29「いいや。忘れてる」
ずっと一緒だと理由なく思っていた、と言ったレオに、私もそうだと思ってた、とブランカが返すと、レオは達観したように笑った。
「ふうん、わかった。つまりもう戻れないんだな」
「うん」
レオに伝わったらしい。
けれど、頬杖をついたままの顔は笑んでいる。
穏やかに。
「俺、ずっとイライラしてただろ」
「うん」
「婚約が大きかった。俺が十八で、お前が十二。まだ子供だとしてもお前の了承もなく、勝手に契約書を変更すると言い出した時、俺はそれを止められなかった。婚約当初は毎日しでかしたことに対して吐きそうだったよ。当然ヴィートにも言えないしな」
「口止めされてたの?」
「いいや?」
妙に苛立ったその言い方は、口止めよりももっと陰湿な圧力をかけられたことを物語っている。
ブランカは気のない返事で「そうなんだー」と流すと、レオは「ははっ」と明るく笑った。
「で、まあ、商売が思っていた以上に軌道に乗って、手に負えなくなりそうで、けど放り出せないところまで来たから、どうしようもなくてな。いつもギリギリまで張りつめてた。商人以上に社交界に相当煙たがられたし、その癖山ほど縁談も来た。適当に遊んでいるように見せればその手のものは引いていったが、そうすると今度は彼女たちが父親に俺を信用できると伝えて、余計に人脈が広がってさらに収拾がつかないことになっていってたんだよなあ」
「負のループだね」
「ふ。本当にそう」
レオはここまで大きな商売にする気はなかったらしい。
初めて聞いたことだが、きっと、知らなかったことはいっぱいある。
ブランカの知らない場所がなぜか勝手に揺れる。
その気配が落ち着かなくて、ブランカは手を握った。
「もう目の前のやるべきことを捌いているだけの状態だったよ。お前が死ぬまでは」
レオはまるで思い出すように目を伏せた。
「ヴィートが、アリスが死んだ、と。それを聞いたとき、愕然とした。ずっといると思ってたし、結婚のこともお前が十八になったときに話すつもりで、準備だってもう進められてたのに……死んだ? 突然すぎて受け入れられなかった」
「ごめん」
ブランカは自然とそう口にしていた。
「ごめん、私がいなくなっても誰も悲しまないと思ったから全く考えてなかった」
「いや、うん。俺たちが悪かっただけだから気にすんな。自由になれたか?」
レオが聞いてくる。
ブランカはただ静かに頷いた。
「そりゃよかった。俺さ、いなくなって気づいたよ。魔女は亡骸も残さないってヴィートが言ってたから、残されたのはお前に与えた空っぽで散らかった部屋だけ。びっくりした。お前の顔がきちんと思い出せない。婚約が決まってから顔を隠させていたせいだし、声も思い出せない。そういえば、お前は俺に話しかけることはなくなってたんだって気づいた。遅いだろ」
ブランカはもう一度頷く。
レオは目を伏せたまま、ゆるく笑んだ。
昔のように。
「死んでしまう前にもっと顔を見て話せばよかった。あの時、そう思ったな。でも、また会えた」
契約書がここへ導いた、とレオは言っていた。
「で、会ったらお前はなんか綺麗な奴と一緒にいるし、今まで見たことないほどハキハキ俺たちを否定するし、すぐ切り捨てようとするし、天国だって言い張るし。イライラしたが、それ以上に嬉しかった。また会えたって。そのときに、お前を好きなことにようやく気づいたよ」
慈しむように口元が微笑む。
「結婚したいのはお前だけだと。契約ではなく、ただ単に一緒にいてほしい、そう思うのはアリスだけだ。契約さえなければ、普通にお前に恋をしていた。優しくできた。今更、遅いけどな」
「……レオは」
「ん?」
「レオは、本当に、私を好きなの」
思ったことを口にしたが、どうしてか猛烈に恥ずかしい。
レオは目を伏せたまま、息を吐くように笑った。
「そうみたいだな。ずっと気づかなくて馬鹿みたいだが。そうだよ」
「そ、そうなんだ」
「おう」
「婚約破棄したいんだけど」
「この流れでか」
「うん。私、アルマにプロポーズしてね? レオとは結婚は無理だから。ほら、色々と、状況的にも」
「アルマとは結婚できるのにか?」
確かに。
一瞬詰まったブランカを笑って、レオは伏せていた目でじっとブランカを見た。
「一緒だろ。ここにいる限り誰とも結婚なんてできない」
「……そう思って一緒にいることはできる」
「じゃあ俺とそう思って一緒にいろよ」
「意地悪」
むっとしたブランカが睨むと、なぜか嬉しそうに笑われる。
「俺は気にしない」
レオはそう言った。
ブランカは「それはなに?」とどういう意味かと尋ねれば、レオは吹っ切れたような清々しい顔でブランカを見つめた。
「だから、気にしないんだって。アルマのことも、アルマを好きなお前のことも、思いやってやって身を引くことはしないってこと。仕方ないから、妻は諦める。が、好きになってもらうことは諦めないからな」
「……意味が分からないよ」
「お前、俺と十一年一緒にいたこと忘れてるだろ」
「忘れてない」
「いいや。忘れてる」
確信に満ちた言い方は、時間はアルマに負けない、と言っているようだった。
「どうしてアルマなのか知りたい。それに、俺にとっては、お前からの反応があるだけで今は嬉しい」
「レオ」
「じゃ、また来るな」
そう言って、レオは立ち上がった。
テーブルが消える。椅子が消える前に、ブランカの腕がすっと取られた。
「アルマ」
「ヴィートが椅子も持って帰るから。立てる?」
「……うん」
ブランカが立つと、それを待っていたように椅子が消えた。
いつの間にかレオの隣にはヴィートが立っている。
「では、これで失礼します。天使、アリス」
「はいはい、さっさと帰って」
「アルマ」
レオは静かに呼んで、それから快活な笑みでひらっと手を振った。
「ごちそうさん。またな」
アルマが返事をする前に、二人はその場から綺麗に消えていた。




