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秘する翡翠  作者: 志茂塚 ゆり


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5/10

5.後編3

 それからの数日、希翠はてっきり元服の準備で忙しくなるものだと思っていたが、翡翠の宮も博士も従者たちも調べものにてんてこ舞いで、希翠自身には何もすることがなかった。皆はどうやら過去の儀式の例を参考にするつもりらしい。誰を呼ぶか、吉日はいつか、衣装は、飾り物は、接待は。そんなことばかり話し合っていて、肝心の希翠は蚊帳の外だった。


 希翠は大いに退屈していた。

 離宮であれば、勝手に山へ遊びに行くこともできたが、内裏では何もできないし、相手をしてくれる者もない。


 はじめ希翠は後宮をうろついた。七つある妾妃の間は、今は紅玉の間と翡翠の間、それに希翠の眠った瑪瑙の間しか使われていない。残りの四つの部屋は、女官たちの共同部屋や、荷物置き場として使われていた。母屋の奥の塗籠ぬりごめには、宝物や貴重品のたぐいが収められている。

 紅玉の間から渡殿をつたっていけば春光殿、いわゆる春宮だ。璃紅王子が暮らしているが、このあたりは滅多なことでは近寄れない。庭から回り込んで中を窺っても、兄の姿を確かめられることはまれだった。兄はひさしの方まで出て庭を眺めているか、書を読んでいるかのどちらかだった。従者の数は極端に少ない。人嫌いなのかもしれない。

 希翠はいつか、そう遠くないうちに、ここに移り住むことになるのだ。内裏の東側に位置するこの建物からは、朝日がよく見えるだろう。悪くない。しかし、ここを出ることとなったら、璃紅王子はいったいどこへ移るのだろうか。ふと生じた疑問は、希翠の頭からすぐに消えていった。黒曜王のことだ。何か良い案を考えているのだろう。


 こうして希翠は、三日のうちには後宮の全てと内裏のおおかたの構造を把握していた。

 希翠は荷物置き場に保管されていた侍女見習いの装束を、こっそり塗籠に持ち込んだ。衣装は少しばかりほこりくさかったが、見よう見まねで袖を通し、角髪をといて下げ髪にすれば、あっという間に女童めのわらわのできあがりだ。着付けも色合わせも滅茶苦茶だったが、希翠としては上々のつもりだ。

 着ていた衣を荷物の間に隠し、長い裾を引きずりしずしずと渡殿を歩く。人目を忍んで裏庭に降りると、あこめの裾も汗衫かざみの裾もまとめて袴の腰紐にひっかけ、御構水みかわみずを飛びこえた。そのまま希翠は迷うことなく裏門から内裏を抜け出した。


 真っ白な汗衫の袖をひるがえして街中を駆ける姿は、傍目には奇異に見えただろう。やけに上等な衣装を着崩した女の子が、行儀も作法もなく走っている。しかし、町行く人々が声をかけようかとしたところで、彼女の姿はもう見えない。まるでつむじ風だ。


 希翠は生まれて初めての街に浮かれていた。年中行事で輿に担がれ街中を練ることはあったが、自分の足で行きたい場所に行けるという高揚は、思っていた以上だった。御影みかげ大路をそぞろ歩けば、人々のにぎわいや大小の荷車の行き交うの車輪の軋む音、あちこちの店先から漂ってくるおいしそうな香りがいっせいに希翠の五感を刺激する。大判の暖簾がはためいて、日の光をちろちろと遮り、水売りの声が御影大路いっぱいに響く。彼の売り文句によって、その水がただの水でなく甘味がついているというのを、希翠ははじめて知った。

 希翠は興奮していた。もしも金子きんすを手にしていたなら、屋台の食べものや飲みものを片っ端から買い求めていただろう。残念なことに、今、希翠の自由になる金はない。次に来るときは必ず金を用立てようと心に決めて、うしろ髪を引かれる思いで屋台や食堂の前を通りすぎた。


 しばらく御影大路を行くと、喧噪の中に水の音が混じっていることに気が付いた。せせらぎを探せば、裏通りに沿った川が見つかる。内裏の御構水は、ここに通じているのだろうか。川は山奥の離宮よりもゆったりと広く、流れもややゆるやかだった。川音に混じって歌が聞こえてくる。もっと先のほうの対岸で、男たちがはしけを綱で引きながら船曳歌をうたっているのだ。


