2.前編2
その意図を、単に逃亡の教唆のみであると受け取るほど、翡翠の方は初心ではなかったし、カマトトぶるつもりもなかったが、それでも彼女は依然として動けずにいた。首を縦に振るか、横に振るか、ただそれだけの動作が選べず、まばたきしかできない。ゆっくりと礫が近づいてきて、翡翠の方を正面から抱いた。礫は幼いころから鳩胸で、頬に当たる輪郭の主張が翡翠の方にはたまらなく懐かしく感じられた。皺だらけの藍染めの袖に包まれながら、彼女は、この腕のあたたかさを拒みたくないと、つい願ってしまった。その気持ちが答えであると認めれば、幼なじみへ寄せていた信頼がいちどきに情熱へと色を変える。
灯明皿のほのおが激しくゆれて、かき消えた。雨戸の閉ざされた部屋の中に黒曜の闇が満ちた。ぬらぬらと艶めくガラス様の輝きが、二人の肌に罪を象る刺青を彫り付けた。二人はオブシディアンの刃をかたみに握り、涙を流して胸に咎の字を彫り続けた。
豪雨は未明まで続いたが、明け方には落ち着いた。少しずつ勢いを失っていく雨音を聴きながら、翡翠の方は自分の狡猾さに辟易していた。自ら選択することを避け、優しい礫に責任を押し付けたのだ。礫の体温でぬくもった夜着からそっと這い出て、暗闇の中で身支度していると、礫が起き抜けのくぐもった声で引き止めた。
「帰っちゃダメだ」
礫の声は悲壮感で震えていた。自分の身をこんなにも案じてくれる人がいると思い知り、翡翠の方の胸は今にも胸の中身のどろどろとした澱があふれ出しそうだったが、彼女は気力でその氾濫を抑えこんだ。
「おっ父は、下賜金を受け取ってる」
「それでもダメだ。ミドリが生き方を曲げる必要なんてない」
礫は夜着を放り出して翡翠の方を強く抱き寄せたが、彼女は今度こそその鳩胸をやんわりと押し返した。
「だったら、礫だって生き方を曲げる必要はないでしょ。私を逃がしたりしたら、今度はあんたが追われる身になるよ」
「俺が選ぶんだ」
「私はそんなの、選ばない」
翡翠の方は毅然として言い切った。礫の顔が曇るのを見てぐらりと気持ちが傾きかけたが、表情にはわずかも出さなかった。二人は長い間押し黙っていた。雨戸の隙間から薄ぼんやりと光が忍び入り、先ほどよりも互いの顔がよく見えるようになると、ついに礫は口を開いた。
「悪かったよ」
礫の瞳は暗く沈んでいたが、朝の訪れの中で若白髪がきらきらと光っていた。翡翠の方はその頭へ手を伸ばしかけて、我に返ってやめた。礫は灰色の頭をぐしゃぐしゃとかきまわすと、放りだしたままの夜着の袖に手を入れて何かを取り出し、翡翠の方へと差し出した。
促されるままにそれを受け取った翡翠の方は、手のひらにおさまったものを目にして息を呑んだ。市で見かけた、あの真っ二つのジェダイトの腕輪の片割れだった。驚いて礫を見返すと、彼は弁明するようにぼそぼそと言った。
「お前が御殿に戻っても、俺は石磨きをやってたお前を尊敬してるし、好きだからさ。時々はこいつを見て、そのことを思い出してくれよ」
半分に割れている腕輪を手に載せて、翡翠の方は受け取るべきかどうか迷ったが、礫はその迷いを見透かすように翡翠の方の手に自らの手を重ねて、腕輪を握らせた。
「受け取ってくれ。翡翠の方」
翡翠の方は黙って腕輪の半分を受け取り、礫の家を出てしとしとと小雨の降る中を歩いて帰った。その日、礫は巌之国を出て行ったが、翡翠の方は見送りにはいかなかった。
翡翠の方がただならぬ身であることに気が付いたのは、それからひと月ほど経った頃だった。彼女はすぐに黒曜王に内々の御目見えを願い出た。王は山の離宮の支度を整え、翡翠の方の帰りを受け入れた。
同じ頃に紅玉の方も懐妊し、後宮中の話題をさらった。翡翠の方の妊娠経過について表立って語る者はいなかったが、皆が二人の妾妃の腹の子に関心を寄せているのは明らかだった。王位継承順位は、男子優先の長子先継だ。先に男児が生まれたら、その王子が次期の王となる。
翡翠の方は山の離宮で十月十日をひっそりと過ごし、無事に男児を出産したが、離宮に緘口令を敷いて沈黙を守った。紅玉の方が王子をなしたという知らせが離宮に届いたのは、そのわずか翌週のことだった。翡翠の方はことの真偽を慎重に見極めてから内裏へ遣いを出し、御殿で紅玉の方が出産したあとに、離宮でも男児が生まれたと報告した。
ふたりの王子の誕生で、巌之国は祝賀機運に盛り上がった。ふたりの妾妃はふたりの御子を抱き、それぞれ輿に乗って御殿から御影大路を練った。派手々々しい紅玉の方の輿に続く翡翠の方の輿は、若葉に溶けて消えそうな萌葱色だった。熱狂の中、翡翠の方は背筋を伸ばし、口をきつく結んでわが子を抱いていた。
生まれた王子は母妃にそっくりで金剛后の面影を宿し、黒曜王はとりわけ喜んだ。翡翠の方は王子の母として翡翠の宮と呼ばれるようになったが、山の離宮から出ることはほとんどなかった。王子の誕生祝いとして父親から贈られた研磨機を離宮に据え付け、ひたすら石を磨く日々を送った。
翡翠の方/画・志茂塚ゆり
次話から後編に入ります。





