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3.後編1

 山のせせらぎが蹴散らされ、水晶の玉のように散る。からげた水干袴すいかんばかまから若木のようにまっすぐ伸びる足は、少しもじっとしていることがない。清水のあちらを行ったり、こちらを来たり。


「そら来た!」


 少年は背を屈め、素早く川に両手を突っ込んだ。その手のあいだから、するりと鮎が逃げていく。少年はため息をもらした。


「ああ、またしくじったか……」


 初夏の日差しが木々の葉を透かして少年の角髪みずらまげを染め上げる。木漏れ日の青葉の中でも一層鮮やかに映える翡翠色だった。

 唐突に、首の後ろでくくっていた袖がはらりと解けた。


「いっけね」


 少年はあわてて袖を押さえ、岩へ上がった。気を付けていたつもりだったが、既に衣のあちこちがびしょぬれだ。侍従たちからまた小言を浴びせられることになるだろう。少しでも乾くようにと、少年は日当たりの良い大岩によじ登り、ごろんと仰向けに寝転んだ。


 目を閉じれば、まぶたの裏に日輪の残像がゆらめく。転々と動く光の軌跡を見つめながら、少年の意識はいつしか曖昧になっていった。せせらぎと葉擦れの音を子守歌にまどろんでいると、遠くにかすかなざわめきを聞いたような気がした。少年は寝返りを打とうとして大岩から落ちそうになり、慌てて飛び起きる。その耳に今度ははっきりと複数の人間の足音が飛び込んできた。木々の奥の山道の方から聞こえてくるようだ。少年はそろりと大岩から降りると、小枝を踏まないよう気配を消して山道へと近付いていった。


 木立の向こうに見えたのは、山に相応しからぬ豪華絢爛な行列だった。深紅の衣のけばけばしさは場違いなことこの上ない。


(紅玉の宮と……璃紅リク王子だ!)


 大勢の従者を伴って山登りをしているのは、妃・紅玉の宮と第一王子だった。ここは街中か? 見る者もいないのに派手な衣装を着ているのが滑稽だった。少年は後ずさろうとして木の幹にぶつかってしまった。驚いた小鳥たちが枝から一斉に飛び立ち、紅玉の宮の鋭い視線が少年を射抜いた。


「何奴じゃ⁉」


 少年はしくじったと胸中で溜め息をついてから、今のは表情に表れていなかったかと不安に思いながら山道へと進み出た。


希翠キスイにございます。紅玉の宮と兄上におかれましては、ご機嫌うるわしゅう」


 少年の顔を見て、紅玉の宮は緊張を解いたようだった。そのおも立ちは翡翠の宮とよく似ているが、燃え立つような赤い目と髪はきつい印象を与え、二人の妃の雰囲気はまったく異なる。従者たちもあわてて地面にぬかづいた。


「おや、これはこれは希翠王子。相変わらず元気に山を駆け回っているのか。此方こなたの王子も見習ってもらいたいものじゃ。のう?」


 紅玉の宮は尊大な物言いをすると、皮肉な笑みを扇で隠し、後ろに控える璃紅王子へと視線を流した。王子は少しも表情を崩さず、一言も発することなく、希翠の方を向きながらも、その目はどこへも焦点を結んでいないかのようだった。深紅の瞳は、土ぼこりをかぶった椿のように曇っていた。同じ色の髪は刈り上げられていて、希翠はその髪型を見るたびに疑問に思うのだった。家柄を何より重んじる紅玉の宮が、なぜ御子の髪を平民の子のように短くさせているのだろうか。


「翡翠のは息災か?」


 紅玉の宮は、いつも希翠の母親を「翡翠の方」と呼ぶ。黒曜王は、第一王子の母である紅玉の宮を王后とはしなかった。王にとっての正妃は、今でも金剛后ただひとりらしい。王族であることを表わす「宮」の呼称は、その妃が正妃と同格であることを暗に示すものだ。紅玉の宮にとって第二王子の母妃の「宮」呼びが到底許せるものではないというのは希翠にも理解できたが、さりとてもちろん気持ちの良いものではない。彼は少しばかり抵抗することにしてみた。


