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第2話 母の指導、愛の筆圧

母は、いつも私の「間違い」を見逃さなかった。


鉛筆を持つ手の角度、ノートの使い方、そして一文字の書き順にまで、鬼のような指導が飛んでくる。

逃げても無駄だった。彼女の赤ペンは、まるで裁きを下す剣のように、私のプリントに容赦なく走った。けれど、不思議と泣きたくなるほどのその厳しさの裏に、私は確かに「愛」を感じていた。


これは、まだ幼かった「私」が、母の筆圧と向き合ったある日の物語。


怒鳴られ、叱られ、それでも母の背中を追い続けたあの時間が、いつか“戦う力”の源になっていく。

――人生最初の「闘い」は、ちゃぶ台の上で始まったのかもしれない。


そして、今、アルバイトをしようとしている俺に母は再び「愛の指導」が始まるーー。

 しかし、面接をするにしてもまず、履歴書を書かなくてはならない。

 言わずもがなだが、履歴書というものを、俺はこれまで一度も書いたことがなかった。中学や高校で書かされた進路希望調査票とは、明らかに違う重さがある。

 この紙一枚で、自分を誰かに“売り込む”のだと思うと、妙に手が震えた。


 とはいえ、何をどう書けばいいのかまったく分からない。

 ネットで「履歴書 書き方」と検索してはみたものの、定型文ばかりが並んでいて、どうにもピンとこない。

 ましてや「志望動機」なんて、俺はコンビニでバイトをしたいというより、働いてみたいだけなのだから。


 ——そのとき、ふと背中に気配を感じた。


 「履歴書、書けそう?」


 母だった。いつからそこにいたのか分からない。

 俺の後ろに立ち、画面を覗きこんでいた。

 やわらかくもなく、冷たくもなく、どこか不器用な声だった。


 「……まだ。難しい、な」


 そう答えると、母は小さく頷き、台所の棚を開けた。

 ごそごそと何かを探し、数秒後、茶色い封筒と白い紙を取り出してきた。


 「これ、履歴書用紙。前にお父さんが使ってた余りがあるわ。あと、これが見本ね」


 封筒の中には、未使用の履歴書が2枚入っていた。

 見本は、どこかの就職冊子から切り取ったものらしい。


 「ありがとう……」


 俺がぼそっと礼を言うと、母は椅子を引き、俺の隣に座った。

 まるで、かつての夏休みの宿題を一緒に見てくれた日のように。


 「名前と住所、生年月日は分かるわね。問題は……志望動機、ね」


 俺はこくりと頷いた。


 母は少し考えるように視線を泳がせ、それから机の端にあったボールペンを手に取った。


 「志望動機は、別に立派なことを書く必要はないの。ただ……“あなただけの言葉”で書くことが大事なのよ」


 “あなただけの言葉”。

 そんなもの、俺にあるのだろうか?

 ずっと黙って、社会からも家族からも目を背けていたこの一年近くもの間に。


 「……自分を変えたくて、って、書いたら変かな?」


 俺が呟くと、母は小さく首を振った。


 「変じゃない。むしろ、いいと思うわ。最初の一歩を踏み出したい——それで十分だと思うわ」


 その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。

 何気ない一言なのに、まるで誰かに認められたような気持ちがした。


 「じゃあ、下書き、ここにしてごらんなさい。私、見ててあげる」


 母はそう言って、使い古されたノートを俺の前に置いた。

 俺は、恐る恐るペンを走らせた。


 ——家から近く、未経験でも働けると聞き、応募しました。

 ——働くこと自体にブランクがあるため、まずはできることから始めたいと思い、

 ——一歩を踏み出すきっかけにしたくて志望いたしました。


 書き終えた紙を、母がゆっくりと読んだ。

 しばらくの沈黙のあと、彼女はにっこりと笑った。


 「うん、いいじゃない」


 たったその一言で、涙が出そうになる自分がいた。

 俺は、母の前で泣き顔なんて見せたくなかったから、目をそらして誤魔化した。


     *


 その日の夜。


 夕食を終えて、父が風呂に入ったタイミングで、母が唐突に言った。


 「面接の練習、する?」


 「え?」


 「明日、面接でしょ? 練習くらいしておいた方がいいと思うけど」


 俺は戸惑った。

 まさか、そんなことまで母が言い出すとは思っていなかった。


 「……やる」


 母は少しだけ驚いたように目を丸くして、それから静かに笑った。

 「じゃあ、私が店長役ね」


 俺は姿勢を正し、母の向かいに座った。

 小さなリビングテーブルが、急に面接会場の空気をまとう。


 「では、まずお名前と志望動機をお願いします」


 母は低めの声でそう言った。

 思わず笑いそうになったけれど、俺は真剣に答えた。


 「○○○○と申します。コンビニでの勤務は初めてですが、生活のリズムを整え、社会に出る第一歩にしたいと考え、応募しました」


 母は首をかしげて、言った。


 「もう少し、あなたの言葉で話してごらんなさい。丁寧すぎると、逆に嘘っぽく聞こえるの」


 「う、うん……じゃあ……」


 「緊張しすぎないで。面接官も、ただ“あなたがどんな人か”を知りたいだけよ」


 母は、そう言ってお茶を差し出してくれた。

 緊張が少しだけほどけた。


 その後も、「勤務できる時間は?」「シフトはどのくらい?」などのやり取りが続いた。

 時に笑い、時に詰まりながら、俺はたしかに“自分”を話していた。


 「……練習、してよかった。ちょっと、気が楽になった」


 そう言うと、母はふっと目を細めた。


 「ほんとはね、何度も言おうとしたの。バイトしてみたら? 面接の練習しようか?って……でも、怖かったの。あんたを追い詰めてしまうんじゃないかって」


 静かな声だった。

 でもその言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。


 「ごめん、迷惑ばかりかけて……」


 「いいの。今こうして、向き合ってるじゃない。——それだけで、十分よ」


 母のその言葉は、どこか泣きそうな声だった。


 気づけば、俺も、泣いていた。

 大粒の涙ではない。頬をすっと伝う、静かな涙。


 この人のために、いや、自分のためにも俺は、変わらなきゃいけない。

 この人がいてくれることを、当たり前にしちゃいけない。


     *


 翌朝、履歴書を封筒に入れ、ネクタイを締めた。

 髪も整え、顔を洗い、鏡の前で深呼吸をする。

 母が作ってくれたハムエッグと味噌汁を流し込み、玄関で靴を履いたとき、

 背後から母の声が聞こえた。


 「行ってらっしゃい」


 その声は、どこまでもやさしく、どこまでも背中を押してくれた。


     *


 この日、俺は人生で初めて、“社会”という場所に踏み出した。


 たかがコンビニバイトの面接。

 でも俺にとっては、それが何よりも大きな戦いだった。


 母の言葉、母のまなざし、母の時間。

 そのすべてが、俺の心の奥に“火”を灯してくれていた。


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