9.後編7
希翠が内裏に戻ったのは、日がとっぷりと暮れてからだった。髪は乱れ、泥だらけの単衣一枚の姿で現れた希翠は、問答無用で門番にひっ捕らえられた。物乞いの子どもがやってきたとでも思われたのだろう。そんな子どもが、春宮を追ったまま行方の分からなくなっていた第二王子であることが分かると、内裏は昼夜がひっくり返ったかのような大騒ぎになった。皆、第一王子を失ったことを悲しむよりも、第二王子の帰還を喜んでいる様子だった。翡翠の宮だけが複雑な顔を浮かべていて、あとで二人きりになったときにこっぴどく叱られた。
春光殿は燃え落ちた。炎は後宮につながる渡殿をつたって紅玉の間の隅を焼いたところで消し止められた。その程度で済んだのは、内裏をめぐる御構水が延焼を防いだためだった。
春宮と第二王子が滝壺に飛び込んだとき、禰宜は彼らの救出が困難だと悟り、内裏へ馳せ参じてことの次第を説明した。重罪人の母である紅玉の宮は軟禁され、一族も静かに沙汰を待っているらしいとのことだった。
希翠は日を置かずに礫の家へ通い、璃紅が生きていくのに必要な品々を補充した。昼間に抜け出せないときは、夜にこっそり礫の家へと駆けていった。希翠が訪れると璃紅はほっとした顔を見せるようになり、いくぶん顔つきが柔らかくなってきた。璃紅は水汲みと掃除を覚え、最後に洗濯を覚えたが、希翠は璃紅になるべく家の外へ出るなと言い置いた。璃紅はうまく礫の家に隠れていたが、いつまでも閉じこもっていられるものでもない。十日も経つと、今後の展望の見えない暮らしに、希翠にも璃紅にも焦りが生まれてきた。
希翠の元服がとうとう三日後に迫った。日がとっぷりと暮れてから、希翠は内裏を抜け出した。
成人さえしてしまえばこちらのものだ。内裏から離れた場所に隠れ家を作り、璃紅をかくまうこともできるだろう。春宮の容貌を知る者のいない場所なら、彼女はのびのびと暮らせるはずだ。どこか遠くで穏やかに生きて欲しい。そうしてときどき会えたなら、これから王となる自分にとってどれだけの慰めになるだろうか。そう思い描きながら、希翠が礫の家の戸の錠前に鍵を差し込もうとすると、もとから鍵が開いていたことに気付いた。訝りながら玄関戸を開いた希翠を、懐かしい笑顔が出迎えた。
「よう。ちょっと見ないうちに随分と男前になったじゃないか」
土間の炊事場から、礫がぬっと顔を突き出してきたのだった。希翠に鍵を預けたときから、礫の様子はまったく変わっていなかった。包丁を手にしていて、何やら料理をしているらしい。部屋の中央の囲炉裏には赤々と火が燃え、吊られた鍋の中身がぐつぐつ煮えている。囲炉裏の前では璃紅が鉢のなかの白っぽいものを捏ねていた。そこら中に粉が散乱していて、それまでの奮闘ぶりがうかがわれる。
味噌の香りが鼻に届いたところで、目の奥へツンと痛みが抜けていき、希翠は湧きあがってくる安堵感に全身の力が抜けていくような心地がした。
「戻ってたんだ」
希翠がようやくそれだけを言うと、礫は鷹揚に笑った。
「驚いたよ。ここが本当に俺の家なのか疑った」
「……勝手に使ってごめん」
希翠は礫に謝りながら、璃紅が慎重にこちらの様子をうかがっている気配を察知した。礫は希翠に取り合わず、璃紅に指示した。
「そろそろいい頃合いだろ。丸めて団子にして鍋に入れてくれ」
「どのくらいの大きさにすればよいのだ?」
「あんたが食べるのにちょうどいいって思えるくらいだよ」
璃紅にそう答えてから、礫は希翠に向き直った。
「おい、あの子を手伝ってやれ。手をしっかり洗ってからだぞ」
「う、うん」
団子を煮込み、ざく切りの青菜を加えると、あっという間に団子汁ができあがった。たったひとつの円座をこの家の主人に譲り、三人で囲炉裏を囲む。熱い汁をふうふうと啜り、団子をかじりながら、希翠はこの奇妙な晩餐に戸惑っていた。礫にことの次第を説明しなければならないが、どこから話し始めたらいいか、まったくわからなかった。内裏で夕餉を終えたところだったので、腹が減っているわけでもない。希翠は手の中の椀を持て余しながら、礫の表情をうかがっていた。