 ハァ ヨイコラセ ドッコイショ

 曳けや 曳け曳け 前へとヨォ

 御山の水で洗濯すりゃァ

 サー ヨイヨイ ヨイトナァ

 光る石ころ 見つかるさァ

 サー 曳け曳け ヨイコラセ ドッコイショ


 耳慣れない仕事歌に興味をひかれ、希翠も彼らと一緒に川をのぼってみることにした。川沿いには商家や工場の裏口がずらりと並び、舟にのせてきた荷物をそのまま運びこめるようになっている。ちらりと屋内をうかがえば、せっせと立ち働く大人たちの姿が見えた。船曳歌の素朴な節回しと相まって、多孔質の溶岩石に水が染みこんでいくように、その光景は希翠の心の奥に入り込んできた。


 川幅が狭くなってきたところで水運は行き止まりになり、男たちは向こうの岸辺の杭に縄を括りつけ、艀を係留した。希翠はそのまま男たちの仕事を眺めていたかったが、立ち止まっては不審がられてしまうだろうと、そのまま川沿いの道を進み続けた。

 舟置き場のすぐ先に橋があり、対岸の道はそこで途切れていた。川上では、建物が川べりぎりぎりまでせり出し、水車が据えつけてある。


(離宮の水車と似てる)


 気になった希翠は水車の向かいで足を留めて、規則的な回転運動と水しぶきを眺めていた。いくら見ていても飽きるということがなかった。立ち止まってもうだるような暑さだが、川べりに吹く風は汗ばんだ体に快かった。トンビが幾度か鳴いて、やがて声が聞こえなくなったが、希翠の耳には水音だけが鳴り響いていた。


 だから、橋を誰かが渡ってきて、こちらに近付いてきたのにも気が付かなかった。


「おい」


 声をかけられた希翠はびくりと肩をすくめて、その男を見上げた。顔立ちよりもまず目に飛び込んできたのは、ぼさぼさのごま塩頭だった。白髪だらけの頭髪から、年の頃合いは五十か六十と見えたが、皺のないつるりとした顔やピンと伸びた姿勢に目をやれば、案外ずっと若いのかもしれない。希翠は男の顔を見て、ふと黒曜王を思い出した。王の黒々とした髪と深い皺は、目の前のごま塩男とあべこべの容貌だ。

 男の雨雲のような灰色の目は、見る間に鋭くなっていった。希翠が半歩退いたとき、男は重ねて声をあげた。


「王子サマがどうしてこんなところにいるんだ……その格好はなんだ? お供は?」


 希翠は今度こそぎょっとして、回れ右して一目散に逃げだした。しかし、慣れない女の装束では、思うように動けない。内裏を抜け出したときには風のように走っていたが、夏日のもと、勝手の分からない街を歩きまわった疲労は確実に希翠の足枷となった。


「おい待て、待てったら!」


 男はすぐに追いつき、希翠の腕をつかんだ。希翠はやみくもに腕を振ったが、子どもの力でかなうものではなかった。


「落ち着けよ」

「ひ、人違いだ! おれ、じゃなかった、ワタシは……」

「なに言ってんだ」


 男は希翠の腕をつかんでいるのと反対の手で、希翠の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。


「髪も顔も、おっかさんの子どものころと瓜二つだ」

「おっ母を知ってるのか⁉」


 頭を撫でまわす男の手を払いのけ、希翠は男に向き直った。男は困ったように首をかしげた。


「このへんのやつはみんな知ってるさ。さっき穴があくほど見てたのは、お前さんの爺さまのうちの水車だぞ。会いに来たんじゃなかったのか?」


 希翠はみたび驚いた。祖父は年賀のあいさつには来るが、希翠の方から祖父を訪れることはない。祖父はこの家で暮らしているのか……翡翠の宮も、ここで育ったということか。

 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている希翠を見て、男はため息をもらし、ようやく希翠の腕から手をはなした。


