第八章 5:無事で良かった
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「……ソーニャ。これはぼくでも、いや、魔人の誰でも、なんともできないよ」
赤いのか紫なのかよくわからない半端な色の空を飛翔して、昼下がりに私を迎えに来たマリーは、ドロテアのうなじに指を当てて首を横に振った。
私は主人との再会の挨拶も忘れてドロテアの治療を頼んだ。世にもくだらない殺し合いの後、明らかに死に行こうとするドロテアを担いで、肉体強化魔法を使ってゾグお爺ちゃんの天幕に駆け込み、私は治療を頼んだ。
黒焦げになるまで高圧電流を浴びせて殺したビシニアの遺体を回収する暇も心の余裕も、ありはしなかった。
「どういうこと……?」
ドロテアは腕に突き刺さった木の枝を抜かれ、今は毛皮にくるまれて寝かされている。
死んではいない。矢のような木の枝を抜いた瞬間から、肉体は好調になり始めた。そうは言っても、意識を失ってから今まで目を覚ましていない。
問題は、脊髄に走る霊脈だ。
ものすごく薄い。死に瀕しようとする人間の霊脈の光は薄くなりやすいけれど、まるでそれと同じだ。
「ぼくの寄生干渉魔法による治療は、あくまで肉体を治療するだけだ。……霊脈を治療することはできない。干渉することはできるけど、ぼくの魔力とドロテアの魔力は別物だ。今、ドロテアの魔力はとんでもなく枯渇状態で……回復の兆しが見えない。何が、あったの?」
「わかんない……わかんないよ、マリー」
嘘をつけ。
絶対に、あの木の枝のせいだ。
私は、何を言っている。
甘ったれてトドメを刺すことをためらって、ドロテアに庇ってもらって、主人にも甘えて、何をまるでいじめられた子どもみたいなことを言っている。
結局、ビシニアを殺すことしかできない呪われた魔女のくせに、私は何をしている。
「魔人のお嬢ちゃん。アンタがこの島に来るのはめちゃくちゃ怖いんだが、それでもアンタが来てから話したかったことがある」
あぐらをかいて、それでも私たちを見下ろす巨体のディアーガが、天幕の隅に目をやった。そこには、旅荷物一式が置かれている。
「ドロテアのお姉ちゃんがこうなっちまってから、ビシニアの荷物に何か解毒薬になるものでもないかと漁ったんだが、出てきたのは手紙だった。インクの匂いがまだ新しいから、おそらく昨夜か今朝か書いたものだ」
「ぼくが来てからその話をするのはまぁいいよ。でもソーニャがいる前ですることはないんじゃないのかな」
「……いや、魔法使いなら誰でも聞く必要がある。とくに、お前さんたちみたいな魔力量の高い人間は、だ」
マリーは、私を気遣ってくれている。
私のせいでこんなことになったのに。
「ドロテアのお姉ちゃんに刺さったこの枝の矢は、樹人の【森】で造られたものみたいだ。【魔人殺しの矢】という名前通り、どうやら樹人が対魔人戦に備えてこさえたもので、ビシニアは今まで何人かの魔人をこいつで殺していると、手紙には書いてあった。身に覚えはあるか?」
「帝国の外に出た魔人でも、男爵級くらいが帰ってこないってなると亡命したのかうっかり現地人に殺されちゃったのか、ぼくらでもよくわかんないんだよ。子爵級以上はそもそも国外に出るのは移民船団くらいだし。ぼくは変な方なんだよ。押しかけて悪いとは思っているよ。こんなに長居するつもりじゃなかったんだ」
「お嬢ちゃん、アンタは悪くない。とにかく、この魔人殺しの矢は樹人の切り札で――治療方法が、無い。突き刺した相手の霊脈に反応して、魔力量が高ければ高いほど相手の霊脈を自壊させる呪いが込められていると、そう書いてあった」
……私はたしか、上級男爵級くらいの魔力量があるとマリーには言われている。
もしドロテアが庇ってくれなかったら、私は今頃、死んでしまっていたのだろうか?
