自分の”面白い”は伝わることの方が少ない
こんにちは。砂石 一獄です。
長らく更新していませんでしたが、話す内容がなく放置していました。
なので、ひとまずこの回を最終回とさせていただき、一区切りしようと思います。
もし、何か新たな話題等が見つかれば再更新するかもしれませんが、現時点では未確定です。
今回は、どちらかというと私自身の経験則から語っていこうと思います。
駄文となりますが、お付き合い願えれば幸いです。
----
さて、ep1~3にかけて、面白いとは、面白くないとは何か。について語ってきました。
いずれも、”よりよい創作物を生み出すために欠かせない要素”です。
しかし、本文を否定するようですが。
「自分の面白いは、ほとんど他人には伝わらない」……そう、私は考えています。
元来、私は元々小説界隈ではなく、イラストやアニメーションを主体として創作活動を行っています。
そうすると、”これなら受けるはず”と思って作ったものよりも、”ちょっと息抜きに描くか”と思って作ったものの方が評価が高くなる……というのはよくあります。これは小説でも同様かな……と思いますが。
つまり。
いくら、理論を重ねたところで。
いくら、創作論に従って作品を作ったところで。
伝わらない時は、とことん伝わりません。
それどころか、意図していない部分がウケて、想定外の方向へと活動方針を転換する——と言ったこともあると思います。
では、創作に関する勉強をする意味はないのかと言えば、そうではありません。
そうした”意図していない部分がウケる”というのは、”創作物全体のクオリティが高く維持されている”からこそ生じるものだと考えています。
身も蓋もないことを言えば、”そもそもクオリティが低い作品は見向きされることすらない”と言えるでしょう。
……書いていて、辛くなってきました。
なんというのか、鋭利なブーメランをキャッチし損ねたような気分です。
……はあ。
話を戻します。
イラストやアニメーションは、クオリティが画力として明確に現れます。視覚情報として、明確に変化が生まれる為に成長を実感できます。
しかし、小説等の文章の類は成長をどうにも実感できない。
視覚情報ではなく、文字を介した情報伝達が行えるか、行えないか。
文章はどうにも成長を実感しづらい部分があるのではないか、と考えます。
表現技法を会得したり、ストーリーの構成能力を会得したり、作品のクオリティを上げる方法は多岐にわたります。ですが、何を以て”小説のクオリティが高くなった”と考えるべきか……一先ず、私の中である程度の考えを示します。
それは”要素の分解が可能かどうか”に辿り着くのではないか、とひとまず結論付けました。
「要素の分解とはなんぞや?」
これに関して、ある程度の言語化を試みます。
例えば、一枚のイラストがあるとします。
広大な自然の中。
両手を広げて楽しげに笑う、陽光に照らされた純白のワンピースを纏ったあどけない少女。
原っぱを花々が彩り、蝶が舞い、水溜まりというキャンパスには青空が描かれている。
実際にそれを用意する画力が無いため、文章で打ちました。
すみません。
イラスト一枚にしても、様々なストーリーが描かれています。
配置された小物、キャラクターの視線、姿勢。そうした動作の一つ一つが意味を持つことで、初めて全体が彩られ、作品のクオリティを向上させる……と思います。
言い換えれば、”すべてのものに意味を持たせる”ことにより、作品全体が纏まりを生み出し、より良い作品を生むことに繋がる……と言えるわけです。
さて、本題に戻ります。
本題は、”自分の面白いが他人に伝わることは少ない”という話でした。
これはつまり、”全体のクオリティが高いからこそ、想像もできないようなところから需要が生まれる”……という結論に至ること出来るのではないでしょうか。
これにより「○○が流行っているから」という理由だけでは、読者の心を完全につかむことが出来ないことも説明づけれると思います。
徹底した基礎技術や、徹底した文章構成能力を以て初めて、その作品は色を生み出す。私はそう考えています。
……と言う訳で、これからも作品のクオリティ向上のために、執筆を頑張っていきます。
ひとまずは、本作品はこれにて終了といたします。
(そろそろ未完のまま放置するのも嫌になってきたので)
お疲れさまでした。
砂石 一獄