「何も知らずにフラフラしてたのかよ……どうしてこんなところにいるんだ。一人だよな?」

「……抜け出してきたんだ……」


 希翠が仏頂面でぼそぼそと答えると、男はぷっと吹きだした。男の笑った顔は、はじめの印象よりも随分と若々しく、希翠は奇妙な親近感をおぼえた。日に焼けた肌の中で、細められた目元の輝きと、ニッカリと開いた口からのぞく歯がまぶしい。


「なるほど。なら、こんなところにいちゃダメだ。ここらの奴はみんな、お前さんの顔を見たら、おっかさんの子だと分かるだろうよ。連れ戻される前に、さっさと自分から山のお宮に戻ることだな」

「う、うん……」


 希翠は頷いたものの、のろのろとその場を動かない。男が途方に暮れたようにあたりを見まわすと、川むこう、橋の奥のほうに人影があった。こちらに向かってくるようだ。


「話はあとだ。だれかに見つかると厄介だろう」


 男はそう言って手荷物を包んでいた布を解き、希翠の頭にかぶせて顎の下でひと結びすると、その手を掴んで川沿いから離れた。

 一本奥の道は幅が広く、荷車がすれ違えるほどだが、内裏の近くのような喧噪ではない。大きな包みを背負った商人や、おつかいの子どもたちが行き来している。

 ほどなくして、男は川から離れた側の並びの小さな家の前に立った。どうやら男の家らしい。懐から鍵を取り出し玄関の錠前を開けたので、希翠は驚いた。


「錠を鎖してるんだ!」


「お宮には見回りが大勢いるんだろうけどさ、街じゃ自分の身は自分で守らないといけないからね。俺は留守も多いし」

「離宮にいる人の数は多くないよ。物騒なこともないし」

「そうか。そりゃ、よかった」


 男は引き戸を開くと、顎の動きで希翠に中へ入るよう促した。希翠は迷った。母親の知人とはいえ、見知らぬ人の家に上がってよいものか。内裏へ連れ戻されて目玉を食らうよりも、もっと悪い結果が待っているのではないか。男は希翠の逡巡を見透かしたかのように言った。


「もちろんこのまま内裏へ帰ってもいいんだぜ。ただ、おもてじゃ落ち着かないし、暑いからさ。たいしたもんはないけど、一休みしていけよ」


 男の目は優しかった。希翠がこわごわ屋内に入り緒太おぶとの草履を脱ぐと、男は戸を完全には閉めずに、三分の一ほど開けはなしたままにした。


 土間の奥の板間にはいくつかの物入れと、円座わろうだがひとつきり。調度品のたぐいは一切ない。中央の囲炉裏は冷え切り、灰は乱れず、ろくに使われていないようだった。奥の間に繋がる引き戸は開かれていて、寝具や干した衣が見えた。頭にかぶっていた布を取り払うと、川の方から玄関に吹きこんだ風が奥の間の窓へと流れていき、希翠は汗が引いていくのを感じた。


「座れよ」


 男は円座を希翠に勧め、自分は土間で何やら支度をしていた。言われるままに座った希翠の目に、土壁に貼られた地図が飛び込んできた。かなり広範囲の地図だ。希翠の見慣れた地図では巌之国が中央に大きく配されていたが、この地図では、巌之国は右寄りにいかにも小さく「巌」の一文字があるだけだった。道の様子や周囲の峰、川にかかる橋のありかに重きが置かれているらしい。山向こうの隣国の町や村の情報も細かく、宿や店の有無、得意先の名前などが小さな字でびっしりと書き込まれていて、道ははるか彼方の海岸線までつながっていた。希翠が夢中になって地図を見ていると、丸盆を手にした男がやってきた。


「気になるか? 商売であちこち旅してるんだ。港へ行って船に乗ることもあるし、この谷なんて、年がら年中けむりが吹きだしてて、その煙を浴びると、ほら、髪が白くなっちまうんだぜ」


 男は希翠に水を注いだ木椀と鉢を差し出した。希翠の興味は地図から鉢の中身にうつった。味噌のような褐色のどろどろのかたまりに、匙がつっこんである。


「……これはなに?」

「はったいだよ。王子サマははじめてか……煎った麦の粉を練って甘くしたおやつだ。おっかさんもよく食べていたよ」


 はっきり言って見た目は悪いが、歩き通しだった希翠は腹が減っていた。恐る恐る匙に口をつけると、落雁のような香ばしさが口いっぱいに広がった。


「うまい!」

「だろ? たくさん食え、いくらでもあるから」


 希翠は夢中ではったいをかきこみ、あっという間に鉢を空にしてしまったあとで、小さく「ごちそうさま」と手を合わせた。男は「おかわりは?」と訊ねたが、希翠は遠慮し、かわりに訊ねた。


