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7.後編5

 不思議なことに、この事件については不気味なほど取り沙汰されなかった。内裏の者はみな口をつぐみ、その話題に触れようとしない。当然、希翠も沈黙を守った。瓦礫は粛々と片付けられ、修繕の準備が進められた。


 元服の儀が迫る中、修理職しゅりしきの職工が現場の測量を終えた日の夜更けに、璃紅王子は春光殿に火を付けた。


 血相を変えた宿直とのいの者が希翠を叩き起こし、庭へ避難するよう言った。焦げくさい庭には翡翠の宮や博士たちが先に来ていて、単衣ひとえの姿のまま不安げに立ち尽くしていた。ここでは熱気は感じられない。少し離れたところには、紅玉の宮や彼女に付き従う女官たちもいる。翡翠の宮は希翠に駆け寄り、軽く肩を抱いた。


「ああ、無事でよかった」

「おっ母、火事って……いったいなんの騒ぎなんだ?」


 翡翠の宮は体を離したが、手は希翠の肩に置いたままだった。


「春光殿が燃えているわ」


 希翠の胸がどきりと高鳴った。ほんの数日前に腕の中で感じた震えが、今度は自身のものとしてよみがえってくる。


「璃紅王子は?」


 希翠の問いに、翡翠の宮は答えない。博士へと視線を移すと、彼は言いにくそうに小声で言った。


「春宮様おんみずから、火を放たれたとか……」


 希翠が何も言えずにいると、庭に居合わせた女官の一人が博士に便乗して口を開いた。


「わたくし、この目で見ましたわ。春宮様が油壷あぶらつぼの油を撒いて、高灯台たかとうだいを振り回し火をお付けになったんです。呪われた忌まわしい体を焼き払えとか叫んでいらして……まるで鬼のような」


 女官の言葉に、その場を支配していた沈黙の空気が一気にほどけた。


「王子様は普段から寡黙でいらっしゃったが、まさか……」

「物の怪のたぐいに憑かれていらっしゃるのか」

「内裏のうちにかような穢れがあったとしたら、もしや黒曜王様の御病気も……」


 居合わせた人々は声をひそめて語り合ったが、紅玉の宮の耳にもしっかりと届いたようだった。こんなときでさえ彼女は扇を持ってきていて、派手な音を立てて扇を開くと口元を隠し、よく通る声で言った。


