6.後編4
こってりとしぼられた希翠が次に礫の家を訪れたのは、実にひと月ばかりも経ったあとのことだった。元服の準備でにわかに立て込んだのだった。女装こそしなかったものの、またしても無断外出だった。
礫はいなかった。日をあけて何度かたずねてみたが、いつ行っても、留守だった。商売の旅に出たのかもしれない。国外をまわるのならば、しばらくは不在だろう。礫の家の玄関戸には錠が鎖してあった。もらった鍵をわざわざ使うのは気が引けた。
なんの収穫もない帰り道、希翠は街をぶらついた。暑さの盛りだった。相変わらず金はなかったが、角髪の髷を結う組みひもを差し出したら、水売りは喜んで水をくれた。甘い水を惜しみながら大事に飲みほしたあとで、希翠はそら恐ろしくなった。こんなにおいしいものにありつけるなら、いくらだって持ち物を差し出したくなってしまう。しかし、今の希翠には、本当の意味で自分のものだと言えるものが、いったいどれだけあるのだろうか。組みひもは、離宮にいた頃に女官のひとりが用立てたものだ。左右の髷を飾る紐の片方がなくなれば、誰かが代わりを買い与えてくれるだろう。しかし、紐の価値に見合うものを、希翠自身がその誰かに支払っているわけではない。次に希翠がなにかを欲したら、もう一本の紐を差し出せば、それが手に入るだろう。しかし、その次は? 新しい組みひもを交換に出すのか? それとも、別のなにかを? 何を元手にして?
空になった椀を水売りに返した希翠は、まっすぐ内裏へもどる気になれず、あてもなく御影大路をうろついた。肉の串にたっぷりとまとわせたタレの照り、饅頭をふかす湯気、蕎麦屋の出汁の香り。食欲旺盛な十二歳の少年の腹は、そのひとつひとつにごく素直に反応した。水だけで満足できるはずがなく、足を留めては、またのろのろと歩き出す。
希翠が四度目に立ち止まって団子屋の店先を眺めていたとき、唐突に声をかけられた。
「団子をご所望ですかな」
希翠の斜めうしろに、貫禄のある壮年の男が立っていた。男のくちなし色の直垂の胸元にはタイガーアイの珠を連ねた首飾りが重そうに揺れる。警戒した希翠が口を開く前に、男は弁明した。
「失礼、急にお声がけしてしまいました。金虎屋をいとなむ者です。近ごろ、第二王子様がお忍びで街へお出かけなさると聞いておりますが……お目にかかれて光栄です」
(このおっさん、俺のことを知ってるんだ)
希翠のからだがこわばった。男の顔は知らないが、金虎屋といえば、いま一番勢いのある新興の商店だ。手広く商品を取り扱い、国外からあらゆるものを仕入れてくる。内裏にも出入りがあるはずだ。
「ぜひとも王子様にごあいさつしたく、何度かお目通りをお願いしたのですが、なかなか機会にめぐまれず。こうしてお会いできて嬉しゅうございます」
男は慇懃に腰を折った。烏帽子にもタイガーアイの玉飾りがついていて、お辞儀にあわせてゆらゆら揺れた。希翠は警戒を解かなかった。金虎屋が希翠に会いにきたなどと、聞いたことがない。希翠は黙っていたが、男は人当たりの好い笑顔を浮かべていた。いかにも優しげで、目尻のたれさがった皺が柔和な雰囲気だった。
「いかがでしょう? 金虎の座敷がそこにございます。ちょうど団子やほかの菓子もございますし、よろしければお茶など……」
束の間、希翠は考えた。団子はどうでもいい。この男は、第二王子を支持しようとしているのだと、希翠は直感した。後ろ盾のない希翠にとって、ありがたい話だ。しかし、内裏でこの男を門前払いしていたのは、おそらく翡翠の宮と博士だ。ふたりはなぜ金虎屋を拒むのだろうか。
希翠はほんのわずかのうちに心を決めた。
「なんのことでしょうか」
希翠が白を切ると、男はさもありなんというようにうなずき調子を合わせると、大路に面した立派な店構えの商店を示した。
「ええ、ご内密でしょう。目立たぬうちに、早く中へ」
「いいえ、私は第二王子様ではありません。もしも王子様であったとしても、黒曜王様や春宮様のあずかり知らぬところで、勢いさかんな金虎屋のご主人とお会いになるでしょうか。王子様は、それほど迂闊な方でしょうか」