「おじさんは誰? どうして俺に親切にするんだ?」


 男は面食らったようだったが、すぐにあっけらかんとこたえた。


「俺は礫。おっかさんの幼なじみだよ。もうずっと会ってないが、お前さんを見てひと目であいつの子だって分かったよ。友だちの息子――それも王子サマが、女のなりをして川辺にひとりきりだってのに、心配しないやつがあるか」

「ご、ごめんなさい」


 希翠は空の鉢を抱えて小さくなったが、同時になぜかほっとするような、不思議な居心地の良さを感じていた。まるで母親の仕事部屋に上がりこんで、二人きりでいるときのような気安さだ。この礫という男が、母親の友人だからか。

 礫は気づかわしげに希翠の顔を覗き込んだ。


「どうしたんだ? 山のお宮で嫌なことでもあったのか?」


 希翠は首を横に振った。


「今は内裏にいる。特に嫌なことがあったわけじゃない……」


 礫の眉がぴくりと動いた。


「内裏? おっかさんも御殿に戻ってるのか?」


 希翠が頷くと、礫はしばらく何か考え込んでいるようだった。希翠は椀の水をすすり、喉と唇をうるおした。外の様子を覗けば、軒の影がだいぶ長くなってきている。


「そろそろ戻らないと、侍従たちがうるさくなるかな」


 希翠がつぶやくと礫は我に返ったようだった。やおら立ち上がり、奥の間の物入れから何かを取り出してきて、希翠に差し出した。


「今日、俺と会ったことはおっかさんに秘密にしておいてくれ。その代わり、こいつを預けよう」


 希翠が受け取ったのは、鈍色の鍵だった。


「これは?」

「このうちの鍵だ。もしも嫌なことがあったら、いつでもまたここに来るといい。俺は国の外に出ていることもあるが、この家は好きに使ってくれて構わない」


 礫の言葉に、希翠は戸惑った。そこまでの厚意を向けられる覚えがない。鍵を返そうとしたが、礫は受け取らなかった。


「万が一、お前さんやおっかさんが山のお宮や内裏にいられなくなったときは、この家のことを思い出せ。でも、その時がくるまでこのことはおっかさんには内緒にしてくれ」


 そう言ってから、礫は寂しそうに微笑んだ。


「そんな時がこないのが、一番なんだけどな」


 希翠はじきに春宮になるのだ。内裏を追い出されることなどまずないが、そこまで言われてしまえば、希翠には断れなかった。希翠は衣の中にしまってあった勾玉ごと紐を引っ張り出して、もらった鍵を緒に通した。

 勾玉を見た礫の目が丸くなったのに気付いた希翠は、勾玉と鍵を衣の中にしまいこみながら説明した。


「赤ん坊のころ、おっ母が磨いてくれたんだ。お守りにってさ。きれいだろ」


 身支度を整えた希翠は草履を履いて、元気よく礫の家を飛び出した。


「ありがとう、礫おじさん! あまり来られないかもしれないけど、また来るよ!」

「おい、ひとりで内裏へ帰るのか」


 礫がわらじを履くのももどかしそうに、はだしで通りに出てくる。希翠は振り返って大きく手を振った。


「大丈夫! はったい、また食わせてくれよな!」


 希翠は内裏を飛び出したときと同じように、通りを走りだした。礫ははだしのまま、その姿が見えなくなってもずっと、家の前に立ち尽くしていた。

汐の音慶様に、素敵な表紙イラストを描いて頂きました。

ページ下部を是非ご覧くださいませ。

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「秘する翡翠」表紙絵・汐の音慶様画
画・汐の音慶
― 新着の感想 ―
[良い点] こんにちは、感想欄にお邪魔いたします。 礫が久々に出てきて(嬉しい♡)希翠王子と礫が邂逅するとは!! 礫が彼に翡翠の方の幼い頃を見るのも、希翠王子が礫のそばを居心地良いと感じるのも、もどか…
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