礫が一杯目の汁を食べ終えたところで、希翠は口火を切った。
「あのさ、こいつはリクっていってさ、こう見えても……」
「全部聞いたよ。ずいぶん賢い子だな。さすが春宮様だ」
礫がしれっと答えると、璃紅は複雑そうな顔をしてうつむいた。照れているのかと思えばそうではないようで、何やら考え込んでいる様子だった。見れば、礫もお代わりをよそう手を止めて、難しい顔をしている。
「さて、これからどうするか……」
重苦しい空気を払いのけようと、希翠は場違いなほど明るい声を出した。
「遠くへ行こうよ。誰も知らないところでゆっくり暮らせばいい。大丈夫だよ、俺ももう子どもじゃないんだし、できることも行ける場所も今より増える。俺がなんとかするから」
「これから春宮になろうってやつが、内裏への放火犯を援助するのか? きょうだいを命がけで助けようとしたところまでは美談になるが、お咎めもなしに許して逃がすっていうなら話は別だ。味方を失うぞ」
礫の言い方は辛辣だったが、璃紅は顔色ひとつ変えない。希翠はむっとして言い返した。
「もちろん、うまくやるよ。おおやけにはしないさ」
「おおやけにしない、ねぇ……お前には、秘密を持つことの重さがわかるのか」
荒天のように淀む灰色の目を向けられて、希翠の胸に稲妻がとどろいた。礫は、璃紅をかくまうかどうかの話だけをしているのではない。彼がいま思い浮かべているのは、きっと翡翠の宮だ。彼は、希翠の出生の秘密を抱えたまま妃として生きる翡翠の宮を、心に懸け続けている。彼女の苦悩を知っているからこそ、安易に璃紅を守ろうとする希翠を諫めているのだ。希翠は無意識のうちに胸に手を当てたが、衣の下に、お馴染みの硬く冷ややかな感触はもうない。
希翠は、ジェダイトの勾玉を売ったことを礫に打ち明けた。それは、礫との血縁関係を知っていることを告げるのと同義だった。
礫は黙々と箸を進め、同じく神妙に黙り込んでいる璃紅に「ちゃんと食え」とだけ言った。二人の姿を見て、希翠も団子汁を啜った。静かな家に、食事の音だけが響いた。
鍋の底が見える頃、礫は座ったまま大きく伸びをしてから璃紅に向き直った。
「それじゃあ、探しに行かなくちゃならないな」
「えっ」
璃紅は目を白黒させた。希翠も礫が何のことを話しているのかわからなかった。
「勾玉だよ。こいつはあんたのためにおっかさんの大事な宝物を売ったんだ。俺とあんたとで、取り返しに行こう」
希翠は呆気に取られている璃紅をちらりと見てから、礫に反論した。
「戸倉へ行ってから、もう十日は経つ。返すあてがないことは向こうも分かってた。きっともう流れてるよ」
「流れたとしたら、追いかけるまでだ。たとえそこが『だれも知らないところ』だろうとな」
あっさりと答える礫に、今度は希翠が唖然としたが、璃紅の表情は見る間に引き締まっていった。
「そなたの言うとおり、私がその宝を探さねばならないのはよく分かった。一緒に来てくれるのか?」
璃紅が念を押すと、礫は「もちろん」と答えてから、ふっと寂しそうに笑った。
「昔、あいつのこともこうやって連れ出してやれたらよかったのにな」
璃紅には礫の独り言の意味が通じなかったようだが、その言葉は希翠の胸の奥深くに入り込んできた。翡翠の宮と礫が重ねてきた時間と、重ねられなかった時間の重みの両方が、ずっしりと感じられたのだった。
翌日、礫と璃紅は旅支度を整え、さらに次の日には巌之国を発った。夜が明けたばかりの刻限に、川のほとりで短い別れの言葉を交わしたあと、希翠は思い出したように璃紅に言った。
「味方をなくすぞって礫に叱られたけど、俺は別にそうなってもいいって思ってるんだ」
