7「どちらさまですか?」
「?!」
ブランカが驚いたのは一瞬だった。
いつの間にか立ち上がってアルマが、ブランカの壁になっているからだ。
けれど、間違いなかった。
森の木々の合間から現れたのは、十一年来の「魔女の飼い主」であり、一応幼なじみのレオだ。しかもその後ろに長身で陰気な「兄」のヴィートもいた。
ブランカに脱走方法と生きていく術と、さらにこの森にどうやってか家をプレゼントに送ってきた魔法使いだ。
「どちらさまですか?」
涼やかで透き通った声で、アルマが声をかける。
なるほど、どうやら「知らんぷり作戦」かもしれない。
ブランカは全てにおいて頼もしいアルマの羽の生えていない背中をきらきらとした目で見つめる。さすが天使。
「……お前こそ誰だ」
レオが答える。
あの綺麗な形の目と眉を歪めて、また意地の悪そうな顔をしているのだろう。見なくともわかる。令嬢たちの前では整えた黒髪で優しく微笑むくせに、ブランカにはいつもそんな顔で見下ろした。
「ふ」
アルマが笑う。
「ふふ。妙なことを言うね。勝手に入ってきてその言いぐさ? で、どちらさまですか?」
強い。
私の天使はかなり強いぞ、とブランカはひっそりと感動する。
「それの飼い主だ」
「それとは、なに?」
「その魔女だよ!」
傲慢なレオの声が響く。
ブランカは黙っていられなくなって立ち上がった。アルマの隣に立って追い返そうとしたが、アルマはあっという間にブランカの腰を取って軽々と抱き寄せた。ついでに、そのふわふわな金髪の頭が、ブランカの肩にこつんと寄せられる。
「この人はもう魔女じゃないよ」
甘く、それはもう甘く微笑んで、「ねえ?」とブランカを見上げる。あまりの可愛らしさに思わず頷くと、アルマは腰を抱いていない手でブランカの手を取って手の甲に口づけた。
「……ひゃあ」
ブランカが小さく漏らした声に、アルマはくすくすと笑う。
ものすごく楽しそうなその顔に、レオに連れ戻されるかもしれない、という不安が不思議と溶けていった。
ブランカがアルマを見れば、なだめるような視線を向けられた。
ああ、安心させてくれているのだ。
ブランカはほっと身体の力を抜く。
「そういうわけで、帰ってくれる?」
アルマがレオへ悠然と言い放つ。
ブランカは、ふとレオの後ろに立つヴィートと目があった。
灰色の髪に、青いレンズが入った丸眼鏡。相変わらず無表情だが、目は青いレンズ越しに「いいから誤魔化してください」と言っていた。
どうやら、ヴィートが連れてきたわけではないらしい。
「レオ」
ブランカが声をかけると、硬直していたレオはハッとしたようにブランカを見た。
「……アリス、」
「レオ。ここは――天国なの」
何かを言い掛けたレオの言葉を遮ったブランカは、苦し紛れの嘘を堂々とついた。
誤魔化すならこうするしかない。
アリスと名乗った魔女はもう死んでいることになっているのだから、だったらここは天国なのだ。天国でしかない。
アルマが掴んだままのブランカの手の指を一本ずつ愛でながら、「ああ、なるほど」と呟く。それは呆れているのか感心しているのかわからないが、ぎゅうっと身体を抱き寄せる力は全く弱まらなかった。
「……は?」
間の抜けた声が宙に浮く。
そうだろう。そうなって当然だが、それでもブランカは譲らない。
押し通すしかなかった。なので、もう一度言う。
「私は死んだの。で、ここは天国、です」
「……天国?」
「私の天使もいるの。ね? 天国でしょ」
ブランカはアルマを紹介するように見せた。
どこの誰がどう見ても天使だ。内側から光っている。
レオも一瞬だが黙った。
だが、しっかりと後ろの自分に忠実な魔法使いを頼る。
「……ヴィート?」
「天国です」
よし、のった。
「ヴィート」
「アリスのいう通り、ここは天国です」
「ヴィート」
「あなたまで死んでしまう前に帰りましょう」
ヴィートはレオの腕を掴んで一歩下がらせる。
そうしてブランカと視線を合わせ、何かを言いたい様子だったが、全く分からないので取り敢えず頷いておいた。げんなりとした顔が返される。
「では、別れの挨拶を」
なるほど。
ブランカは未だに隣から抱き寄せてくる天使をなだめながら、ヴィートに促されるままに、さよならを伝える。
「レオ。十一年、お世話になりました。私は天国で元気に過ごすから、どうかあなたもお元気で」
「……は? いや」
「恨んでないから、大丈夫だよ」
疑惑に染まっていた顔が、ブランカの最後の一言で表情が変わった。
変わったと言うよりも、突然無防備になったのだ。
なんだかその顔を見るとレオが気の毒に思えて、ブランカは何とも言えない気持ちになる。
初めて会ったときの十二歳だったレオに再会したようだった。
そういえば、最初から暴君で女好きだった訳じゃなく、ヴィートととも魔法だけでなく、読み書きを教えてくれた時間だってあったことを思い出す。
「……アリス」
手をつないで庭を走り回ったこともあった。
初恋が、そこにあったような気もする。
「さようなら、レオ」
ブランカがそう言えば、二人は森から追い出されていた。
今まで立っていた場所には静寂が訪れる。
「……ふう」
ブランカはようやく力が抜けた。
抱きしめられていたおかげで、ふらつくこともなかったが、力を抜いたせいで余計アルマの腕の力が強くなる。思わずブランカの口から「ぐえ」と情けない声が漏れた。
「ああ、ごめん」
と言いながらも、全く「ごめん」という顔はしていない。横からしがみついている力を緩めて、アルマがちらっと見上げた。
まつげが金の糸のように輝いている。
「あいつ、誰?」
微笑むような顔で聞いてきたアルマに、珍しくブランカは察した。
「レ、レオ、だ、よ?」
「うん。だからブランカの、なに?」
「元飼い主。うん、ただの元飼い主で、一応、一緒に育ったような、感じかなあ」
「好きだったりしたか聞いてるんだけど? 初恋とかじゃないよね?」
「な、なに言ってるの、違うよー!」
ブランカは即座に否定した。
初恋がそこにあったような気もする、と思っただけで初恋ではない。
違う。
絶対に、違う。