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8.後編6

 しぶきで濡れてしまいそうなほど、璃紅王子の座っている場所は滝に近かった。見上げるほど高い、岩壁から突き出した大岩の上に胡坐をかいていて、相変わらず冴えない表情をしていたが、少しだけ普段と印象が異なって見えた。これまで考えの読めない無表情を貫いていた璃紅王子だが、今はつまらなそうだ。つまらないという感情が見てとれる。


「ご無事でしたか。お怪我は」


 滝の音に負けないように希翠が声を張りあげると、璃紅王子はむっとしたようだった。


「質問に答えておらぬ。そなたひとりなのか?」


 璃紅王子の澄んだ声は瀑声の中でもよく通った。戸惑いながらも希翠が肯定すると、璃紅王子は胡坐の足を解いてポンと岩から投げ出した。傷だらけの裸足だった。絲鞋は岩下に揃えて置いてある。


「やれやれ。王子に追いかけさせるとは……腐った内裏だ」

「私がみずから飛び出したのです」

「まぁ、そうであろうな。しかし周りが止めなかったのだろう? 同じことだ。誰か供をつけさせると考えていたのだがな」


 璃紅王子はどうやら、希翠がひとりで来たことが不服らしかった。春宮が失踪したというのに、しかるべき大人が追ってこないというのは、確かに心外だろう。希翠はかけるべき言葉を慎重に探し、口にした。


「頼りない弟でがっかりなさるのも無理からぬことでありましょう。ですが、この山は私にとって庭のようなものです。さあ、内裏へ帰りましょう」


 希翠は璃紅王子の座っている大岩に近付こうとしたが、あまりにも鋭く璃紅王子が睨んできたので、思わず足を留めてしまった。


「帰るだと? この私に帰る場所があるとでも?」


 眉は上がり、目はらんらんと輝き、頬や口元はひきつる。わななく璃紅王子の顔には絶望がありありと浮かんでいた。たじろいだ希翠は、それでも声をかけ続けた。


「火をつけたのには、なにかわけがあったのでしょう」


 璃紅王子は声を上げて笑ってから「そのわけというのが分かるのか」と訊ねる。希翠はしどろもどろに答えた。


「お命をねらわれているのでしょう。逆賊から身を守るために、敢えてなさったのでは……」


 璃紅王子は再び笑ったが、その声は先ほどよりも小さく、乾ききっていた。泥だらけの単衣が、ぶらつかせた脚に貼りついている。やはり、水しぶきで濡れているらしい。風邪を引くような時分ではないが、希翠は心配になった。璃紅王子はまったく意に介していないようだ。


「もうすぐ元服だな、希翠。おめでとう」


 唐突な祝いの言葉に、希翠は面食らいながらも礼をとった。璃紅王子は冷ややかに告げた。


「直に立坊りゅうぼうというわけか。しかし、春宮というのはそうやすやすと交代できるものだろうか? のう?」


 試すような目で希翠を見下ろす璃紅王子は、相変わらず絶望の淵にあったが、どこか愉快げでもあった。希翠は礼儀も忘れてその深紅のまなざしを見返した。春宮は、ただひとり定められた王位継承者だ。本来、多少の沙汰があったとしても、その立場が揺らぐものではないが、黒曜王は希翠の元服を急がせ、無理を通そうとしている。その理由は、今ならば希翠にも理解できた。しかし、春宮の座を退いた璃紅王子は、一体そのあとどうなるのだろうか。

 璃紅王子の赤くきらめく瞳には、狂気の炎が燃えている。その熱をみとめた希翠は、ようやく渡殿の事故の黒幕を察した。


「まさか……」

「私が生きていると、都合の悪い人間は大勢いるのだよ。たとえば、父上とかね」

「そんなはずがありません。父上は、父上は……」


 希翠は声を震わせて否定しようとするが、先の言葉が続かない。黒曜王を擁護したいのに、そもそも希翠が王について知っている部分は非常に限られている。動けずにいる希翠を見下ろす璃紅王子の目には、面白がるような光がちかりとまたたいた。