礫と同じく筒袖に括り袴を身に着けた璃紅は首を傾げた。紅い短髪を隠す少し緩めの頭巾がずれたのを直してやりながら、希翠は話した。
「新興商人たちが俺を担ぎ上げてるみたいなんだけどさ、そういう連中が渡殿に細工をしてたかもしれねえだろ。だとしたら、こっちから願い下げだ」
希翠は、御影大路で執拗に声をかけてきた金虎屋を思い浮かべていた。璃紅は話の意図をつかみかねているようで、怪訝そうに眉を寄せている。希翠は一言でまとめることにした。
「璃紅の命を狙っていたのは、黒曜王とは限らないって話だよ」
璃紅は驚いたように口をぽかんと開けてから、ふわりと笑った。
「……そなたは優しいな」
「もう行くぞ。誰かに見られたら厄介だ」
荷物を背負った礫が璃紅に出発を促す。希翠はふと礫に子どものように抱きつきたくなったが、こらえて手を振るのみにとどめた。なんといっても、明日は元服なのだ。
刻一刻と川面の煌めきが増していく中、礫と璃紅は並んで橋を超えていく。ふたりは翡翠の宮の実家を行き過ぎてから通りを曲がってしまい、あっけなく姿を消した。
夏の終わりの明け方の空を、雁が隊列を組んで飛び過ぎていった。希翠の胸には、預かったままの礫の家の鍵がいまだに下がっていた。
元服の儀に、黒曜王は姿を見せなかった。わずかのうちに、起き上がることもできないほど病状が悪化していたのだ。火事からの避難で無理に動いたのも障ったらしい。月見の宴を終えたあと、報告を兼ねて希翠は王を見舞った。
髷を頭上でひとつに結って真新しい冠を頂き、縫脇の衣装を身にまとった希翠の姿を帳越しに見て、黒曜王は嬉しそうな声を上げた。
「立派になったね。これでひと安心だ」
御帳台の内に臥す王の身体はよく見えなかったが、枯れ木のように痩せ細っているのだろう。声の張りも失われ、いかにも苦しそうだ。生絹の帳の外で希翠は跪拝した。
「ここまでお育てくださった御重恩に深く感謝申し上げます。希翠はいま、成人して浮かれておりますゆえ、ひとつ不躾な質問をお許しください」
王は返事をしなかったが、拒んでいる気配はなかった。希翠は顔を上げて王に訊ねた。
「璃紅王子のことを、どのようにお考えですか?」
高灯台の火が、調度品の影をはかなく揺らす。宿直の者も今はいない。月見の宴の喧噪は跡形もなく、静寂に沈んだ夜の御殿は王と希翠の二人きりだ。長い沈黙のあとで、王は答えた。
「あれは優しく、気の毒な子だ。母親を王殺しにすることも、弟を春宮殺しにすることも避けるには、あのように振舞うしかなかったのだろう。つくづく惜しいよ」
王の返答は希翠の意表を突いた。
渡殿に細工を施した犯人としてもっとも疑わしいのは、第二王子である希翠やその周辺だ。春宮を差し置いて元服の準備が進み、立坊が決定的となる中で、希翠たちが現春宮の息の根を止めようとするのは自然な流れだろう。しかし、実際に春宮を手にかけたとなれば、希翠の立場はぐらつく。あのとき内裏が妙に静まりかえったのは、皆が希翠を疑ったからなのではないか。野分の翌日に希翠が春光殿のまわりをうろついていたことが誰かに知られたら、希翠は言い逃れできただろうか。
璃紅が春光殿に火を付けて御山へと逃げたとき、璃紅を助けようとした希翠の行動が渡殿の事件の疑いを晴らしたのは明らかだ。それこそが璃紅の目的だった。あのとき、璃紅は希翠がひとりで追いかけてきたことに落胆していたようだが、第三者が証人となるのを期待していたのだろう。うまいことに、禰宜がその役を担ってくれた。
希翠は璃紅を助けに行ったつもりだったが、助けられていたのは希翠の側だったのだ。
王は璃紅の凶行の真意を正しく理解している。それが希翠には苦々しかった。王は璃紅の苦境を知っていながら春光殿から追い出し、希翠を後釜に据えたのだ。
希翠は震える声で言った。