男の顔が石のようにこわばった。希翠に、翡翠の宮たちがこの男との面会を拒絶する理由は分からなかったが、母親たちの振る舞いを真似ることならできた。希翠は努めて淡々とした声を作った。
「ご事情は存じませんが、王子様にお会いになろうとするならば、まずはしかるべき手順を踏まれるべきかと。王子様のほうも、名高い金虎屋のご主人とのごあいさつであれば、街中で済ませるべきではないとお考えになるのではないでしょうかね」
希翠はそのままくるりと背を向け、男の前を去った。御影大路の人混みに紛れたのち、迂回して内裏の裏手に回り、通用門からこっそりと内裏に戻った。まだ胸がどきどきしていた。深い考えもないままに金虎屋を牽制してしまったが、あれでよかったのだろうか。金虎屋が希翠を訪ねたかどうか、そして断ったならばその理由を母親に問いたかったが、街をうろついていたことに触れてしまう恐れがあり、訊くに訊けなかった。
元服は、月見の宴の日の昼間に執り行うこととなった。準備は一気呵成に進むかと思われたが、間もなく八月が終わるかという頃に訪れた野分によって、一時中断せざるを得なかった。
永遠に続くかのような夏の暑さが急にしぼみ、ぞくりと肌が粟立つ昼下がり、風が強まったかと思えばどっと雨が降り始めた。質量を伴った風が、横殴りの雨が、巌之国を叩きつける。蔀を下ろし、閉めきった瑪瑙の間は暗かった。簀子をつたって翡翠の間へ行くこともできない。時おり妻戸を細く開けて庭をうかがえば、橘の木が踊るように滅茶苦茶にしなっていた。
暴風雨は夜まで続き、希翠は心細い気持ちのまま眠りについた。
翌朝はからりと晴れあがっていた。妻戸を開くと、橘の木の枝が折れて、遠くの植え込みの方まで吹っ飛んでいた。草花は乱れ、吹き散らかされた檜皮や葉がそこら中に貼りついている。簀子はまだびしょぬれで、舎人たちが総出で拭きあげている。普段は下働きをしない女官まで駆り出されていた。
蔀を上げる者がいないので、希翠は自ら上げようと濡れ縁に近付いた。すると片付け中の女官から「危のうございます」と叱られ、すごすごと部屋の奥へ戻る。部屋から一歩も出ることができない希翠は、部屋に持ちこんでいる書を読むくらいしかすることがなかった。
内裏の人々は野分の後始末に追われ、希翠が瑪瑙の間から出られるようになったのは午後になってからだった。渡殿は拭き清められ、御殿同士の行き来ができるようになったが、庭の片づけはまだ半ばだった。どこから飛んできたのか分からない立蔀が侍所の柱に貼りつき、原形をとどめていなかった。柱は深くえぐれていて、その傷跡が生々しい。庭をぶらついていた希翠が立ち止まって眺めていると、舎人たちがやってきて立蔀を撤去した。透垣も見事に吹き飛ばされ、築地塀の方まで行ってみれば、吹き飛ばされてぼろぼろになった木材が山になって溜まっていた。
日が暮れて真っ暗になるころ、闇を舞う光が弧をえがいて明滅しているのを、希翠は見つけた。蛍だ。八月が過ぎようとしているのに、どこからともなく現れた季節外れの蛍を追って、希翠は庭へそっと降りた。
蛍は前栽に紛れて消えてしまった。希翠が御構水に沿って蛍を探していると、春光殿の簀子を誰かがゆっくりと歩いているのに気付いた。希翠は思わず離れの影に隠れた。春宮の御殿の近くを、第二王子が用もなく、しかも夜間にうろついていると知られるのは避けたい。
物陰からそっとのぞくと、歩いているのは璃紅王子だった。湯帷子一枚の姿で、手には浴用の手巾や着替えを抱えている。湯あみに行くところらしい。希翠は、見てはいけないものを見てしまったような気がしたが、なんとなく目が離せなかった。
しかし璃紅王子は、希翠が身を隠している離れ屋へとつながる透渡殿へと向かってきた。どうやらここが春宮専用の湯殿らしい。下手に動いて目立ってはいけないと、希翠は身を縮めてじっとしていた。璃紅王子が湯殿に入ってしまったら、さっさと後宮へ戻ろう。璃紅王子が渡殿へ足を踏み入れるのを見守りながら、春宮ともあろう者が湯の世話人も付けずに入浴しようとしていることに、希翠は小さな違和感を抱いた。