「母はいつもどおり石を磨いております。先達て献上しましたルビーの耳飾り、本日はお召しになっていないようですが、もしや不都合がございましたでしょうか」


 希翠が訊ねると、紅玉の宮は優雅に首を横に振った。その頭の動きにしたがって、翡翠の宮が手ずから磨いたルビーとは異なる石が耳元で揺れた。


「いや、素晴らしい品であったぞ。部屋の小箱に仕舞っている。このような山道で落としてはいけないからな」

「お気に召したなら安心いたしました。兄上にお贈りした首飾りと同じ趣向の品です。よろしければ、兄上とお揃いでお召しください。……ああ、」


 希翠はいかにも良い案を思いついたという素振りで言い足す。


「王の御前でお召しになれば、たいそう喜ばれるかと。王は母の磨いた石がお好きですから」


 扇をぴしゃりと閉じて、紅玉の宮はついと視線をそらした。扇に焚き込めた白檀びゃくだんの香りが、希翠の鼻にも届いた。


「機会があればな。さて、山神様へ詣でる道中ゆえ、これにて」


 紅玉の宮の言葉に従い、伴の者たちはおもてを上げて立ち上がる。希翠は深く頭を下げて挨拶を告げた。


「山神様がさきわいたまわんことを」


 紅玉の宮はさっさと行ってしまったが、璃紅王子はしばらくぼぉっと希翠を眺めていた。兄王子の視線を感じるあいだ、希翠は顔を上げることができなかった。


「王子様。まいりましょう」


 従者に促されて璃紅王子がその場を去ってから、希翠はようやく腰を伸ばすことができたが、その顔には疲労がありありと浮かんでいた。




「……ってなことがあってさぁ、おっかあ。あれ、ぜってー嘘だぜ。どうせ売り飛ばしたんだろ。あんな奴らに気ぃつかって、贈り物なんかするこたぁねえよ」


 希翠は例によって首のうしろで袖を結び、水干袴の裾をくくって膝小僧まで出した格好で、ごろりと畳に寝転んだ。侍従が見たら卒倒しそうな光景だが、今は人払いがされていて、母・翡翠の宮と二人きりだ。翡翠の宮は、付書院つけしょいんで磨き上げた珠を糸でひとつひとつ連ねている。うちきを脱いだ小袖姿だ。


「何もあげないわけにはいかないでしょ。角が立つじゃない」

「おっ母の石は、お妃さまの宝石ってだけで箔がついてるんだ。敵に塩を送るようなもんだぜ」


 言ってしまってから希翠は口をつぐんだ。翡翠の宮の磨いた石が珍重され、政治的な取引にも利用されているのは事実だが、それを差し引いても、母の石は美しい。そして、母がその手仕事に何より誇りを持っているということは、希翠にも分かっていた。口が滑ったと感じたが、詫びる言葉はなかなか素直に出てこなかった。希翠が口をもごもごさせていると、翡翠の宮は希翠に背を向けたまま静かに言った。


「敵ではないでしょ。次の王は璃紅王子よ。あんたが何を言おうが、しようが、それは覆らない。あんたたちが並ぶことはない。そして、そのまた次の王は璃紅王子の未来の御子みこなの。いい加減、夢を見るのはやめなさい」


 希翠は不貞腐れてごろんと転がり、母に背を向けた。


「……だってさ、おっ母がこんな山奥に閉じ込められてるなんて、おかしいだろ。仮にもこの俺、王子サマを産んだんだぜ? あの赤毛のオバサンとの待遇の差はなんなんだ? 不公平が過ぎる」


 糸通しの手を止めて、翡翠の宮は息子に向き直り言った。


「閉じこめられているわけじゃない。御殿が嫌いだからここにいるの。それだけよ」

「そんなわけねえだろ。父上にそう簡単に会えないように、紅玉のオバサンがおっ母を追いやったんだ。いくら俺が子どもでも、そんくらい分かるよ」

「違う。王がわざわざ私たちのことを思ってこの離宮を用意してくれたのよ」

「違わない。紅玉のやつらがそう仕向けたんだろ」


 親子は言い合いののち、どちらからともなくふぅっとため息をついた。母は違い棚に飾られた翡翠のかけらに目をやった。希翠の目にそれはがらくたのように映った。色艶は美しいが、何とも形を成さない石。何かの素材にするふうでもなく、それは希翠の幼いころからずっと棚の同じ位置に鎮座していた。