「口さがないれものどもめ。春宮様への不敬に当たるぞ」


 一同は黙ったが、紅玉の宮がそれ以上なにも言わないところを見ると、璃紅王子が火付けを行ったのは間違いないのだろう。扇の奥で、紅玉の宮は眉をひそめていた。

 彼らの言動が、希翠には、几帳きちょうを隔てたむこうの世界のできごとのように遠く感じられた。震えが翡翠の宮に伝わったのだろう。希翠の肩に置かれた手に力が入った。

 博士は女官に訊ねた。


「王様はご無事でありましょうな?」

「もちろんでございます。璧合殿からおもての門へおうつりいただきました」

「春宮様は見つかったのかな?」

「いえ……裏門から御山のほうへ飛び出していかれたきり」

「そうか。お探ししようにも、ひとまずは鎮火に人手がかかる。あまり捜索に頭数を割けない状況ですな……」


 女官の返答に博士がうなだれたとき、急に風向きが変わり、煙と熱気が流れてきた。紅玉の宮も女官たちも悲鳴をあげて顔をそむけ、咳きこんだり、目をこすったりした。

 希翠は静かに翡翠の宮の手を肩から外した。母の手のぬくもりの消えた両肩は、もの寂しくはあったが、軽かった。


「希翠?」


 心配そうに首をかしげる母から、希翠は数歩離れた。


「俺、璃紅王子を探さなくちゃ」


 翡翠の宮は目を丸くして、言葉を失った。遠くで咳きこんでいた紅玉の宮も、鳩が豆鉄砲をくらったような顔でこちらを見ている。博士が止めにかかった。


「だれか武官に行かせましょう。今はともかく避難が先です」

「ここから離れるっていうなら、後を追いかけるのも同じだ。ほかの誰かじゃだめなんだ、俺が行かなくちゃ」


 希翠の言葉に、博士はひるんだらしい。

 もしも希翠が本当に春宮職に立つのだとしたら、希翠こそ現春宮である璃紅王子をないがしろにしてはならないと、博士は考えているのだろう。だが、希翠の思うところはもっと直情的なものだった。あの夜、璃紅王子の秘密にほんのすこしだけ触れた希翠は、璃紅王子を取り巻く孤独が底なし沼であることを知った。しかし璃紅王子は、圧倒的な孤独の中にあってもなお、希翠に春光殿から逃げろと忠告したのだ。そんな王子が、火付けなどという馬鹿げた行いに踏み切るには、何か理由があるはずだ。希翠には、自分がその理由を正しく理解できるとは思えなかったが、璃紅王子の複雑な立場を思えば、その理由を都合よく捻じ曲げようとする輩がいるだろうというのは容易に想像できた。ならば、自分の目で確かめなくてはならない。


 突然、希翠はわき目もふらず駆け出した。母の、博士の、そして女官たちの声が背中を追いかけてくる。希翠は振り返らずに裏門へ走った。御構水を飛び越えながら春光殿の方を見ると、夜空に煙がもうもうと上がり、闇を濁していた。炎は見えなかったがうっすらと明るく、木材の焦げ付く強烈なにおいがそこら中にただよっていた。

 裏門を抜けると、町の人々が起き出して、ちらほら内裏の様子をうかがっている。希翠は時おり野次馬たちに、ここを少年が通りがからなかったかと訊ねたが、はっきりとした返事をする者はいなかった。希翠は御山めがけて内裏の裏通りを駆けた。


 すっかり内裏を離れ、道の両側には田畑が見え始めた。いつの間にか煙臭さは消えて、草と土の混じったような夜露のにおいが立ち込めている。希翠は立ち止まって息を整えた。滅多に内裏から出ることのない璃紅王子が、こんなところまで来るだろうか。街の小路に身を隠しているとしたら、希翠ひとりではとても見つけられない。膝に手を当て前屈姿勢で呼吸が落ち着くのを待ちながら地面を見つめていると、露でしっとりと濡れた道に足跡が見えた。もちろん、希翠自身の足跡ではない。しゃがみこんで目を凝らすと、土の削れた跡が滑らかに見える。草鞋であればもっと筋が残るはずだ。希翠は片足を上げて、自らの履く絲鞋しかいの裏を見た。王族の子が履く絲鞋は、麻糸を編み上げた履物の裏に革を当てている。ためしに自分の足を地面に押し付けてみると、さっきの足跡と同じようにつるつると滑らかな足跡が残った。


(もしも璃紅王子が絲鞋を履いているなら、ここを通ったはずだ)


 両足によみがえってきた力を頼りに、希翠はまた駆け出した。ここから先は山への一本道だ。

 棚田の広がるだらだらとした坂道を、希翠は息を切らせて駆け上がった。新月を過ぎたばかりの今宵、星のほかに明かりはなく、二度足をすべらせ転んだ。膝小僧と手のひらを少しばかり擦りむいたが、気持ちがくじけることはなかった。ただ、璃紅王子も足を滑らせて棚田に落ちていやしないかと心配だった。山育ちで夜目のきく希翠でさえ怪我をするのだ。時おり希翠は立ち止まって足跡を探した。湿った地面では足跡をみとめることができたが、乾いたところではまったく分からなかった。周囲に注意を払うぶん、進みが遅くなった。


