1「一緒に暮らす?」
「死んだらしいぞ」
その不穏な言葉を聞いて、彼女は聞き耳を立てた。
小さなドーナツを口に入れたまま、もぐもぐと口を動かす。
それにしても外の食べ物はなんて美味しいのだろう。
広場には様々な露天が出ていて、中心にはたくさんのテーブルが出ている。その中の一つに、彼女は身を小さくして小さなドーナツがころころと入っているカップを持って座っていた。
信じられないほど天気がいい。
彼女は青空を仰いだ。
自由を噛みしめる。
今まであの屋敷の広大な土地から一歩も外に出してもらえなかったのは仕方がないし、確かに安全だったかもしれないけど、自慢の赤毛の輝きと、正常な判断を失うくらいにはつまらないし疲弊する日々だった。
屋敷を抜け出したのは昨夜。
その日の昼間に、屋敷裏の広大な花畑で跡取りの長男がどこぞのご令嬢といちゃついているところを、少し離れた場所でずっと立たされていた。
――アリス。さあ、花を咲かせてくれ。
彼が呼べば近くに行って、花を咲かせる。
十本目の花を咲かせた後、かの美しいご令嬢は花束を持ってにこにこと微笑みながら「レオ様、ありがとうございます」と彼に言った。
彼女はその日、麗らかな空の下で、自分がスポーンと遠くまで飛んでいく感覚にめまいがした。
簡単に言えば、キレたのだ。
屋敷内の自分に与えられた部屋に帰れたのは日が沈んだ後。
出荷予定の花を全て咲かせて、よろよろとベッドにダイブして、枕に顔を埋めて「ふざけんな」と叫んだ。貴族だったくせに、拾った魔女が花を咲かせられるとわかると否や、彼らは「どんな花でも咲かせられる」という魔法を金に換えた。
ほかの貴族飼いされた魔法使いたちもそうやって使われているが、彼女の保護主はそれはそれは金勘定に強かった。商才に恵まれていたらしく、薬草になる花も、香りの元になる花も、ただ家に飾る花も、ほぼシーラ国の花の流通を独占し、儲けている。当然のように商人から恨まれて、幾度も屋敷は襲撃された。おかげで門番を雇っていて、なんかもう貴族の気配ではない。
家名で成り立つ貴族が、国の利益になるほどの事業を始めたら無敵だった。
全ては彼女の魔法のおかげだというのに、そういえば誰からも感謝されていない。
今日も今日とて、彼らはドレスアップしてどこかに出かけて行った。
やってられるか。
一度溢れた不満は止まることなく、十一年分のうっぷんを晴らすように、彼らから与えられたものを手に掴んでは投げた。
我に返ったときには、部屋はぐちゃぐちゃになっていて「これ見られたらヤバいな」と思った彼女は、窓を開けて発作的に家出を強行したのだった。
「死んだって誰が」
「花貴族のとこの魔女だよ」
「あの、いつも白い布で身を包んで、さらに顔を隠してた?」
「老婆なんだろ?」
「じゃあ天寿を全うしたんだろうなあ」
ん?
彼女は耳を疑う。
花貴族と言えば、あの家しかない。白い布で身を隠してたのは、他ならぬ自分だ。貴族飼いの魔女や魔法使いの中で顔を隠しているのは自分だけだった。
死んだ? 私が?
「へえ、じゃああの家は大丈夫なのかい。魔女さんの力で季節はずれの花も咲かせてたんだろう。今じゃシーラは花王国って呼ばれて、平民の仕事だって花運びだって言うのに」
「それが、先に住んでいた魔法使いのヴィートが継いだって言ってたぞ」
「魔法って引き継げるのか。大変だなあ、貴族様は」
「俺たちの仕事がなくならないならそれでいいけどな」
「言えてら」
はっはっは、と笑う男たちからもかすかな花のにおいがする。
彼女は小さく丸まっていた身体をぴょこんと起こして立ち上がった。
鮮やかな青みがかった緑色のワンピースが揺れ、広場にふわっと突風が吹き込む。周りがわあわあと風に驚いている中、彼女はその場を駆け出した。
広場から立ち去った彼女を見た者はいない。
そうして、町をはずれの川の向こうにある森へ。
誰も居ぬ川を渡るために足を踏み出せば、川面は彼女の足を優しく押し返した。水音を一つもたてず、彼女は川を走っていく。
彼女の顔は、キラキラと輝いている。
いつのまにか膝まであるほどの長いふわふわな赤毛も艶やかに光っていた。
川を渡りきり、森に一歩入って大きく踏み込むと、彼女の身体は風に巻き上げられるように軽々と飛んだ。
その顔が笑顔ではじける。
「……やったーー!!」
森の鳥たちまでもがバサバサと飛び交い、彼女を祝福で包んだ。
視界が白い羽でいっぱいになり、彼女は膝を抱えて彼らの歓迎を受け入れる。しかし、それも束の間、鳥たちは突然慌てたように散っていった。
そのまま落下する。
もちろん、直前できちんと風で巻き上げて着地をする予定だった。
が、その前にガシッと身体をキャッチされる。
力強い腕のようで、身体にどこにも痛みがない。ふわりと横抱きにされた彼女は、そろそろと目を見開いて、自分を受け止めた相手を見た。
「き、きれー」
思わず言葉が漏れる。
綺麗、と言われ少年は、宝石のような琥珀色の瞳を丸くした。彼の金色のふわふわした癖毛も、どこか幼さを感じる顔も、まるで天使のようだ。それにしては人一人が落下してきたところを受け止めるのだから、きっとただの天使ではない。
天使の黒いマントを少しだけ押し返すと、彼はそっと彼女を下ろした。
どこまでも優しい手つきだった。
紳士。紳士な天使。いや、天使が紳士?
