14「聞こえないよ」
「まあ、あれだね。全て流れるべき方に流れるもんだからね、人生ってやつは。無駄に力を使って流れに逆らうよりも、うまく流されといた方がいいときもあるものね」
水浴びを終えて川岸を離れると、用はすんだと言わんばかりに川は消えた。
森を歩いて帰り、濡れた服を干しながらブランカがそう言えば、隣でお手製の物干しに服を引っかけていたアルマが不思議そうな目で見つめてきた。
「ブランカ、実はすごく大人なの?」
「え? そうなの?」
「……わかんないなあ」
苦笑するアルマに、ブランカも一緒に笑えば「やっぱりわかんない」と、アルマは無邪気に笑う。
「ふうん。でもそっか、流れる方に流れるのか。人生ってやつ? は」
「そうそう、そんなもんだよ。たまに、岩があったり、草に絡まったりしながら、結局決まった方に流れていくの」
もし、あの日にキレなければ。
川の中の岩にぶつかっていなければ。
そのまま上手に流されていても、結局どこかで避けることに力尽きて岩に激突していたはずだ。
ブランカは一人頷く。
「家出しなかった私がいたとして、それでも流されてる川は同じなんだから、いつかこうしてアルマに会うんだよ。そういう流れの中にいるから」
「……じゃあ、僕らは絶対に出会う流れにいたの?」
「そうなるね」
「それは……うれしいね」
「だよねえ」
魔法を使うと自分の命を捧げることになったが、自分も大きなものから命を分けてもらっていたブランカは、地のずっと下の方で流れ続ける広く果てしないエネルギーによく触れていた。
規則正しく、いつも一定の流れで、計り知れない意図を感じる不思議なもの。
ブランカがわかったことは、世界はよくわからないもので丁寧に組み立てられているのかもしれない、ということだけだった。
でも、たぶんきっと、それだけでいいのだ。
○
「アリス!」
怒号に目を覚ます。
目を瞑ったまま、ああ、もう朝かあ、とブランカはため息を吐いた。
はいはい、お仕事の時間ですね、花を咲かせますよ、はいはい。
頭の中で返事をする。
あの花畑に行って、今日出荷予定の花のリストを片手に、あっちへ行って「咲いてね」こっちに行って「咲いてね」と囁いて回らなければいけない。後ろには屋敷の「花狩り」という名前の屈強な男どもがついていて花を刈っては荷車に乗せていく。ほとんどがアリスの見張りだ。
咲いてね。と囁けば、
バサッとすぐさま刈り取られ、
花たちは荷車に乗せられていく。
――あ。
ブランカは苦しげに眉を寄せた。
わかってる。夢を見ている。
これは夢だ。
けれど、あの光景が戻ってくると、そしてそれを客観的に見ていると、自分が恐ろしく残酷なことを無感情でしてきたことを突きつけられたような気がした。
無理矢理咲かせて、奪っている。
あの時は「仕事」で「面倒」だったし、全て受け止めて悩めるほどの繊細な心など持ち合わせていないと思っていたのに。
苦しい。
「ブランカ」
ふと、優しい声に包まれた。
そうっと額を撫でられている。
「ブランカ。大丈夫、大丈夫だよ」
頬を包む手が顔を上を向かせると、何か、柔らかくてひんやりしたものがブランカの唇に触れた。
「大丈夫。僕がレオを殺してくるからね」
ん?
ブランカは美しい響きの中で妖艶に揺れる声に、目をパチッと開けた。
一気に意識が覚醒したのだ。
「あ、起きちゃった」
と残念がるアルマの顔は、目の前にある。
いや、目の前というか、視界いっぱいにアルマの顔があるのだ。
「……ち、近いね?」
鼻先が触れている。
アルマがにこっと笑って、そのまま頬へキスを落とした。
柔らかくて、冷たい。
自分の上に乗ったアルマが微笑んでいる。
「おはよう。ブランカ」
「――アリス。いるんだろう?」
「あの、アルマ」
「なあに。僕の女神さま」
「え、なにそれ」
「だってブランカが僕を天使って言うから。なら、ブランカは僕の女神さまでしょ?」
「――アリス」
「えーと、女神さまではないと思うよ」
「どうして? こんなに綺麗なのに」
「……え……ええっ?!」
「ふふ。かわいい」
「違うよ、綺麗じゃないって。凡庸で、花を咲かせることしかできない無能だからね? 私」
「どこのクズがそんなことを言ったの? 君はとても綺麗だよ」
「アルマ? ど、どうしたのかなー?」
「――アリス?」
「どうもしない。ただただ、君が好きなだけだよ」
「あ、うん、ありがとう。私もアルマが好きだよ」
「少し違うかなあ」
「――アリス!」
「ねえ……アルマ、聞いてもいい?」
「うん」
「さっきから、なんか声が聞こえない?」
「聞こえないよ」
「アリス?!」
「……しかもなんか、近づいてきてない?」
「え? 何も聞こえないなあ」
「アリス! いい加減に出てこ、い……」
バンっと、ドアが開いた。
寝室のドアが、突然外から開けられたのだ。
とぼけていたはずのアルマは、直前にさっとブランカの両手を掴むと、自分の首に回して「しがみついててね」と言うやいなや、なぜかブランカの首もとに顔を埋めた。
言われたとおり、アルマの頭を抱く形になっている。
誰が来たのかわかっているブランカは、それが隠れたつもりだった。
ぎゅっと目を瞑る。
「……どちらさまですか?」
ブランカの首もとから、低い囁きが部屋に濃密に響き、くすぐったさにブランカが身を縮めると、ガタンと何かにぶつかった音と、ものが落ちる気配がした。
思わず目を開けてドアを見る。
やっぱりレオが立っていた。
その後ろにも、やっぱりヴィートがいる。
目を見開いた蒼白なレオが落とした荷物からは、赤いブーケが転がっていた。