外譚 Honey? or Hornet?
「マリーが! 見えない!!」
名前も忘れた村で保護した少女、そして今朝家族に迎え入れたソーニャは小さく細い手で頭を抱えて、半端な長さの黒髪を振り乱して泣き叫び始めた。
ぼくは借りたホテルの部屋の窓から差し込む光が、ほんの少し弱まっているので、昼下がりになってきたのに気づいた。
ソーニャに朝食を摂らせて一休み、昼食を摂らせてさらに一休み。そうしてお昼寝から目覚めてベッドを飛び出したソーニャは、あちこち見渡して、焦ったように部屋の中をぐるぐる見渡して歩き始めて、遂には泣いてしまった。
「ソーニャ。安心して。ぼくはここにいるよ。見えなくても見えるはずだよ」
「うん、マリーの声は……聞こえる。ひくっ、でも、マリーが、見えない」
金色の瞳から零れる涙を指で払いながらソーニャはぼくのことを、しっかり見据えて窓辺に立っている。でも目が微妙に合っていない。
なんて愛くるしい姿なんだろう、とぼくはティーポットにお湯を注ぎ終えて、しみじみと思った。
小さく、か弱く、無知で、自分の持つ力に振り回されているソーニャは、なんとなく自分の尻尾に噛みつこうとしてぐるぐる回っている仔犬のそれを思い起こさせた。
いやいや、本人の胸中はそれどころじゃない。あまりにも可愛らしいからちょっと見惚れてしまっていた。
「ソーニャ。一応確認するけど、今のぼくの姿は光って見えているはずだよね?」
「うん……」
「怖がらないで。怯えなくていいよ。それはソーニャの体力と魔力がちゃんと戻ってきた証だから」
「そうなの……?」
「うん。だからむしろ良いことなんだよ。あとはソーニャがきちんと、自分の持つ力を支配すればぼくのこともまともに見える。断言して保証するよ」
不安そうにえずきながらソーニャはぼくの話を大人しく聞いている。いい子だ。先ほどまで混乱していたのに、ほんの一瞬で冷静さを少しでも取り戻して他人の言葉に耳を傾けられるのは、ある種の才能だとすらぼくは思っている。
故郷の帝国では、ぼくを舐めたり馬鹿にしたり侮辱したり蔑んだりしてきた貴族の嫡子連中を『決闘』で徹底的に叩きのめしてから、妹に相手を治療してもらった後、ぼくと連中との間にある実力差を言葉で説明しても理解してもらえなかったので、再度ぶちのめすといった事件が何度もあった。
どんなに尊く誇り高い血筋を継いでいようと、本人の人格や知性が相応に伴っていなければ意味がないという、貴族としての自戒をぼくに教えてくれた経験だ。
その点で言えば、ソーニャは下等人種であるはずの平人でありながらそこらの魔人よりずっと高貴な魂を持っている――と思う。たぶん。
ソーニャがぼく以外の人間と会話している様子はまだ見ていないので、単にぼくを特別扱いしているだけということも、十分ありえる。
ともあれ、誰であろうと目の前にいる相手に対して真剣に向き合い、話し合おうとする姿勢は大事だ。とても大事だ。ぼくだって往々にしてよく忘れる。
「今朝、ソーニャが起きて教えたことの復習になるけれど。ソーニャは自分の霊脈制御ができていない」
「うん……」
「今まで枯渇していた体力と魔力が回復してきて、眼球神経に絡んでいる霊脈が活性化したせいで、他人の霊脈が視えすぎる状態に戻っちゃったんだよ」
「言いたいことは、なんとなく、わかるけど。……どうすればいいの?」
おそらく今のソーニャには、ぼくが人型の光の塊にしか視えていない。
だから頭の部分はわかるらしく、目尻に涙を溜めて不安そうにぼくを上目遣いに捉えようとしている。
心臓が跳ねた。身体が勝手に動いてソーニャを抱きしめてしまった。
なんて可愛い生き物なんだろう!