「ビシニアって殺し屋の話は聞かせてもらったけどさ。なんでぼくを殺すためのとっておきの切り札のことを、そんな風に手紙に書いちゃっているんだよ。やっていることが無茶苦茶じゃないか」
「手紙、読むか? 実際内容はめちゃくちゃだぞ」
「いいよ。ほんっと……なんでみんな命を大事にしないのかな。とにかく、お兄ちゃんにはこのことを伝えないと。メルセリーナに今から連絡して――」
「待ってください」
毛皮にくるまれた女の声が聞こえた。
寝顔は苦しそうだったのに、目を開いた今、ドロテアは相変わらず笑顔を浮かべている。
「ヘルマートさんには……わたしの旦那様には、この件、黙っていてもらえませんか?」
「……ドロテア、ちょっと前から目が覚めていたのには気づいていたけど、よりによって何言っているんだよ。つくづくお前は頭がおかしいよ」
マリーの声は本気で怒気を帯びている。
ドロテアは困ったように眉根を寄せて、それでも笑っている。
「ヘルマートさんは、感情で動く男性です。わたしがこんなことになったと知ったら、自分で決めた使命や役目も全て放り出して、わたしの所に戻ってきちゃいます」
「それが夫婦じゃないか。愛し合っているんだから、こんな状態になったら一緒にいようよ。……残された時間をさ。大切にしようよ」
「駄目ですよ。約束したんです。わたしはヘルマートさんを支えるために、あの不器用な男性が少しでも自分に正直に生きられるようにするため、結婚したんです。だから……わたしを、わたしの旦那様の、足枷なんかに、させないでください」
「……っとにさあ! なんでお兄ちゃんも! ドロテアも! マイナードおじさんもだ! 残される方の気持ちがわかんないの!?」
天幕いっぱいに響く怒声をマリーは上げた。
ごめんなさい、と喉元まで出かけた言葉を、私は飲み込んだ。
ドロテアは、どこまでも笑顔で、私を見ていた。
「でもほら、最高じゃないですか」
「何がだよ」
「魔力量が高い相手にこそよく効く魔人殺しの矢を、魔力が低い平人の私が受けたからこうして生き延びているわけですし。実証例が取れましたし、矢の現物も押収できました。ゾグさんたちが今ここにいないのも、地元の樹人たちを問い詰めに行ったんですよね? 色々、情報が掴めます」
「ドロテアがソーニャを助けてくれたのはお礼を言いたいけど、同じくらいぶん殴りたい今のぼくの気持ちがわかる?」
「ごめんなさい。わからないんです。それより、本当に良かったなって、心の底から思うんです」
ぞっとした。
背筋に寒気が走った。
ドロテアの笑顔は、青白い顔に浮かべた笑みは、恍惚として、本気だった。
「ソーニャちゃんもマリーちゃんも無事で良かった。この危険な矢のことを知れて、それを受けたわたしがまだ生きていて良かったって。それだけじゃありません。本当にこの矢は危険です。ヘルマートさんには、わたしのことは伏せたまま、魔人殺しの矢のことだけは伝えてください。本当に、本当に帝国の存亡と大勢の人間の命がかかっている問題なんです」
「わけわかんないよ」
「わたしは法式札職人です。でした。わたしはちょっと腕が良い方で、できるだけ使用者に負担がかからないよう考慮して打っていました。でも、そんな面倒なことを無視すれば、一回使ったら死んでしまうかわりに肉体強化を限界まで引き上げるような札を打つ方が、ずっと楽でたくさん作れるんですよ」
「……おい、ドロテアのお姉ちゃん。まさか」
「はいディアーガさん。お察しの通りです。人間の命を弾丸にして、この魔人殺しの矢を突き刺せば、公爵の魔人だって殺せるんじゃないですか? 樹人が平人と組んで、この矢の情報を伏せたまま開戦していれば――帝国は、滅んでいましたよ」
私は戦争のことについて知らない。
でもドロテア夫婦はそもそも『帝国対世界の戦争が起きれば両陣営に未曾有の被害が出るから、事前に防ぐ』というあまりにも崇高で無謀で未来が視えすぎた目的で動いている。戦争について知識と知恵があるのは、当然だろう。
殺し合いがしたい連中なんて放っておいて、勝手に死体にさせておけばいいのに。
なぜドロテアは、自分の命がもう長くないことを知ったうえで、それでもなお他人の未来を喜ぶことができるんだろう。
「……そうだね。有意義な話だよ。実際のところ、帝国の環境維持のため公爵様やましてや陛下が前線に出ることは絶対無いけれど、侯爵様くらいなら天災魔法を撃つために出撃する可能性は高い。帝国の末端は裏切り者の売国奴だらけだから、情報は簡単に漏れる。侯爵家の価値を売国奴の連中はよーく理解しているはずだ。下等人種一万でも十万でも使って狩るだけの意義はある。ドロテアの予想は、正しい」
マリーはそこまで感情を抑えて発言し、次の瞬間敷物にしている毛皮を拳で殴りつけた。
「知ったことか! ぼくは極端な話、ソーニャと父上と母上とメルセリーナとお兄ちゃんたち夫婦さえ無事でいれば、帝国も世界もどうなったっていい! 殺し合いがしたいなら勝手にしろ! 死にたい奴は死んじゃえ!