 翡翠の宮は違い棚から視線を外すと再び希翠に背を向け、広げた珠の選別をしながら言った。


「とにかく、紅玉の宮が重んじられているのは、お血筋が貴いからで、平民出身の私と同じ扱いにできないのは当然よ。希翠。あなたは第二王子で、春宮はるのみやではないのだから、調子に乗って目立っちゃダメ。出る杭は打たれるって言うでしょ。人前で紅玉の宮を悪く言ってごらんなさい、あんたも私も破滅するわよ」


 希翠はむくれて黙りこみ、やがて退出の辞も述べずに遣戸やりどの外へと出ていった。縁側ですれちがった博士が、希翠の格好を見て顔を真っ赤にする。


「王子! なんてだらしないお姿ですか」

「へいへい」


 袖を直し、袴の緒を解いて、希翠は手をひらひらと振った。乱れた角髪みずらまげは簡単には直せず、博士は女官を呼ぼうとしたが、希翠は彼を制して自室に戻り、とばりの内でしとねに寝転がった。


 紅玉の宮たちは山神参拝のために山を登る最中だと言っていた。そもそもこの離宮は、御山詣でのための拠点として整備されたものだ。本来ならば向こうから翡翠の宮たちへ挨拶にやってくるというのが筋だろうに、希翠も翡翠の宮も、彼女たちの参拝については何も知らされていなかった。いかに軽んじられているか、見て取れる。

 希翠には、母妃が内裏や御殿から不当に扱われている状況が我慢ならなかった。その苛立ちは母親を慕う優しい気持ちの表れでもあったのだが、他ならぬ翡翠の宮の理解を得られないのが悔しかった。


(俺が春宮になれたら……)


 その願望が許されないことくらい、希翠にも分かり切っていたが、願わずにはいられなかった。自らが王となれば、翡翠の宮は王太妃だ。相応の待遇を得られるだろう。そのためには、璃紅王子が邪魔だ。


 希翠は胸元から紐飾りを取り出した。緒にはジェダイトの勾玉が通してある。まだ希翠が赤ん坊の頃、希翠の祖父から贈られたという研磨機ではじめて翡翠の宮が磨いた石だ。ぬらりと光る緑色の石は、優しい曲線を描きだしている。希翠を産んだばかりの母は、一体どのような思いでこれを磨き上げたのだろうか。


(お妃さまの石だから価値があるなんて、酷いことを言っちまったな……)


 希翠は勾玉を握りしめて目を閉じた。昼寝を決め込んだが、眠気はなかなかやってこなかった。母親に言ったことと言われたこととが、耳によみがえっては消えていく。まぶたの裏は大理石のようなまだら模様で、闇の薄いところと濃いところがあった。その合間に母親の顔が見え隠れしたと思ったら、その面影は璃紅王子のものへと変わっていった。


 いつも無表情の璃紅王子。あまり接点はなく、ときおり公式行事で居合わせても、兄が弟に興味を示すことはない。恐らく、視界にすら入っていないのだろう。璃紅王子の目は無気力で、何かを諦めた者の目だ。国のすべてが手に入ると約束されているのに、何を諦めるというのだろうか。煮え切らない兄の態度が、希翠には余計に腹立たしかった。


 そして、彼の目の暗さは、なんとなく、母の面差しに射す影と似ている気がするのだ。それが、希翠には気に食わない。

 苛立ちのやり場が、希翠には見つからない。この、腹で渦巻くどす黒いものは、希翠や母の立場が真っ当に認められれば、身の内から排出されるものなのだろうか。母が、何かを諦めずに済むのだろうか。

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「秘する翡翠」表紙絵・汐の音慶様画
画・汐の音慶
― 新着の感想 ―
[良い点] ちょっとちょっと。どうしよう。面白いです。 後宮ものだからと食わず嫌いした自分を叱りたい。 運命と向き合わなくてはならない宿命を負っている(はず)の希翠の今後が気になります。 タイトル…
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