「父上、父上と言っているが、そなた、いまだにあの黒曜王が父親だと考えているのか?」


 璃紅王子の発言の意図を汲み取れず、希翠は首を傾げて訊き返した。


「なんのことをおっしゃっているのでしょう?」


 さっき明るく光った諧謔の輝きは、すっと璃紅王子の目から消えた。


「……まだ私たちが生まれる前のことだ。翡翠の宮は心身の具合がすぐれず、里へ下がったのだが、その直後に懐妊がわかり、離宮へ移動したらしい」

「ええ、おっしゃるとおりです。それが何か?」


 希翠の言い方には多少の棘があった。母が体調を崩したのは、紅玉の宮たちによる嫌がらせが原因なのだ。そのせいで母が離宮へ追いやられたというのは、希翠もよく知るところである。


「市井に戻ってから懐妊がわかるなど、都合がいいとは思わぬか? どこぞの馬の骨ともしれぬ者との目合まぐわいがあってもおかしくないだろう」


 璃紅王子の声には何の感情もこもらず、取ってつけた様子もなかったため、希翠の胸にまっすぐ刺さってきた。足元に底なしの穴があいたかのようだった。母が黒曜王から離れて離宮で暮らしていること、「調子に乗るな、目立つな」と口を酸っぱくして希翠に言い含めていること、後宮の華やかな生活には見向きもせず、石ばかり磨いていること。そのひとつひとつの点が線となりつながって、希翠をがんじがらめに縛った。足元の穴にすっぽりと落ち込み、目の前が暗くなっていく。つい先ほど、孤独の底なし沼にとらわれているのは璃紅王子だと考えていたのに――

 璃紅王子は口調を変えることなく淡々と続けた。


「だから、はじめはそなたや翡翠の宮が私を亡き者にしようとしているのだと考えたよ。ところが、あの晩は驚かされた。まさかそなたが助けてくれるとはな……だから、私はあそこを去ることにしたんだ」


 希翠は無理矢理に気力をかき集めて、顔をあげた。璃紅王子がとても大事なことを語っているように感じたのだ。璃紅王子の紅蓮の瞳がきらめき、湿りけを帯びた短髪がピンと立っていた。


「体を偽っていた私に王は務まらない。紅玉の母上は私を守りはしたが、そもそも私をこんな体に産んだのも、男子おのことして育てたのもあの女だ。私を擁立してからは、せっせと黒曜王に毒を盛り、私の立位を急いでいたが、おかしなことよ……隠しおおせるでも思っているのか。わが母ながら理解できぬ。

 まあ、よい。宮中での火付けは重罪だ。あの女も、一族の者も、もう内裏にはいられまい。これで思い通りに振舞えるぞ、希翠」


 今度こそ槌で頭を殴られたような衝撃が希翠を襲った。璃紅王子の言葉が、一秒の内に何度も頭によみがえる。気高く可憐な声は、右の耳から左の耳へ、そしてまた左の耳から右の耳へぐるぐるとめぐる。璃紅王子は、呪われていると装って、一族ごと自分を内裏から追い出すつもりなのだ。しかもそれは、希翠にとって都合が良いという。希翠は何かを訊ねたかったが、何を訊いたらよいか分からない。


 ぐずぐずしているうちに、希翠が歩いてきた道から御社の禰宜ねぎが現れた。朝のみそぎにやってきたのだろう。禰宜は希翠と璃紅王子に気がつくとたいそう驚き、深々と頭を下げた。


「これはこれは……まさか王子様がたにお会いできるとは、思いがけない幸運でございます。しかし、突然お出ましになって、こんなに早いうちから禊とは……いったい、どうなさったのでしょう?」


 禰宜の姿を認めると、璃紅王子は大岩の上にすっくと立ちあがり、朗々と響く声で言い放った。さきほど希翠と話していたときよりも一段低く、つとめて少年の声を作っているのだと分かった。