樹人が悪いんだったら、ぼくがもう世界中の【森】を焼き払ってやる。この地上から一人残らず樹人を殺し尽くして絶滅だ! それで済むのか! どうなんだドロテア!」
「駄目です。むしろ、もっと事態は悪くなります。【森】を一つ一つ潰している間に、死に物狂いで樹人たちは【矢】を一本でも多く作って、マリーちゃんをどんな犠牲を払っても殺します。いくらマリーちゃんが強くても、世界中全部は、一人で相手にできません」
「なんだよもう! なんで、ちくしょう! 嫌だよ! もうぼくはお兄ちゃんにあんな顔させたくないんだよ! ソーニャも泣かせたくなんかなかったのに、誰が悪いんだよ! 殺してやる! こんなことにさせた奴は誰だ! みんな殺してやる!!」
それは
「それはわたしです」
ドロテアは私に向けて、片目を瞑ってみせた。
「ソーニャちゃんのことを任されて、力不足を承知で交戦したわたしが悪いんです」
「ドロテア、それは嘘だ。……ソーニャ、さっきからドロテアが喋る色々な所で、心拍数が上がったり呼吸がおかしくなるのがわかっていた。今、とくに反応が強かった」
膝をついて敷物を何度も殴りつけて感情的に叫んでいたマリーは、ドロテアの返答を聞いた途端に大人しくなり、ゆっくり起き上がって私を見つめてきた。
いつもの優しい主人の笑顔を浮かべて、片手を伸ばして頬を撫でてくれる。
「何を隠しているの、ソーニャ。ぼくは、確かに頼りない主人だけど……ソーニャが一晩中寂しくなって大人になるのが怖くなって泣いていたぼくをあやして支えてくれたことは、本当に嬉しかったんだ。そんなソーニャが今、あの時のぼくみたいにおかしくなっているのなら、ぼくにだってソーニャを甘やかさせてよ」
「私は」
マリーに縋ってもいいのだろうか。
今正に自分で口にしたように、マリーはまだあの一件から立ち直りきれていないように見える。そこに来て、追い討ちのようにこれだ。
そもそも、ずっと私はマリーに貰ってばかりで、何も返さず、主人の後ろに隠れて怯えて世界を人間を呪い続けていた、ちんけな魔女だ。
ほんの少しの間マリーと離れていた間に、取り返しのつかないことをしでかしてしまった私なんか
「ソーニャちゃん」
「ドロテア。ぼくとソーニャの間に割り込んで来ないでくれる?」
「ごめんなさい。でもね、二人とも聞いてほしい。大切で愛しあっている二人なら、苦しい時は遠慮なく支えあう方がいいなって、老婆心ながら」
マリーはものすごく不機嫌そうに頬を膨らませて、でも、ドロテアにはそれ以上反論しなかった。
私は
「マリー」
「なぁに? ソーニャ」
「私は……私は、何度か、何度も、こうなる前に、ビシニアにトドメを刺せる瞬間があった。……でも、ためらって、ドロテアを止めようとして、それで、結局、ドロテアに庇ってもらって……ごめんなさい」
「よし、いい子だ。よく言えたね。ソーニャ。ぼくの可愛いソーニャ」
主人はいつものように抱き寄せて、ふわふわの雲みたいな髪の中に私の顔を埋めさせて、頭を撫でてくれる。
呪われて無能な私に、こんな資格、あるのだろうか。
「今の話を聞いてね。よくわかったよ。犯人探しはやめる」
主人の声は優しく、でも、何か堅い決意が込められているように感じられた。
「元を正せば、ぼくだって悪い。ソーニャに必要以上の殺傷魔法を軽率に教えたのも、この前ポール都でソーニャに魔法を撃たせたのも、主人のぼくの至らなさのせいだ。あれからソーニャの様子がおかしいってわかっていても、ぼくはどう声をかけていいのかわからなかった。だから、ぼくも悪い。みんな悪くて悪くないってことで、もう、この話は、終わりにする」
マリーは、私を抱き寄せたまま立ち上がって宣言した。
「凍人のお兄さん、ドロテア、ソーニャ。そして、今からぼくの妹のメルセリーナと通信魔法を繋ぐ。みんなで意見と知恵を出し合って、ドロテアをなんとかしよう」