「マリー! マリーだ! ふわふわしている……角もある。柔らかい」
「よしよし。ぼくがちゃんと今朝方見えていた姿のままってことは、これでわかったよね?」
「うん。うん……」
……抱擁したのは単に衝動的でなんにも考えずにやってしまった行為なんだけれど、ソーニャが安心したので結果的に良しとしておこう。
ともあれ、霊脈制御は精神状態が落ち着いている方がやりやすい。逆に言えば、動揺したり激怒すればどれだけ霊脈制御に慣れていても、精密な動きが出来ない。ぼくは決闘ではよくこの戦術を利用した。お兄ちゃんの入れ知恵で、弱者が強者に勝つ基本中の基本なのだそうである。
「ソーニャ。まずは深呼吸しよう。たくさん泣いて、胸の中がぎゅうぎゅうになって気持ち悪くない?」
「……うん。いっぱいいっぱい」
「身体の力を抜いて、よし、息を大きく吸って、ああ焦らなくていいから。ゆっくりゆっくり。そしてゆっくり息を吐く。うんそうそう。えらいえらい」
ぼくの指示通りにソーニャは精一杯身体を動かしている。心拍音や指先の震えを観察すれば、不安な気持ちを抱えたままなのだろうけれど、感情に流されず目的のために教えられたことをまず実践している。
――この子、すごいな。
ぼくは感心した。魔力量がどうとかでなくて、ソーニャは自分をよく理解している。
ソーニャの故郷である、山の中だか森の合間なんだか農村なんだか集落なんだかよくわからない田舎で生まれ育って、教養なんてあるはずがない。だからと言って野蛮だとかは思わないけれど、往々にして愚かにはなりやすいのが悲しいかな人間というものだ。
学ぼうとしない、得ようとしない、外を知ろうとしない、与えられたモノだけで生きて、動かない動けない人間は、愚鈍になりやすいとお兄ちゃんが注意してくれたことだ。
実際、そうやって慢心した愚かな貴族嫡子たちをぼくは『決闘』でぶちのめしてきた。親の当主まで出てきたこともあるけれど、それもやっぱり返り討ちにした。魔人と言えども人間である。
強くなりたければ学び、賢くなりたければ動け。帝国という狭い世界を飛び出したぼくが家出した理由の一つではある。
……『決闘』で残った逆恨みについても、家のことについても、妹にはとても悪いことをしているとは思うけれど。
「けぷっ」
「よし、お腹の中に溜まっていた空気が抜けた。よくできたねソーニャ」
可愛らしい呼気を漏らしたソーニャの頭をぼくは撫で撫でした。ソーニャは顔を赤くしてうつむいてもじもじしている。ものすごく可愛い生き物だなこの娘は!
いやいや待てぼくこそ感情で我を忘れそうになっているぞ。ソーニャを見習え。
胸の中に起こる荒波に負けず、成したいことを成そうとしているソーニャは本当に偉い。幼子に褒めるそれではなく、賢人に対するモノと同質の偉さだ。
「ソーニャ。ソーニャは自分が何も知らないということをよく知っている。それは物知りよりも、賢いことだ」
「意思無き者は無知を喜ぶ。賢き者は歩みを正す」
思わぬ教養溢れる返答が、ぼくも知らない言葉が返ってきて呆気に取られた。
「……あれ? ソーニャって結構物知り?」
「牧師様がおっしゃっていたこと。私は覚えているだけ」
「それこそが『自分が何も知らない』ということを知っているっていうことなんだ。本当にすごいねソーニャは」
ぼくは下等人種である平人の農民の暮らしなどよく知らない。帝国では領民として接していたけれど、共和国では色々と事情が違うのは察することができる。
だからソーニャの年齢に見合わぬ理知と自制を培った事情は、好奇心で聞いてみたいところなのだけれど、今はそんなことをしている場合じゃない。
とにかくソーニャに霊脈制御の基礎中の基礎を教えないと駄目だ。何せ、ぼくは自分の今の姿がとても気に入っている。それを気に入ってくれているらしいソーニャも気に入っている。なので、早く元通りぼくが鏡を何度も確認して何度も微調整したこの羊を模した姿をまたその金色の瞳で見てほしい。
「椅子に座ろうか。全身の力を抜いて座って」
「うん。こう?」
ソーニャの目はきちんと機能しているので、椅子には自分で腰掛けて、だらりと背もたれに体重をかけて天井を仰いだ。
ぼくは少し考えて、首を横に振った。
「前側にうつむいて、背中を曲げて脱力した方がいいかな?」
「わかった」
「目をつむって。何か見える?」
「光が見える。この部屋の下で動いている人間が見える」
「あ、いるのか。邪魔だな……殺そうかな」
