢が雨のように降り注いだ。混乱の中、グラドゥスは馬を射られ、そのまま崖下へと転落。彼は、その森の奥で意識を失った。


 そして今、グラドゥスは折れた肋骨の痛みをこらえながら、闇の中に揺らめく淡い光に気づいた。それはまるで、彼を誘うかのように明滅していた。


 光に導かれた先は、小さな開けた場所だった。まるで命の残滓のように揺らめく光の中心には、苔むした岩に、気品のあるアールヴの女性が横たえられていた。その亡骸は傷一つなく、まるで眠っているかのようだ。そして、その傍らには、銀の髪を持つ幼いアールヴの子供が、まるで儀式を捧げるようにして座り込んでいる。その顔立ちは、横たわる女性をそのまま幼くしたかのように瓜二つで、生き写しのようだった。


 その静寂を破ったのは、獣の唸り声だった。闇から現れた数匹の狼は、その体が月光を浴びて淡く輝き、実体がないかのように揺らめいている。その瞳は、飢えた獣のものではなく、何かを成し遂げようとする冷たい知性を宿していた。

 グラドゥスは、その異様な光景を、狼の姿をした魔物が母の亡骸を祀る子供を食らおうとしているのだと瞬時に判断した。


「下がらんか、畜生ども!」


 グラドゥスは腰の大剣を抜き放ち、咆哮した。龍の一族の長たる彼の覇気は、並の獣ならばそれだけで竦み上がるほどだった。だが、狼たちはそれに臆する素振りも見せず、ただ冷たい知性を宿した瞳をグラドゥスへと向け、一斉に飛びかかってきた。常の獣とは比べ物にならない俊敏さと力。しかし、歴戦の勇士であるグラドゥスの敵ではなかった。グラドゥスの剣が狼の体を捉えると、しかし肉を断つ感触はなく、その姿は悲鳴の代わりに甲高い風切り音を残して光の粒子と霧散していった。


 最後の狼が消え去ると同時に、二人を包んでいた不思議な光もまた、名残惜しそうに闇に溶けていった。

 グラドゥスは、邪悪な魔物を退治した安堵のため息をついた。


 彼が振り返ると、子供は静かに彼を見つめていた。その紫色の瞳は、恐怖も安堵も映さず、ただそこにある全てを吸い込むような深淵をたたえていた。


 グラドゥスは剣を鞘に収め、ゆっくりと子供に近づいた。まず、眠るように横たわる女性の亡骸に深く黙礼を捧げる。そして、子供の前に屈み、目線を合わせた。

「もう大丈夫だ。怖かっただろう」

 武骨な彼の声は、不器用ながらも優しさに満ちていた。彼はその大きな手を、ゆっくりと子供に差し伸べる。

「俺はグラドゥス。お前を傷つけたりはしない。さあ、おいで」

 子供は差し出された大きな手を、感情の読めない瞳でじっと見つめていた。長い沈黙の後、おずおずと、その小さな手をグラドゥスのごつごつした掌の上にそっと重ねた。


 捜索を打ち切り王都へ帰還したグラドゥスは、王アルベールの前に膝をついていた。彼の腕には、森で保護したアールヴの子供が静かに眠っている。

「――面目次第もございません。侵入者を追い、やむなく森の奥深くへと踏み込みましたが、アールヴによる無数の矢の奇襲を受け、捜索隊は甚大な被害を受けました。侵入者の足取りは、その混乱の中で見失い、王子の行方も依然として掴めておりませぬ」


「行方が掴めぬ、だと?」 アルベールの声には、隠しきれない怒りが滲む。「つまり、まだあの小僧は森のどこかにいるということか」

「森はあまりに広く、深く……。これ以上の捜索は困難かと」


「任務に失敗したあげく、森の化け物の子を拾ってくるとはな」アルドリックが嘲るように言う。

 アルベールは苛立たしげに結論づけた。「アールヴどもが協力しなかったと申すか。奴らが匿っているに決まっている! ならば、答えは一つであろう。兵を増派し、森ごと焼き払え!」


 その冷酷な言葉に、グラドゥスは顔を上げた。

「お待ちください、我が王! たしかに彼らは我らの兵を殺めました。ですが、それは我らが先に禁を破ったが故。これ以上の侵攻は、彼らに全面戦争の口実を与えるだけです。大森林はアールヴの聖域。あの森での戦いが我々にとっていかに不利か、お忘れではありますまい」

 グラドゥスの実直な言葉は、しかし、王の逆鱗に触れた。

「黙れ、グラドゥス! いつからお前は、私の決定に異を唱えるようになったのだ!」

 王の怒声が、謁見の間に響き渡る。

「北の果て、我が領地の片隅で頭を冷やすがよい! 二度と私の前にその顔を見せるな!」


 それは事実上の左遷命令だった。クレオラと名付けられたその子は、グラドゥスが新たに治めることになった辺境の地で、彼の娘として育てられることになる。

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