「ええと、ごめんなさい。ありがとう」
「……降ってきたから」
ぼそりという声すらも透明感がある。
表情は乏しいし、愛想があるわけではないが、彼女は彼の存在そのものが尊く思えた。自分より少し下の目線の彼に、にこにこと笑いかける。
「本当に、ありがとう。優しいね」
「……やさしい?」
「ええ。名前を聞いてもいい?」
「……アルマ」
「名前まで綺麗なんだねえ」
美しい響きだ。アルマ、アルマ、なんて綺麗なの、と彼女は口にする。
その姿に、アルマは不思議そうに彼女を見上げてきた。
そうだった、と彼女も自己紹介をする。
「私はブランカ。お礼と言っては何だけど、ええと……あった」
ブランカは裸足になってしゃがみ込み、ひとつ、蕾だった花を指さした。
「見ててね」
指で蕾に触れる。
と、花が内側からふうっと花開いた。
鮮やかな黄色い花だ。
「これをアルマに。摘む?」
「魔女なの?」
アルマもしゃがみ込む。そして、ブランカの赤毛の髪をさっとさらった。
髪についた土を払う。
「魔女だよ」
ブランカはあっさりと認めた。
アルマが、ブランカの長い髪を一つに束ねる。
「魔女は貴族に飼われてるんじゃないの」
「逃げてきたんだ。ふふ。ラッキーでね」
「そうなんだ」
ブランカが笑うと、アルマはマントの内側から短剣を取り出して束ねた髪にそっと置いた。
そして、一気にそれを滑らせる。
ブランカの赤毛は、アルマの手の中にあった。
膝まであった長い髪が、胸のあたりまでばっさり切られている。
アルマはどこかほの暗い目をして、髪の束を持ったままブランカを見上げた。
「……逃げてるなら、切っておいた方がいいかと思って」
「ああ! なるほどね。楽になったわ、ありがとう」
「あなた変だって言われない?」
自分で勝手に髪を切っておきながら、アルマは不思議そうに首を傾げる。
ブランカは「言われないよ」と首を横に振った。
「だって、私のことを知っている人はいないもの。嫌われもしないし、好かれもしない。で、花は摘む?」
ブランカの言葉に、アルマはしばらくしてから「いい」と呟いた。
「摘まなくていい。ここで生きてるから、ここで死なせてあげたい」
「アルマは優しいね」
「……ブランカはどこに行く気なの」
アルマが立ち上がる。
「脱走魔女ならあいつらどこまでも追いかけてくるよ。この森はひたすら奥まで続いててその先は崖だし、どこへも行けない。ここに隠れていても、いくら死の森って呼ばれてても、魔女を取り戻すためなら入ってくると思うけど」
「大丈夫、大丈夫」
ブランカの言葉にアルマは「死ぬ気?」と返してきた。
「ううん。女好きのレオのために死ぬなんてとんでもない。鬱蒼としててどこまでも続いてるこの森が昔から好きなの。だからここに住む」
「……本気で言ってる?」
「本気だよ」
「じゃあ、僕も置いて。一緒に住む」
「え?」
「ねえ、僕やさしい?」
アルマがじっとブランカを見つめる。
すがるような、期待するような目だ。
ブランカはその危うい目を気にせず、あっさりと「やさしいねえ」と答えた。
「寝床は私が用意するけど、いいの? 一緒に暮らす?」
「うん。ブランカ一人で生きて行けなさそうだし、僕も家から逃げたかったから」
「脱走仲間だ?」
「そうだね」
「ふふ!」
正直、一人で生きていける自信はなかった。
六歳までは孤児院、それから十一年は貴族の屋敷にいたせいで、生活スキルは全くない。
「ねえ、追っ手が来る前に行こう」
アルマが、くいっとブランカの袖を引っ張って見上げる。
「……天使……」
「何言ってるの、早く」
「大丈夫だよ。私、死んだの」
「……え?」
「アリスはきのう死んだの!」
そう言うブランカの顔は、幸福に満ちていた。
お読みいただきありがとうございます。
世間知らずの魔女と、やや愛の重い天使な殺し屋と、この後加わる誰かとで三角な関係になる予定です。
ドロップアウトした人たちが、ほのぼのと自堕落に生きていく「頑張らないラブストーリー」ですが、 ゆるく見守っていただけると嬉しいです。