10「え? なに?」
「幸せな人生をって、書いてくれてたじゃない」
どうしてこうなったのか気にしていない、と言ってもなおも納得していない様子のヴィートに、ブランカは置いてあった手紙のことを伝える。
「それは」
「うん、それは?」
「こうして会うことはないと思っていたので、せめて恨まれないように自己保身をしただけです」
「あはは、会っちゃったねー」
笑うところですか、とヴィートが呆れたように言うので、苦労の耐えないような兄に向けて、ブランカは笑った。
「いつか私に自由をくれる気だったんでしょ?」
「いつかあなたを追い出す気だったとは思わないんですか?」
「幸せになって欲しいって思ってくれたんでしょ?」
「追い出した相手が野垂れ死んだら気分が悪いだけだとは思えませんか?」
「ふふ。ヴィートがどういうつもりだったかなんて私には無意味だよ」
ヴィートの言葉を打ち返して、ブランカは目を細めて居心地の悪そうな兄を見つめ返す。
「私は私の受け取りたいように受け取るからね」
「……そういうところが、昔からすごく嫌いです」
「褒めてくれてるって知ってるよ」
「アリス。ここで、生きて行けそうなんですか?」
丸眼鏡を押し上げてヴィートが仕切り直す。
ブランカは知っている。自分を肯定的にとらえられるのが苦手なのだ。この兄は。
「生きて行けそうだよ。むしろ、ここは本当に楽園というか、天国というか……まあ、全部アルマのおかげなんだけどね。死の森に入ったときに、助けてくれたの。それで一緒に暮らすことになって」
「……そうですか」
「うん。あ、詳しく聞きたい?」
「いいえ。聞かない方が安全であると悟りましたので結構です」
「ふうん?」
「――賢明だね」
アルマがぼそっと呟く。
ヴィートは未だにアルマを疑ったような、それにしては不思議そうな目で見ていた。青いレンズの奥でどうしてそんな目をしているのか、ブランカこそ不思議でたまらない。
「ねえ」
アルマがブランカを呼ぶ。
ヴィートへの視線をアルマに向けると、じっとこちらを見ていたアルマがゆっくりと表情を柔らかくした。
「聞かなくていいの? レオ? のこと」
「ああ、そうだった」
「……当たり前ですけどここが天国だとは納得はしていません」
ブランカは「だよねえ」と何度も頷いた。
そんなに単純な頭だったらこっちも苦労はしていない。
「ただ、あなたに恨んでいないと言われたことは響いているようです」
「――ふうん、恨まれるようなことをしてた自覚あるんだ」
アルマがぼそっと言えば、ブランカが「本当にねー」と笑い飛ばす。
二人のやりとりを微妙な表情で見て、ヴィートは続けた。
「魔法の使えないレオがこの森に一人で来ることはできないので、急な襲来はないことは安心してください。ただ」
「ただ?」
「ただ、ここに来たいというレオを抑えることはできないので、近いうちに来るかもしれません」
「なんで?」
ブランカが聞いたのは、ヴィートが親友のレオの願いを無碍にできない理由ではなく、またレオがここに来る理由についてだ。ヴィートもそれは理解しているらしく、眼鏡をずらして眉間を揉んだ。
「まあ、その理由は……レオが言うと思うので」
「――連れてこないで」
アルマが、低い声で唸るように言う。
「理由なんかどうでもいい。あれは絶対連れてこないで」
ヴィートをじっとりと睨み上げるその目は、妙にキラキラと輝いていた。金色のまつげがくっと上がっている奥で、琥珀色のそれが炎のように揺らめく。思わず、ブランカが「綺麗だなあ」と感嘆のため息と一緒に本音をぽろりとこぼせば、ヴィートから「目は大丈夫ですか」と奇妙な心配をされた。
「絶対に、連れてこないで。あいつはダメ」
アルマが念を押す。
あれのどこが綺麗なんですか、と呟くヴィートは、ブランカのブレない反応に呆れながら、アルマに向かった。
「それは無理です」
「……は?」
「あなたにいくら呪い殺さんばかりの視線で凄まれても、無理です。レオに頼まれた時は、必ず連れてきます」
「へえ……もう一度、それ、言ってみる? その前に喋れなくするけど」
「魔法使いにナイフを投げても無駄ですよ」
「ふうん。僕に、それが言えるんだ?」
なにやら不穏な遣り取りをしていても、ブランカにはそれどころではなかった。
ここを天国だと信じていないレオが、また来るかもしれない。
いや、ヴィートが言うのだからそうなのだろう。
来る。あの傲慢な元飼い主が。
目を閉じて、うんうんと頷く。
「うーん。そうだね、無理だねえ」
いくつかシミュレーションをしてみたが、すべてヴィートが「わかりました。では、連れて行きます」という場面にたどり着く。それどころか、説明をしろと詰め寄られれば「アリスに聞いてください」と丸投げのままで連れてくるところまで想像できた。というかきっと、そうなる。
アルマとヴィートが恐ろしく険悪ににらみ合っていることにも、お互いに臨戦態勢に入りそうな姿勢になっていることにも全く気づかないまま、ブランカは頬杖をついて呟いた。
「レオは確かにヴィートの飼い主だけど、それ以上に友人だもん。ヴィートはレオのお願いを断らないし、レオもヴィートの忠告だけを聞くし、信頼関係を壊すようなこと、よっぽどのことがない限り野心家のヴィートはしないよねー。王家とか、政治とか。そういうところからのスカウトならあっさり捨てるだろうけど……まあ、今となってはシーラを握ってるのはあの家だし、それもいらないか。やっぱりここに連れてくるってことになるよね。あー、レオかあ。面倒だなあ……ま、でも仕方ないか。どうにかなるでしょ」
ブランカがようやく静まった気配に気づいて目を開けてみれば、アルマとヴィートは似たような微妙な表情で自分を見ていた。
「え? なに?」
「……」
「……」
二人は黙ってやけに長いため息を吐くと、アルマは穏やかな顔で「なんでもないよ」と立ち上がり、ヴィートはすっと立ち上がるやいなや「帰ります」といつも通りの無表情でその場を立ち去って行ったのだった。




