4.後編2
黒曜王が病に倒れたとの知らせが入ったのは、それから数か月後、小暑の頃だった。翡翠の宮と希翠は山を下り、参内することになった。
壺装束に身を包んだ翡翠の宮の後に続いた希翠は、住み慣れた離宮を振り返った。渓流から引いた水の流れは、朝日にきらきら輝きながら、いつも通り音を立てて水車を回している。檜皮葺の屋根は周囲の木々に埋もれ、築地塀の苔は緑の濃淡を描き出す。山にひっそりと沈むようなこの離宮を、希翠は疎んじていたはずだったのに、離れるとなるととたんに心もとなくなった。
随伴するのは、希翠が生まれる前からここに仕えていた侍従や、年齢相応に落ち着いた女官がほんの数人、そして博士だった。彼らはつまり、華々しい内裏から弾きだされ、山籠もりを強いられたというのが希翠の見立てだった。王の信頼の厚い実直な人々だと翡翠の宮は話すが、内裏を離れた者に出世や良縁などあるはずがない。希翠は彼らが好きだ。好きだからこそ、自らが内裏に上がることで、彼らに良い思いをさせてやりたかった。
彼らに囲まれて山道を下りながら、希翠はこれからの身の振り方を思った。これまでも折々に参内することはあったが、今回は事情が異なる。王は病床にある今、必ず、後継者について考えているはずだ。少しばかりやんちゃかもしれないが、希翠はこれまで優秀な王子として振舞ってきた。璃紅王子を出し抜くには、もしかするとこれが最初で最後の機会となるかもしれない。よしんば春宮として認められるまではいかなくとも、将来内裏で権勢を振るうための下地を作らなければならない。
希翠には後ろ盾がなく、自分の力で道を切り開くしかない。母・翡翠の宮がたったひとり、自らの手で希翠を育てたように、今度は希翠が近しい者たちを守っていくのだ。
日が高くなってきて、汗で襦袢がしっとりと濡れてくるころ、林冠は途切れがちとなり、やがて棚田が現れた。田水を埋め尽くす稲は、衣服の下、希翠の胸に下がる勾玉とよく似た色をしている。出穂まであとひと月ばかりだろうか。稲の緑は畔の緑よりも濃く深い。株の隙間からわずかに覗く水面が日の光を反射して希翠の目を射した。草取りをしている農民が希翠たちに気が付いて深々を腰を折ると、希翠は彼らに手を振った。
棚田の奥の狭い盆地には、人形用の細工物のように小ぢんまりとした街が広がる。田畑を過ぎて街中に入ると、目指す内裏まではあっという間だった。
朱塗りの門から内裏に入ると、玉砂利の向こうに王の御座所のある璧合殿がそびえる。白い水面で黒い川鵜が翼を広げたような御殿だ。舎人の案内を受けた一行は璧合殿を通りすぎて、後宮の翡翠の間へ通された。希翠は何度かここを訪れたことがある。調度品は翡翠色に統一され、庭の柳を愛でることのできる小ざっぱりとした部屋だが、ここで若いころに翡翠の宮が舐めた辛酸を思うと、あまり好きになれない場所だった。
女性のささやくような甲高い声が聞こえてきて、希翠は渡殿へと目をやった。紅玉の間付きの女官たちが、翡翠の宮たちを見て何やら話し合っている。翡翠の宮は無視を通すつもりらしい。希翠も母親に倣い、彼女たちを視界に入れないよう体の向きを変えた。汗ばんだ衣を着替えて準備を整えると、呼び出しの舎人がやってきた。
「希翠王子様、翡翠の宮様はこちらへ……博士もご同席を」
舎人の言葉に、博士は泡を食ってのけぞり、冠がずれた。
「わ、儂もですか?」
「王が、是非にと仰せです」
恐れおののく博士を従えて、翡翠の宮と希翠は璧合殿へと向かう。黒曜王は御帳台の内で臥せっていた。挨拶の口上を述べるのは、御子である希翠の役目だ。跪拝し見舞いの言を奏すると、几帳の奥で、王が上体を起こす気配があった。
「よく来てくれた。待っていたよ……山道は難儀だったろうに」
「父上のお苦しみに比べれば、なんのこと。お加減はいかがでしょうか」
面を上げた希翠が訊ねれば、王は穏やかな声で答えた。