 棚田を過ぎ、木々が鬱蒼と茂り、山道がけわしくなってくる頃には夜も更け、希翠はだんだんと不安になってきた。もう、走ることも、星明りを頼りに足跡を探すこともできない。疲労を洗い流すように、道沿いの石清水を飲みながら、希翠は悩んだ。急いだつもりだが、璃紅王子に追い付けない。夜のうちの捜索は困難だ。離宮に立ち寄って朝を待ったほうがいいだろうか。案外、璃紅王子も疲れ果てて離宮を訪ねているのでは……そこまで考えたところで、希翠はぶんぶんと頭を振った。内裏から逃げた璃紅王子が離宮へなど行くはずがない。山へ逃げたのは、人目を避けるために決まっている。

 冷たい水が喉をすべり落ち腹へ溜まってくると、弱気になりかけていた希翠の気持ちは持ち直し、疲れと眠気でぼんやりしていた頭がしゃんとしてきた。逃げるだけなら、夜のうちに街道まで行ってしまえばいいのに、わざわざ御山を選んだわけは何か。女官の話にあった「呪われた」という言葉をあわせて考えれば、山神様に穢れを払ってもらうつもりなのではないだろうか。そもそも、璃紅王子がこの御山で知っている場所と言えば、山神様の御社おやしろのほかにないはずだ。その思い付きが真っ当だろうと結論付けると、手のひらと膝のすり傷を洗い、希翠は再び山道をのぼりはじめた。


 それから随分と歩いた。神門に到着したときには、まだ暗い刻限であるものの、鳥たちが囀りはじめていた。深く一礼してから門をくぐり、石段をのぼると、まず手前の質素な社務所が見えた。しんと静まり返っていて、誰も起き出していないらしい。


(璃紅王子は来ていないのか……?)


 訝りながら進むと、御社が見えてきた。扉は普段通り、固く閉ざされている。石段を上りきったところで境内を見回すが、璃紅王子がやってきた痕跡らしい痕跡は見当たらない。希翠は御社の前に進み出て、柏手を打って礼拝し、璃紅王子の無事を祈った。


 社務の者に事情を訊ねようかとも考えたが、ふと希翠は足を留めた。呪われたという璃紅王子が、穢れを負った身ではたして神域に足を踏み入れるだろうか。山神様の前にひざまずく前に、まずは自ら身を清めようとするのが自然かもしれない。

 御社の近くには滝壺があり、神職はそこで身を清めるという。希翠がいつも遊んでいた川の上流にあたる場所で、何度か訪れたことがある。

 希翠は上ってきた石段を駈け下り、滝壺を訪れてみることにした。


 参道からさらに奥まった山道を進む。道幅はせばまり、傍から突き出した灌木の枝や熊笹の葉が、容赦なく希翠の手足を傷つけた。それでも歩くうちに少しずつ、頭上の枝葉の隙間から見える空の色濃さが薄れていくのが分かり、希翠はずいぶんと勇気づけられた。足を前に出すたびに、微かだった水音がはっきりとした瀑声となっていく。


 狭い山道を抜けると、唐突に開けた場所に出た。滝の音はいっそう豊かに響き、ひんやりと涼やかな空気が希翠の頬を撫で、柔らかな下草を踏むと、その先は苔へと変じていた。土はまもなく岩場となり、希翠は足を滑らせないよう注意深く歩を進める。白み始めた空を反映して水面はぬらぬらと輝き、奥には岩肌をつたう幾筋かの白滝が細かな泡の渦を混ぜ返している。水際まで進み出た希翠は周囲を注意深く見まわした。薄明の中、かなりものが見えるようになっていたが、璃紅王子の姿はなかった。

 がっくりと肩を落とした希翠がその場にしゃがみこみ、じゅくじゅくと水の染みる泥だらけの絲鞋と水面とを交互に眺めていると、あらぬ方向から声が響いた。


「なんだ、そなたひとりか?」


 はっとした希翠が振り向くと、希翠と同じようにしゃがみこんだ璃紅王子が、疲れ果てた様子で斜めに岩壁に寄りかかり、こちらを見下ろしていた。

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「秘する翡翠」表紙絵・汐の音慶様画
画・汐の音慶
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