「デモクラシイといえば聞こえが良いかもしれませんが、まがいものの私を王座におさめるための方便なのではありませんか。情け深く聡明な璃紅王子のほうが、よほど王の器にふさわしいのではないでしょうか」
「あの子を王にすることはできなかった」
「女子だからですか」
「違う」
王は強く否定すると、その勢いで激しくむせ込んだ。希翠は人を呼ぼうと腰を浮かせたが、王は「よせ」と引き留めた。咳が落ち着いてから、王は言葉を続けた。
「男であれ女であれ、王位に就くことは可能だ。あの子の血筋であれば、性別に関わらず長子先継とすることもできただろう。もともとそうするつもりだったのだよ……しかし、あの子の母親は偽った」
王の言葉は浅からず希翠の胸をえぐった。偽ったのは、紅玉の宮ばかりではない。翡翠の宮が腹の子の血筋を偽ったからこそ、希翠はいま、ここにいる。そして、希翠がいなければ璃紅は生まれもった性で暮らし、何を憂うこともなく王位を継ぐはずだった。
「その責めを負うべきは、子の側でしょうか」
声を低く抑えたつもりだったが、声変わり中の声はどうしたって子どもの声にしかならない。先ほどから苦くてたまらない口の中を洗い流すように唾を飲みこみ、希翠は歯がゆさを噛み締めた。
王はふっと息を漏らした。
「分かるだろう。紅玉の嘘を許せば、国はいずれ乗っ取られる。その代償は大きい。血脈が絶えることなどより、はるかに」
希翠には返事ができなかった。結局のところ、どちらの嘘が王にとってましだったかということでしかないのだろう。希翠は、自分や璃紅に負わされた荷の重さを、そっくりそのまま王に返したかった。しかしその荷を生み出したのは王ではない。ならば希翠は、王に向けようとした怒りの矛先を母親に向けるべきなのか? 御山の離宮にひっそりと身を隠すようにして希翠を育てた翡翠の宮を?
紅玉の宮の態度は癇に障ったが、火事の夜、宮中の者たちの疑惑の目から璃紅を守ろうとしたのは、単に政治的な目論みからだけではないだろうと思われた。手段を間違えただけで、彼女は彼女なりにわが子を愛しているのかもしれない。
あるいは、礫に対して支払いを求めるべきなのか? 翡翠の宮との間になにがあったのが知らないが、希翠には、彼に対して父親の責任を請求する権利が当然にあるはずだ。しかし、礫は璃紅を連れてこの地を去った。希翠が持ちこんだ厄介ごとを何も言わずに引き受けたのは、本来の請求額を超えてお釣りが生じるものなのではないだろうか。
目をぎゅっと閉じて希翠は考え続けた。正体の分からない巨大な存在から重荷を背負わされた勘定の落とし前をつけるのに、いったいどれだけの意味があるのだろうか。問題になるのはただ一点、人がその重さに耐えられるかどうかということだけなのだという気になってくる。
希翠はゆっくりと目を開け、生絹の向こうの王の影をじっと見つめた。賢王として国を治めたこの男も、重荷を背負っているのだろうか。その荷は、誰に背負わされたものなのだろうか。先代の王か? 王母か? 病床の王は吹けば飛ぶ砂塵のようでもあり、しかし質量と鋭利さを兼ね備えた鉱石のようでもあった。
これ以上質問を重ねても無駄だと、希翠は理解した。
王はなにも答えないだろう。璃紅を実際に手にかけたかどうかは分からないが、父であり、まして絶対の権力者でありながら孤立していく彼女を放っておいたのなら、どちらにしても同じことだ。
希翠は出過ぎた発言を陳謝し、快癒の願いを奏してから部屋を出た。そして、瑪瑙の間に戻ると、慣れない冠の据わり具合に悩まされながら眠りに就いた。
希翠が御前を退出してからしばらく経ってから、黒曜王は、つい先ほどまで希翠が座っていた方を向いたまま、背後へと声をかけた。
「あの子はまっすぐに育っているね。そなたのお陰だよ」
高灯台の明かりの届かない御帳台の隅に、誰かが座っていた。その人物は微動だにせず、疲労の滲む目で黒曜王を見ていた。返事のないことを気にするふうでもなく、王は語り続けた。