「悪くない……と言いたいところだが、医者の見立てではどうも駄目らしい。寡人としては、元気なつもりなのだがね」
希翠の後ろに控える翡翠の宮が身じろぎした。母の動揺を察し、希翠は浅く頭を下げた。
「病は気からと申します。どうか、お気を確かに」
王は「うむ」と応じると、しばらく黙り込んだ。庭先からの涼風が生絹をかすかに揺らす。あるいは、王が溜め息をついたのかもしれない。希翠はゆっくりと背を伸ばし王の様子を窺ったが、几帳越しに見えるのは影ばかりで、何を考えているのかまったく読めない。
「博士よ」
「はっ」
出し抜けに呼びつけられた博士は、廂の外の簀子縁でかしこまった。
「王子の勉学の具合はどうかな」
「よく励んでおいでです。飲みこみが早く、読書始めからまだ三年ということが信じられぬほどにございます」
「もっと早くに、あの離宮へそなたを遣わせたらよかったのだがな。慎重にならざるをえなかった」
「ごもっともで」
博士の返事に王は満足したらしく、背筋を伸ばして座り直し、落ち着いた声で希翠に告げた。
「元服を急ぎなさい」
やわらかな口調ではあったが、有無を言わさない命令だった。思ってもみなかった言葉に希翠の喉は詰まったが、それまで沈黙を貫いていた翡翠の宮が即座に反応した。
「第一王子はどうするつもりですか」
母親の声は凛として几帳をつらぬき王を射抜いたが、王はその詰問をかわさなかった。
「璃紅は元服するわけにはいかない」
「それでは道理が通りません。春宮をさしおいて、先に第二王子が元服するなんて」
「うん、そうだね。そなたの言うとおりだ」
翡翠の宮は息をのんだ。そのころには、希翠にも王の意図がすこしは汲みとれるようになっていた。ずっと後ろの方に座る博士が、固唾をのんで成り行きを見守っている。
「次の王は希翠だ。元服ののち、春宮としよう。冠親は、博士とする。ふたりとも、そのつもりで支えてやっておくれ」
「いけません!」
翡翠の宮が声を荒らげた。驚いた希翠は、すぐそこにいる母親を振り返った。彼女の剣幕は、ただ遠慮し固辞しているだけには見えないすさまじさがあった。ここまで彼女が怒るのは、希翠がまだ幼いころ、川でおぼれかけたとき以来だ。
立位を拒む理由がどこにあるのだ? その疑問を深く考えることもできないまま、希翠は母親の気迫に圧倒されていた。王は短くため息をついてから体を傾げた。
「そなたの懸念はわかる。だが、そなたと同じように、紅玉の側にも事情があるのだよ」
「確かにそうかもしれません。でも……!」
翡翠の宮の反駁は、しかし途中で空にかき消えた。尻切れトンボとなり、言葉を失った母親を、希翠は不思議な思いで見る。王は息を漏らすようにして小さく笑った。
「気付いておらぬか。それもまた良い」
王の言葉の意味するところが希翠にはさっぱり分からなかったが、自分が何も知らないのだという悔しさだけは十二分に味わうことができた。かねてからの望みどおりに事が運ぼうとしているのに、その歯車はどうやら自分のあずかり知らないところで動いているらしい。王の御座から目をそむけている母親を見やりながら、希翠は唇を噛んだ。
「ふたりとも、此方へ」
王が優しげな声で親子を招く。希翠は作法どおりにいざり寄ったが、翡翠の宮はすっくと立ちあがって几帳をかいくぐると、不躾に王を見下ろした。
「怒った顔も金剛とよく似ている」
脇息にもたれた王は柔和な笑みを浮かべていた。冠から覗く髪は黒々としていて、病人らしからず、肌艶も良い。深く刻まれた皺には暦年の辛労がにじんでいたが、還暦を過ぎているようには見えない。翡翠の宮はその場にすとんと座り、憤然として言った。
「どうせ、王子もお后さまに似ているとおっしゃるのでしょう」
「ああ、そのとおりだ」