本当は眼球から入ってくるあらゆる情報をいったん排除したかったのだけれど、ここは二階で真下に真上にも人間がいるのは当然の話だった。
無駄に人間を殺すのはよくないことだけれど、家族の教育の邪魔になるなら別に殺したっていいんじゃないだろうか。
「ネズミっぽいのとかはいつも見えているし、別にあんまり気にならない」
「まぁ、それならいいかな。とにかく、自分の背骨に意識を回して」
「うん」
「背骨に意識を回したまま、腕を目の前に持ってきて。指を広げて」
「うん」
「自分の腕や指に光が走っているのが、見えるかな?」
「見える」
魔力が高く、末端霊脈が太い証拠だ。ソーニャ自身の目でそれが確認できるほど、眼球神経に絡んでいる霊脈も太いことが確認できた。
ソーニャには今はまだ難しい話だろうから省略した方がいいのだろうけれど、ソーニャは常時有り余る魔力を全身に過剰に行き渡らせている状態だ。霊脈の根幹、脊髄に魔力の大半を収納保有して、効率的に魔力を扱う術を習得しなければいけない。
「息を吸うのと一緒に、手足や指の光を背骨に集める感じで、息をゆっくり無理せず吸って」
「――ぅーーっ」
少し、末端霊脈の光が薄くなっていく。
ソーニャの肺の中がいっぱいになって苦しくなる前に、ぼくは次の指示を出した。
「息を止めて」
「――」
「次は逆に。背骨に集まった光を、手足や指先にまでゆっくり行き渡らせる感じで、息を吐く。ゆっくり、ゆっくり無理せずに吐く」
「――ぁーーっ」
今度は逆に、少しずつ末端霊脈の光が濃くなっていく。
「うん。上手だ。目に見えている腕や指の光が濃くなったり薄くなったりしているのが、わかる?」
「……よくわからない。言われてみれば、そうかな? くらい。単に言われた通り、息を吸って吐いてしているだけって感じ」
「いや、それでいいんだよソーニャ。よし、続けてみよう。背骨への意識は忘れないように。光を制御して支配するのを忘れないように。呼吸で、それを操作する。まずは吸って」
ぼくは、ソーニャに深呼吸で霊脈制御させる基礎鍛錬を教えることにした。
魔人として生まれたぼくたちは、母親の胎内にいる時から既にもう母から本能的に霊脈制御の方法を教えてもらっているらしい。そうじゃなければ暴走して自滅するくらいの魔力を持つのが子爵級以上の魔人だ。
ただ、産まれた直後より少し育って小賢しくなり、動物的本能と人間的自我の萌芽となる幼児期が一番かえって危ない。この頃にはもう、呼吸で霊脈制御できるよう訓練させられる。
だから、ソーニャくらいの年齢――見た目的には十歳くらいだろうか?――で霊脈制御を教えるのはもう遅すぎる。
遅ければ遅いほど動物的本能が人間的自我によって塗り潰され、制御が難しくなるので、たまに帝国でも誕生する先天的魔力の高い平民を貴族の養子として迎え入れる際も、できるだけ幼い時期に引き取るようにしている。
理知的なソーニャはその分自我の発達が早く育っていると見え、そうそう簡単に霊脈制御を可能にできるとはぼくも期待していなかった。一ヶ月くらいは眼球神経に絡む霊脈の活性化を抑えられないだろうと考えていた。
だが
「マリー……マリーだ。雲みたいで、天使みたいな、マリー……」
「……すごい」
ぼくが深呼吸による制御訓練を教えて、何十回か呼吸する頃には目に見えて、息を吸うごとに末端霊脈に走る魔力が脊髄に収納されていくのが観測できた。
あとはぼくが教えるまでもなかった。感覚で何をどうすればいいのか、ソーニャが勝手に理解してしまった。息を吐いても、末端霊脈まで魔力が行き渡らない。注意する暇もなく、呆気に取られている間にソーニャは顔を上げ、金色の目を開き、ぼくの姿を捉えて嬉しそうに微笑んでいた。
「うん。よくできたねソーニャ。すごいよ。本当にものすごい。よくこんな短時間でコツを掴んだね」
「前々から、手がばちばちってするの、なんとかしたいと思っていた。マリーの綺麗な顔が、髪が、角が見たかった。そういったことを息を吸うたびに考えて、吐く時は胸の内に留める感じでやってみた」
ぼくはソーニャを腕の中に抱いて頭を撫でてあげると、恥ずかしげにソーニャは呟いた。
どうやら、ソーニャはぼくが保護する以前から電気操作魔法を無意識に恒常暴走させ続けていたみたいだ。
――始原の魔人。帝国を造り上げたぼくらの祖先も、同じような悩みと苦しみを抱えて、それを克服するために魔法と霊脈制御を編み出したと、ぼくも勉強させられたことがある。
少し、好奇心が鎌首をもたげる。色々ソーニャには聞きたいことがあるし、ある意味この娘は現代に生まれたぼくらのご先祖様とも言える存在だ。