「そなたの恨みは当然だ。寡人の食事に細工をしたのが紅玉だろうがそなただろうが、たいして驚きはしないよ。あの子を秘しておきたかったのだろう?」
そこではじめて陰の人物は声をあげた。
「何も言わずに私たちを置いてくれたあなたに、恩を仇で返すようなことはしないわ」
王はニヤニヤと半笑いを浮かべたが、声を上げて笑う気力は残っていないようだった。陰に背を向けていたから、その人物には王の表情は見えなかっただろう。
「そなたは強い」
「お后さまに似ているっていうんでしょう」
「そうだね。金剛は強かった。寡人を諫めてくれるのは、金剛だけだった」
王はふっと遠い目をした。格子天井の向こうの星空を見通しているかのようだった。
「そなたは金剛に似ている。気取らないそなたなら寡人を叱ってくれるだろうと思い込んでいたが、勝手な期待だったね。すまなかった」
陰の人物が「あなたに逆らえるはずがないでしょう」とつぶやくと、王は深いため息をついた。
「そなたの立場で寡人を拒むことはできない。分かっていながら、寡人は金剛の顔をもつそなたを欲した……本質から目を背けて。それが寡人の弱さであり、たったひとつのわがままだ」
「そのほかのあらゆる点であなたが忍耐強いことを、私は知ってるわ」
王は既に目を閉じていたが、消え入るような声で答えた。
「ありがとう、翡翠」
翡翠の宮は身じろぎもせずに、静かに眠りに就く黒曜王を見つめていた。彼女が手を伸ばせば、疲れはてた王の額を撫でることもできたろう。彼女はそうしなかったが、かといって、王の寝顔を見下ろす視線は冷ややかではなかった。
おもての秋風は蔀戸にさえぎられて吹きこむこともなく、夜の御殿の空気は時間が止まったように動かない。暑くもなく寒くもなく、かすかに虫の音ばかりが生絹をすり抜けて耳に届く。やがて宿直の者たちがやってくるまで、翡翠の宮は眠る王をじっと見守り続けた。
その年、二度目の野分を見送ったあと、荒れた内裏を崩御の知らせが駆けめぐった。王の様子はあまりにも静かで、最期のときがいつだったのか、夜の御殿に控えていた宿直の者にも分からなかったほどだった。誰に見送られることもなく、御帳台のうちで黒曜王はひっそりと息を引き取った。巨星が落ちるという表現とは真反対の、あっけない臨終だった。
希翠の立坊は間に合わなかったが、ほかに王位継承権をもつ者がいない以上、彼が即位するしかないというのは明白だった。異論が出るはずもなく、軟禁中の紅玉の宮やその一族でさえ、沈黙を守っていた。
こうして、翡翠王が立った。
諒闇に服する若い王を支えたのは、経験豊かな博士だった。博士は滞りなく喪儀を進めながら政に目を光らせ、新王を導いた。翡翠王が博士から学んだものは大きかったが、とりわけ役に立ったのは、亡き黒曜王の執政の轍を読み解くすべだった。先王は確かに名君だった。黒曜王の敷いた軌道の先の「あるべき国の姿」が希翠王の目標となったが、どうもそれはデモクラシイの一言で片づけられるものではなさそうだった。翡翠王は先王の軌跡をなぞりながら、ここに璃紅がいたらと思わずにはいられなかった。黒曜王のそばで帝王学を学んだ彼女なら、もっとうまく国の舵取りができただろう。
夜の御殿へ籠るとき、翡翠王は御帳台の中でひそかに袴の裾をからげたり、袖をまくったりして寝そべった。冠まで脱ぐこともあったが、もう博士ははしたないと叱ってくれなかった。王はごろりと寝返りをうち、山の離宮で翡翠の宮や博士に叱られた日々を思い出した。
少年だった希翠は、もうどこにもいない。
翡翠の宮は喪が明けると山の離宮へ帰り、再び石を磨く暮らしに戻った。彼女は毎年ひとつずつ、翡翠王に石を贈り続けた。王は勾玉を手放したことを翡翠の宮に打ち明けられずにいたが、もしかしたら彼女にはお見通しだったのかもしれない。母親の勘というもののなせる業なのだろうか。