御帳台の中にまで入った経験がほとんどない希翠は、所在なく緊張していた。三人が入るとさすがに狭く、王の息づかいも母の憤りも肌で感じられるような距離だ。王はついと希翠の方を見た。希翠はここまで黒い目の人物をほかに見たことがない。黒目の人間はあまたいるが、大抵は焦げ茶が暗くなったような色合いだ。黒曜王の目はまるで井戸の底のように真っ暗だった。
「金剛が少女の頃に出会ったならば、希翠、そなたのようであったろうな」
「父上、わたくしは男子にございます」
希翠のささやかな抗議に、王は目を細め、希翠の角髪の頭へ手を伸ばした。
「子どものうちは大きな違いはないのだよ。しかし、元服するとなると、そうもいかなくなるね。こうして心安く触れることもできなくなる」
希翠は王の手を甘んじて受け入れ、頭を低く保った。翡翠の宮は相変わらず難しい顔をしている。王はふと手を止めて、藪から棒に訊ねた。
「デモクラシイを知っているかい?」
「衆愚政治にございます」
希翠が即答すると、王は声をあげて笑い希翠の肩を軽くたたいた。
「よく勉強しているね……しかし、すこしばかり古い解釈かもしれない。なぁ?」
最後のほうは御帳台の外の博士に向けた言葉だった。生絹を透かして、博士が平伏する姿が見えた。
「申し訳ございません。わたくしめが抜かりましたばかりに」
「いや、よい」
王は希翠の肩からはなした手を、形のととのった顎ひげにもっていった。
「御山の向こうのまた向こう、はるかな海を渡った国々では、近ごろ、圧政に耐えかねた民衆がデモクラシイを掲げ、暴君をしりぞけて自ら政治を執るという話を聞く」
「国家反逆ではありませんか」
希翠は目を丸くすると、王は愉快そうに眉を持ち上げた。
「そうだ。だが、民自身が考え、話し合い、国の行く末を決めるというやりかたには、まぶしいほどの自由がある」
「……父上の深謀遠慮は、複雑すぎてわたくしにははかりかねます」
「いずれ、その波が海を越え山を越え、この巌之国にも届くかもしれないということだよ」
黒曜王の瞳がきらりと光った。
「そのとき、我が国の政が旧態依然としていたら、この内裏はあっという間に瓦解するだろう。だが、この小国で内乱が起きたらどうなるかな?」
そこまで導かれてはじめて、希翠にも王の思考をたどることができた。希翠はうつむき、震える声で答えた。
「隙をみた他国が攻め入り、御山の石を略奪するでしょう」
「これでもう、そなたが王となる理由が分かったね」
王の口調は相変わらず優しかったが、聞く者を自然と従わせる力があった。希翠は神妙に頷いたが、翡翠の宮は納得していないようだった。
「私が平民の出だからこそ、希翠が王になるのがふさわしいというのですか。私のせいだと?」
「おや、まるで立位が罪であるかのような言いぐさだが、そんなことはないのだよ、翡翠」
王は笑みを絶やさず翡翠の宮をいなしてから、希翠に向けて言い足した。
「みんな去ってしまい、後宮は随分寂しくなった。いま残っているのは紅玉だけだ。瑪瑙の間を空けてあるから、希翠はそこで休みなさい」
翡翠の宮は小さく「お身体に障ります」と抗議したが、王は聞き入れなかった。
黒曜王の言いつけどおりに希翠は瑪瑙の間で眠った。翌朝、格子番が蔀を上げる音を聞きながら、希翠は庭の橘の木をぼんやりと眺めていた。やがて紅玉の間付きの女官たちが簀子を歩いてくるのが見えた。
「昨晩、王のお渡りがあったそうよ」
「まぁ。久しくなかったのに」
「御方様、今日は荒れるでしょうね」
女官たちは「くわばら、くわばら」と言いながら通り過ぎていった。
(そういうことか)
合点のいった希翠は、立てた膝を抱いてうずくまった。昨日の黒曜王の言葉を思い返すと、いくつか理解の及ばない点はあったが、とにかく自分が春宮の座に近付いていることは確かなようだ。希翠は、単純に喜んでよいものかどうか判断しかねていた。斜めに差し込んできた光は、母屋の奥に座る希翠のところまでは届かなかった。