6 「アリス」
「私、アルマがいなかったら生きていけなかったんだろうなぁ」
ほとんどアルマが作ったトマトスープと、アルマが焼いたパンを夕食に二人で食べ、アルマが今日買ってきた布を裁断し終えてから二階へ上がった。
ベッドに寝ころび、ブランカは言う。
眠るときの白いワンピースだって、アルマが作ったものだ。
気がつけば衣食住をアルマが担っている。
「ねえ、何かできること、本当にない?」
ベッドに丸まるブランカを、ベッドの隣にある机で裁縫をしていたアルマがちらりと見る。手元には水晶灯が転がってアルマの手元を照らしていたが、アルマはそれに陶器の器をかぶせて灯りを消した。
寝室の中の灯りは、窓から入る泉の上にある黄水晶からの光だけになる。
アルマが裁縫をしていた針を布に刺し、それから慈しむように布を畳むと、ベッドにそうっと入ってきた。少しだけ冷たい身体を、ブランカは撫でる。
向き合ったアルマは、ブランカを見て微笑んだ。
「ブランカが生きてくれているだけでいいよ」
「なんか壮大だね?」
「……じゃあ、僕がいなきゃ生きていけないようになって。それが僕の望み」
アルマはすっと手を伸ばし、ブランカの頬を撫でる。
そのまま、首筋に。人差し指で首を引っかかれた。
「アルマ」
「んー?」
「く、くすぐったい」
「……くすぐったいかあ」
残念そうに笑って、アルマはブランカの肩を押してくるっとひっくり返すと、後ろから抱きしめるように巻き付いた。
こうしてアルマに後ろから抱えられて眠るようになったのは、いつからだろう。
最初は、ベッドが一つしかないので、どちらもお互いを床の上で寝かせることができず、取りあえず離れて寝ていたはずだ。それが、一ヶ月経てばこうなっている。
「ねー……ブランカ」
耳元でアルマが囁く。
「なあに」
「ブランカは誰かを愛したことがある?」
背中にアルマの声が響く。ブランカの手を上から握ったその力が、聞きながら少しだけ強くなった。
人を、愛したこと。
ブランカは考える間もなく、その指をきゅっと握り返した。
「ないなー」
「……本当に?」
「本当、本当」
「そう……誰も愛したことがないなら、いいや」
「なあに、それ」
ブランカがくすくす笑うと、アルマは無邪気にブランカの後頭部に額をすり寄せて呟いた。
「だって、僕、そいつを殺しちゃう」
そう言って、ブランカを抱きすくめる。
ブランカは「そっか」と納得したように笑うと「じゃあ誰も死ななくて良かったね」と頷いた。
背中のアルマが笑う。
「……ふ。ふふ。ブランカって」
「なあに?」
「子供みたいだなって」
だからすごく怖い、と言いながら、アルマは眠りについた。
ブランカは目が冴えていたわけではなかったが、アルマの言葉を漫然と考えていた。
子供。
そんなこと言われたことなかった。
なぜこんなにも嬉しいのだろう。ブランカの頬がふわりとあがる。嬉しい。花を咲かせなくても、自分はこうして人として扱われるのだ。
○
朝はパンにリンゴのジャムを塗って、トマトとレタスにマーマレードで作ったドレッシングをかけて、二人は家の外で朝食を取った。
畑の横にアルマが作ったウッドテーブルのセットがあり、朝はいつもここで食べている。
「ブランカ」
「はい、なんでしょう」
スライスされたトマトをフォークで刺しながら首を傾げる。
アルマは畑をじっと睨んでいた。
「魔法使ってないよね?」
アルマがそう言うのも無理はない。苗を植えて一週間、もう小さな実がついていた。昨日はついていなかったし、実の付きかたも不自然だ。トマトやなすは二つずつ実がなっていて、地中に埋めたジャガイモやタマネギや人参も植えた中の一つだけ、明日にも収穫できそうなほど成長しているのが見てわかる。
さすがにブランカでもおかしいのはわかった。
でも、無実だ。
「使ってないよ。アルマに誓って、この畑に魔法は使っていません」
リンゴジャムも、ドレッシングもキラキラと光っている。
おいしいものを前にして、人は嘘などつけない。
アルマはブランカを下から見上げるように見つめて、ふっと笑った。
「ん。わかった。信じる」
「ふふ。ありがとう。でも、やっぱり変だよね? 黄水晶かな」
ブランカは柔らかく光る泉の上の水晶を見て言う。
あの泉は不純物が無くて透き通っているので、食事に使う水に使わせてもらっている。畑に水を撒くときももちろん使っていた。
「そうかもね。僕らのために実がついてるなら、これから毎日二人分だけ収穫できるのかも。保存しにくい野菜も育てられるといいな」
「あ。じゃあ、買い物に行くこと少なくなるね」
ハッとしたブランカがにこにこと嬉しそうに笑うと、アルマは指に付いたジャムを舐めて「嬉しそうだね」と聞き返してきた。
「だって、一人で待っているのはつまらないんだもん。アルマがいないと寂しいし」
「もう買い物には行かない」
「そうじゃなくて、一緒に」
「ブランカは絶対にここから出ちゃダメだよ?」
笑顔の圧に負けて、ブランカは「はあい」と力なく頷く。
確かにここが一番安全だ。ここから出て、同族に「魔女」だと見抜かれたら、この生活には戻れない。次はどこかの屋敷で消費される生活しか待っていない。再びアリスになるなんてまっぴらごめんだった。
アリスという名前には特に思い入れもないし、アルマにブランカと呼ばれるのが一番嬉しい。
アリス。さあ、花を咲かせてくれ。
レオの傲慢な声が聞こえてくる気がした。
アリス。
アリス。
「――アリス?」
空耳まで聞こえてくる。ブランカは、十一年のつきあいの長さにほとほと嫌気がさした。レオは確かに見た目だけはよかったが、ブランカを顎の先で使ったし、ブランカへのあたりはキツかった。やれ、花を咲かせろ、花を咲かせろ、花を咲かせろ。それもいつも違う令嬢にプレゼントするためだ。
あれで頭が切れなければ、馬鹿で愚かな貴族の跡取りと蔑めたというのに、ブランカの魔法を金に換えたのは誰でもないレオだった。
「はあー、嫌ね。変なこと思い出しちゃった」
いつもなら、そうだね、と肯定してくれるアルマが黙っている。ブランカが顔を上げると、アルマは森の一点を見つめていた。
その視線を追う。
「アリス」
そこに、ブランカを「アリス」と呼ぶ幼なじみである元飼い主が呆然と立っていた。