「聞け、山神様に仕える者よ。春宮・璃紅の身体は邪鬼に呪われた。炎で祓うこともかなわぬ、強力な呪いである。春宮の穢れは国の穢れ。この巌之国の穢れを払うため、私はこの身を山神様に捧ぐつもりじゃ。とくと見よ」


 禰宜が慌て、希翠が止める間もなく、璃紅王子は滝壺に身を投げた。顔を出したばかりの朝日に赤毛と白の単衣が眩しく輝いた。白滝のしぶくあたりで、泡に混じりあうように回転しながら、その細い体は沈んでいく。

 禰宜の叫びを遠くに聞きながら、希翠はほとんど条件反射のように絲鞋を脱ぎ、水面へ分け入った。水はあっという間に深くなり、滝からの強い流れに押し流されそうになる。希翠は水の中に潜って目を開けてみるが、まともに視界がきかず、ぼんやりと濁った碧色が一面に見えるのみだった。両足を踏ん張って水中で腰を落とし、左右を見回していると、目の端を大きな影が過ぎった。すかさず希翠は水底を蹴りだし、影めがけて水流に乗った。

 息継ぎもできないまま影に手を伸ばし、両腕で引き寄せる。つかまえたのが璃紅王子なのかどうかも定かでないまま、希翠はその柔らかなものをしっかりと抱え込んだ。あとは無我夢中だった。渓流に流されるまま、時折水面に顔が出たかと思えば、また奔流に押されていく。岩にぶつかりそうになれば、めちゃくちゃに暴れてどうにか避ける。ごつごつと鋭い上流の石が手足を痛めつけるが、希翠には怪我をした感覚すらなかった。ただ、腕の中の少女を絶対に離さないよう、呼吸を絶やさないよう、そればかりを考えていた。




 どれだけ流されたか分からないが、希翠が岸辺に上がることができたのは、渓流をすっかり下りきり、街に入ったところだった。希翠は橋の影に少女を寝かせ、あれこれ確認した。意識はないが、脈も呼吸もあった。切り傷、すり傷だらけではあったが、打ち身などは本人が目を覚さなければ痛みの度合いがわからない。璃紅王子の確認が済んでから希翠は自分自身の身体も調べた。傷は璃紅王子と同じかそれ以上で、疲労でどこもかしこも痛んだが、大きな怪我はなかった。


 橋の目の前に水車があった。規則正しい水音と軸のきしむ音を聞いていると、希翠は猛烈に眠くなってきたが、いま寝てしまうわけにはいかない。どうやらここが翡翠の宮の実家の近くらしいと分かると、希翠は最後の力を振り絞って璃紅王子をおぶさり、往来の切れ目を見極めすぐそこの礫の家へ走った。ずぶぬれの単衣の中には、ジェダイトの勾玉と礫からもらった鍵がきちんと下がっていた。激流の中で失わずに済んだことにほっとしながら開錠し、礫の家に上がり込んだ。


 雨戸の閉じた家の中は暗く、埃のにおいが立ち込めていた。礫の気配はまったくなく、数日単位の留守ではないようだ。希翠は雨戸を二か所だけ開けて、光と風を部屋に入れた。奥の部屋から布切れを探し出し、まず璃紅王子を拭いてから、自分の身体も拭きあげたが、濡れた単衣はどうにもならなかった。晩夏とはいえ、濡れたものをずっと身に着けていたら体を冷やしてしまう。希翠は胸の内で礫に謝りながら、なにか代わりに着られるものがないか、奥の部屋の荷物を探し続けた。


 礫が合鍵をしまいこんでいた物入れの蓋を開けたとき、希翠の手が止まった。両腕を広げたほどの箱は貴重品の保管場所らしく、庶民の晴れ着と見られる衣装と、藍染めの帛紗ふくさが仕舞いこんであった。礫は独り身のように見えるが、もしかしたらやもめなのだろうか。帛紗には何かが包まれている。悪いと思いながら帛紗の包みを解くと、中から見事なジェダイトの腕輪が――しかしぱっくりと真っ二つに割れたものが出てきた。

