30「優しく聞かないで」
レオが帰った後のアルマは、至って普通だった。
裁縫をして、隣のブランカを時折撫でて、夜は卵でオムレツを作ってくれた。
ベッドに入るまで普通で、二人で並んで寝ている今も普通だ。
後ろから巻き付いて、ブランカのおなかのあたりでゆるく手をつないでいる。
「あの、アルマ?」
ブランカは恐る恐る声をかけた。
「んー。なあに」
声もいつも通り。
それでも、ブランカは落ち着かない。
きっと、そうだから落ち着かないのだ。
「アルマ」
「どうしたの?」
「その、あの」
言いよどむブランカの首筋に、アルマがすり寄って「ふ」と笑った。
「……大丈夫、怒ってないよ」
「どうして?」
どうしてわかったのか、とか、どうして怒っていないのか、とか。
ブランカはぐるっと後ろを向いて、アルマと向き合う。
薄暗い寝室の中で、アルマの目をじいっと見つめれば、その瞳はじわりと輝いた。
「……もしかして、怒ってるの?」
と、目を丸くしたアルマが聞く。
ブランカは思わず髪で顔を隠した。
「なにそれ。かわいいね」
「レオと二人きりにしたのはどうして」
髪をきゅっと握る。
アルマは少しだけ黙った後に、ブランカの頭をそっと撫でた。
「……少し、二人で話す時間が必要かと思って」
「そんなのいらない」
「ブランカ」
「だって、昔のことを知ったってどうしようもできないのに」
「――何を聞いたの? 君を揺らすこと?」
確かに揺れた。
ブランカの知らない場所が、小さく軋むように揺れた。
レオの中身を知ったのは初めてだったのだ。
ヴィートにも言えずに、婚約について罪悪感を持っていたらしいことも、必死でお金を稼いでいたわけではなく、身動きのとれない中でそうするしか道がなかったことも、死んだと聞いて悲しんでくれたことも。
「知らなくてもいいことだった?」
「……レオが言いたいなら聞くって言ったし、聞いたけど」
「うん」
「でも、どうしようもないでしょ。それは変わらないもの。いくら好きだと言われたからって、レオとはどうにもなれない」
「どうにかなりたかった時があるの?」
「優しく聞かないで」
ブランカは苛立った。
勢いのままに、アルマにぐいっと頭を寄せて首筋に顔を埋めるように抱きつく。
「……かわいい」
アルマが笑う。
それも、とても幸せそうに体を揺らしながら、ぎゅうっと優しい力で抱きしめ返してくれている。
その心地のいい揺れは、ブランカをようやく安心させた。
「ブランカ」
「……なあに」
「怒らないで聞いて。君の言うように、レオの本心を聞いたって、もうどうしようもないし、戻れもしない。だから、それを知った上で彼を拒否してほしいんだよ」
甘ったるく言われて、ブランカは目が覚めたような気がした。
それなら、すでにしてきた。
ブランカはアルマに抱きついたまま、ちらりと顔を上げた。
輪郭の美しいラインの先で、唇が薄く笑んでいる。
「い、言ったよ?」
「そう。なんて言ったの」
「婚約破棄をしたいって」
「いい子だね」
アルマが顎でブランカの額をくすぐるように撫でる。
「アルマ以外と結婚はしないって、ちゃんと言ったから」
「うんうん」
アルマの手が、そうとブランカの背中をとんとんと叩く。
まるで子供に言い聞かせるように、耳元で優しく「ねえ」と言った。
「受け入れればいい。ブランカは得意でしょ? 流されたんだよ。レオもレオの流れに流されて生きてきたんだ。君には無関係なことだよ。彼が自分でどう流されるかを決めてきた。その結果が今。それをそのまま受け入れてあげたらどうかな」
ブランカは目をまるまると見開いて、アルマの顔を見上げる。
そう言えば、下からアルマの顔を見るのは初めてだ。
顔を覆うふわふわな金髪が垂れ、隙間から見える通った鼻筋や、伏せた睫、その全てが内側から輝いているように見えるほど美しい。
そして何より、見たこともない男の人に見えた。
思わず、ぼんやりとその顔を見つめてしまう。
「……ブランカ?」
そうっと目を開けていくその美しい目元に、ブランカは見入りながらどうにか「うん」と絞り出した。
「うん。そうする。うん」
「? どうしたの」
「ううん。アルマの言う通りだなって思って」
「ふふ。本当に君は」
アルマがそう言って、深く抱きしめるようにして笑う。
その声の響きを身体で感じながら、ブランカは安堵した。
「……よかった」
「ん?」
「アルマ、普通だったから」
「普通って?」
「レオと二人きりでいたのに、全く気にしてなかったから、寂しくて」
「そっかあ」
「なんで嬉しそうなの?」
「だってうれしいから」
くすくすと笑う声は、天使の囁きのようだ。
「僕に妬いてほしかったんでしょう。それがうれしくないわけない」
「……視界から消えるのは、怖いことだから」
今までこちらを見ていた人が、突然こちらを見なくなった瞬間から、まるで自分が存在していないような気がする。
「レオにされてもどうにもなかったけど。アルマがそうなるのはイヤ」
「そっか。ごめん。でも、やっぱりうれしい。ブランカがくれる言葉なら、どんなものでも嬉しい。だから、何でも話していいんだよ」
背中をとんとんとリズミカルに叩かれて、ブランカは安心感から身体の力が抜けていった。ついでに、張りつめていた感情がそっと解かれて眠気までやってくる。
それでも、アルマと話がしたくて口が動いていた。
「……レオが」
「うん」
「忘れてるって言うの」
「何の話?」
「……別に忘れてないもん」
「何を忘れてないの?」
「……十一年、一緒だったこと、忘れてなんかない」
「ああ、なるほど」
アルマの声が一段低くなって、それが妙に心地がいい。
睡魔に襲われるブランカが聞いた最後の言葉は「ふうん、生意気なことをしていったんだね。お仕置きしなくちゃ」だった。