春光殿は普段から静かだが、夜は猶のこと、物音ひとつしない。王子の足音すら聞こえず、虫の音ばかりが夜を満たしていた。璃紅王子の真っ白な湯帷子が、闇の中にぼうっと浮かび上がる。いつも豪華に着飾っている――いや、おそらく紅玉の宮によって飾り立てられている兄王子が質素な格好をしているのは、希翠にとってある種の衝撃でもあった。日の光のもとであれば赤い短髪が目立っていただろうが、夜闇の中では白く細い手足がほのかに輝く。はだしの足は華奢だ。希翠は、兄王子の無防備な姿を見つめ続けた。
だから、異変にはすぐに気が付いた。
渡殿の天井から軋むような音が聞こえたかと思えば、天井を支える柱がめりめりと崩れていった。訝しげに辺りを見回す璃紅王子のところへ、希翠は何も考えずに突っ込んでいった。
「欄干を飛び越えろ!」
渡殿の下で希翠が叫ぶと、璃紅王子ははっとしたようにこちらを見た。まともに目を合わせるのはこれが初めてかもしれないが、二人とも兄弟の対面を味わう余裕はなかった。璃紅王子がためらいがちに欄干に手をかけたところで、希翠は両腕を広げて発破をかけた。
「急げ! 崩れるぞ」
今度こそ勢いをつけて、璃紅王子は欄干を乗り越えた。渡殿の屋根が落ちてくる直前、希翠は飛び降りてくる兄王子を受け止めたが、勢いに負けて倒れこんだ。庭の方へ地面を転がりながら、希翠は兄王子の体を強く抱きかかえていた。かばっていたのだということに気付いたのは、回転が止まったころだった。聞いたこともないような不気味な音を立てて、渡殿全体が崩れ落ちていく。滑り落ちた屋根が地面に転がる希翠たちのすぐそばまで迫ったので、希翠はもう一度兄王子を抱えたままごろりと地面を転がった。
希翠の心臓は、大量の水を汲み上げては落とす水車のようにドッドッと暴れた。地面に横たわったまま体を起こすことができなかったのは、回転運動に目を回していたからばかりではない。腕の中の兄王子が想像よりも細く、軽く、柔らかかったからだ。その上、小刻みに震えていた。額の生えぎわの髪がツンツンと希翠の顔に当たる。焚きしめた香とは違う、生々しく甘やかな香りが鼻をくすぐった。
希翠は何をどうしたらよいか分からず、そのまま璃紅王子を抱きしめていた。遠くから誰かが駆けつけてくるような足音が聞こえた。警備の大番役だろうか。璃紅王子はゆっくりと希翠の腕をほどき、上体を起こした。もともと白い顔をいっそう白くさせた璃紅王子が、震える声で言った。
「……ありがとう。大事ない。そなたはどうか?」
璃紅王子の声をまともに聞いたのは、これまたはじめてのことだった。恐らく本人としては低く抑えているのだろうが、可憐さは隠せない。声変わり前だとしても、小鳥のように高く澄んだ声だった。希翠も起き上がり、ふるふると首を振った。
「大丈夫だ、……です……」
璃紅王子は地面に座りこんだまま言った。
「人が来る。ここを離れたほうがいい、早く」
愛らしくはあったが、聞いたものを従わせる力のある、不思議な声だった。かしこまり返事をしながら、希翠は、黒曜王もこのような物言いをすることを思い出した。希翠はそっとその場を去った。今しがた目にしたもの、手で触れたもの、感じたにおいに耳にした声。その印象をどう受け止めたらよいのか、動転した希翠には判断ができなかった。
崩れ落ちた渡殿の近くを過ぎるとき、柱の折れた跡が、半ば過ぎまで鋸を引いたように綺麗になっていて、際の部分だけぎざぎざとささくれ立っているのに気付いた。その断面を見たとき、のぼせ上がっていた希翠の頭は一気に冷えた。
誰かが意図的に渡殿を崩落させたのかもしれない。
雲一つない満天の星を希翠は見上げた。星はこんなにもよく見えるのに、希翠には内裏のことが何も見えない。人目をかいくぐってあちこち渡り歩いたり、時には脱走したりしているが、どれだけ構造や見張りの隙を熟知しても、肝心の人の心がまったく読めない。
瑪瑙の間の前栽に戻った希翠は、虫の音に合わせてまたたく星々をいつまでも眺めていた。橘の木の枝の折れた跡が痛々しかった。