 希翠には、このジェダイトの色に見覚えがあった。離宮の母の書院に飾られていたものとそっくりだ。しかし、母の部屋にあったものはもっと小さかった。この腕輪のさらに半分といったところだろうか。希翠は手の中におさまる半分の腕輪をじっと見つめてから、濡れた衣の中の勾玉の紐をそっと引き出した。思った通り、ジェダイトの勾玉の色は、腕輪の色とまったく同じだった。

 翡翠の宮と礫が、腕輪の片割れ同士を持っていること。翡翠の宮が生まれたての希翠のために割れた腕輪を材料にして勾玉を磨いたこと。繋ぎ合わせるべくもなく、ひとつの円環へと収束していく真実に希翠はようやく思い至った。礫のごま塩頭と、優しい笑顔が思い出される。見ず知らずの希翠に対して、奇妙なほど優しかったのも道理だ。


(黒曜王はこのことをご存じだったのか……)


 見舞いの際の王や翡翠の宮のやりとりを思い返せば、希翠が王の血を引いていないことを知っていてなお、王は希翠を春宮に立てようとしているのだと思われた。

 希翠は目の端に浮かぶ涙を小指でぬぐい、晴れ着を取り出すと、璃紅王子の濡れた単衣を脱がせてどうにかこうにか袖を通させた。帯を巻くのは諦めてむしろを敷き、気を失ったままの璃紅王子を寝かせ、上から夜着をかけてやった。希翠自身も単衣を脱ぎ、素肌の上に冬用の綿入れを着こんだ。眠気をこらえて二人分の単衣を物干しに干してから、璃紅王子の隣の板間にごろんと倒れ込んだ。御山から聞こえてくるツクツクボウシの声が、夏の終わりを告げていた。璃紅王子の澄んだ寝息は、まるで水車の回転運動のようだと希翠はぼんやりと感じたが、その次の瞬間には泥のように寝入っていた。


 目を覚ましたのは、ほんのわずかののちだったと感じたが、窓から差し込む光は黄味を帯びていた。希翠は飛び起きて、隣の筵を確認した。璃紅王子は相変わらず寝そべっていたが、夜着は足元の方に畳まれていた。暑かったらしい。礫の晴れ着に乱れはなく、帯もきちんと結ばれていることに、希翠はほっとした。

 璃紅王子は横たわったまま静かに泣いていたが、首だけこちらに向けて言った。


「起きたか」


 希翠は思わず璃紅王子の肩を掴んだ。


「無事か? 痛むところはないか?」

「あちこち痛いが、このとおり、まだ生きているよ」


 璃紅王子は大儀そうに答えたが、その直後にグゥと腹の虫が鳴いた。璃紅王子はフフと息を漏らした。


「こんなときにも腹は減るものだな。ここはどこなのだ?」

「安心しろ。街の、知り合いの家だ。何か食べものを用意してくるよ」


 単衣はすっかり乾いていた。璃紅王子に背を向け着替えてから、また綿入れを着込んだ。璃紅王子が眉をひそめたので、希翠は弁明した。


「着られそうなものがこれしか見つからなかったんだ」


 璃紅王子にこの家から出ないように言い置いて、希翠は礫の家を出た。錠もしっかり鎖した。季節外れの綿入れから覗くのは、傷だらけの手足。履くものもなく、裸足だ。いつも角髪に整えていた髪も、今は後ろでひとつに括っているだけ。どこをどう見ても、もう王子には見えなかった。髪を束ねている組みひもをするりと解いて、希翠は出店で賑わう界隈を目指した。いつぞや、水を買ったあの紐の残りだ。串焼きの屋台で紐を差し出すと、旦那はカカカと笑い飛ばした。


「それじゃメシは食えねえぜ。そんなに良いシロモノなら戸倉とぐらに行ってごらん。金になったらまたおいで」


 酒屋の主人が戸倉を兼ねているとのことだった。希翠は旦那から教えてもらったとおり、裏通りの酒屋へ行ってみた。暖簾をくぐり、ひっそりとした店内に足を踏み入れると、主人らしき人物が帳簿をつけているところだった。


「これをお金に換えてもらえませんか」


 希翠は勘定台に組みひもを差し出した。主人は筆をおいて正面を向くと、紐をつまみ上げてまじまじと見た。


「きったねえな、坊主! 泥だらけじゃねえか。だが……ううん、良い細工物なのは確かか。汚れてなけりゃ、いくらか値がついたものを」

「だめですか」

「だめだな、こりゃ」


 希翠はしょんぼりと肩を落としたが、ふと思いついて単衣の中から勾玉を取り出し、紐から外した。


「これならどうでしょう?」


 主人ははじめつまらなそうに勾玉を取り上げたが、やがて拡大鏡を取り出して矯めつ眇めつ調べ始めた。


「坊主。こりゃ翡翠だな。しかも硬玉ジェダイトだ。色も艶も逸品だ……どうしてこんなものを持ってる?」

「お祝いに、おっ母からもらったんです」

「ふぅん……」


 主人は一通り調べ終わってから、金子の束を取り出した。目を丸くしている希翠に金子を握らせて、主人は意地悪く笑った。


「親不孝なこった」


 希翠はぺこりと頭を下げて酒屋を出ると、そろそろ店じまいとなりそうな軒先をあちこち回って、食糧と身の回りの品々を買いまわった。両手で抱えるほどの荷物を持って帰った希翠を見て璃紅王子は驚いたようだったが、金の出どころには触れずに「そなたは、内裏に戻ったほうがいい」とだけ言った。希翠は真剣な目で璃紅王子を見つめた。


「ああ、戻るつもりさ。けどな、またいなくなるなよ。あんたは一度死んだんだ。もう一度死ぬことはできねえぜ」

「……どういうことだ?」


 璃紅王子は小さく首をかしげた。希翠はきっぱりと言った。


「あんたは呪いとやらをしょいこんで、御山の滝から身投げして死んだ。俺は助けようとしたがうまくいかなかった。現春宮は死んだんだ。春宮の座は俺がいただく。いいな?」

「もとよりそのつもりだが……?」


 璃紅王子はきょとんとしている。希翠の言葉を吞み込めていないらしい。「だから、」と希翠はやや強めに言葉をつなげる。


「今ここにいるあんたは春宮でもなんでもない、ただのリクだ。男のふりを続けてもいいし、女になってもいい。あんたは王子じゃなくなったが、もう自由なんだよ」


 璃紅の真っ赤な目がみるみる丸くなった。彼女は自分の傷だらけの両の手のひらを見て、ひっくり返して甲を見つめ、また手のひらを返した。


「……なるほど。それでそなたは、急に言葉遣いが変わったというわけか」

「ああ。もう俺はあんたの弟じゃねえからな」


 すると璃紅はひどく心細そうな顔になり、希翠は今のは失言だったかと肩をすくめた。


「ま、まぁ……これからは好きに生きられるってことだよ。けど、今すぐ放り出されても困るだろ。あんたには考える時間が必要だ。食いものも金も置いていく。俺もできるだけ様子を見に来るから、しばらくここに隠れてろ。いいな?」

「ああ、わかった」


 璃紅は頷いてから、希翠の買ってきた饅頭を頬張った。饅頭からはほわほわと湯気が立っていて、璃紅の頬にはたちまち赤みが差してきた。希翠はほっと安心した。それから水瓶に新しい水を汲み、灯明皿に油を注いで灯りをつけてから雨戸をしめた。希翠が立ち働いているあいだ、璃紅は次の饅頭に手を伸ばしながらじっと灯明皿の火を見ていた。気を揉んだ希翠は璃紅に声をかけた。


「頼むから、この家に火をつけてくれるなよ。大事なひとの家なんだ」


 璃紅は吹きだして笑った。希翠は何度か璃紅が笑うのを見たが、本心から笑っているように見えたのはこれがはじめてだった。


「安心するがいい。そなたにも、この家のあるじにも、心から感謝しているよ」

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「秘する翡翠」表紙絵・汐の音慶様画
画・汐の音慶
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[一言] 璃紅が笑った! ホッとしました。
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