でも、そんなことより、まずはソーニャが精一杯がんばったことを褒めてあげたい。ぼくの自慢の姿を綺麗だと言ってくれたことが嬉しい。
ぎゅっとソーニャの小さな身体を抱きしめる。
「ソーニャ。ぼくの可愛いソーニャ。ぼくの髪も角も気に入ってくれて、ありがとう。本当に、心の底から嬉しいよ」
「……リー……?」
「ん?」
「――しぃ……」
「あ」
感動のあまり、少し抱きしめる力が強すぎた。手足をばたばたさせるソーニャに気づいて、ぼくは抱擁を緩めて、かなり苦しそうにするソーニャの額に口づけした。
「ごめんごめん、感極まっちゃったってやつだ」
「……ふふ。でも、ちょっと……このまま死んじゃっても、いいかなって、思っちゃった」
窒息して涙目で笑うソーニャに、背筋がぞくりとした。
ぼくも女の子だ。ソーニャは大分小奇麗に整えてあげたけど、まだ痩せっぽちの小さな栄養不足の少女のはずだ。
なのに『妖艶』という、伯母上や妹が好む帝国外の小説に出てくる表現が似合う、そんな笑みを浮かべていた。
そういえば、ソーニャは村人からも――本人も魔女だと言っていたっけ。
「それは――まだだって、今朝も言ったよね? それにこんな事故で殺しちゃうようなのは、お互いの合意の下じゃないから駄目だよ。そういうわけで、まずは栄養をつけよう。ご褒美もかねておやつとお茶の時間だ」
何かソーニャに、それこそ古の伝説、魔女が使う技術ではない魔法をかけられた気分になったのを、ぼくは合理と本心を半分ずつ口にしてごまかすことにした。
すっかり冷めてしまっていたティーポットと薬缶のぬるま湯を、熱量操作魔法で熱湯に戻す。
ぼくは荷物鞄の中から、行き先の街々で買っている瓶詰めされた薬草茶の中から、とくに喉越しにクセのない配合のモノを選んだ。さんざん泣いた後のソーニャに、あまり刺激の強い飲み物は良くない。紅茶もミルクたっぷりで無ければまだ飲めないと思う。
ポットの中のお湯を薬缶に戻し、薬缶の中のお湯を熱量操作魔法で適温に調整。乾燥した薬草を湯気立つポットに適量入れて、お湯を注ぐ。
ティーコゼをポットに被せてお茶を蒸らす時間の間に、ぼくは引き出しの上に置いておいたブリキの四角いケーキ型をテーブルの上に持ってきた。埃がつかないよう、寄生干渉魔法で清潔にしておいた布を被せている。
ソーニャはぼくの動きを何も言わず、じっくり見ている。手を出すだけ邪魔だと理解し、そして何をしようとしているのか学ぼうとしている顔だ。よく出来る使用人見習いは、こういう顔をするので知っている。
「さっ、用意ができたよソーニャ」
「なんか今日、食べて寝てばっかり」
「そんなことあるもんか。今覚えた霊脈制御、本当なら一ヶ月はかかるはずだったんだよ?」
「そうなの? ……それに食事って、良くて一日に一回、パンとスープとか、粥とかじゃない?」
「……あのね、そういう生活だから、ソーニャはそんなに痩せて小さいんだよ。一日最低でもニ食は摂らなきゃ」
ソーニャは朝に穀物粥とチーズを出しただけで泣いてしまった。嫌いなのかと思ったら、あまりに豪華すぎる、美味しすぎると返されて眩暈がした。
昼間に少し重く、ルームサービスでバゲットとミートローフに野菜を煮崩したシチューを注文した。
帝国に移民してきたばかりの貧民は、あまり多く食べられないことがあるので適度な量だろうと思って注文したのだけれど、ソーニャは食べきれなかった。食べきれなかったことより問題は『満腹』という概念を理解しておらず「なんでこんなに美味しいのにお腹に入らないの?」と困惑していた。頭痛がしてきた。
「聞こうと思っていたんだけど、ソーニャっていくつ? あ、ぼくは今年で十五歳」
「十二、三だと思う。よくわかんない」
「その年齢でこの小ささか……。まぁ、少しずつ食べられる量を多くすればいいよ。残してもぼくが食べるから大丈夫。気にしないで」
ケーキ型から取り出した蜂蜜ケーキをぼくは適当に手でちぎって、お皿の上に置いてソーニャに差し出した。陶器のティーポットからガラス製のティーポットに茶葉を除けるついでに移したハーブティーを、ソーニャのカップに注ぐ。
ソーニャは、黙ってぼくを上目遣いに見ていた。主人より先に手をつけるつもりは無いらしい。
「いい子だね、ソーニャは」
ぼくは安心させるために自分の分のケーキを手掴みで頬張った。こんなこと、家では、はしたないから止めろと怒られるけど今は自由にやりたい放題だ。
ソーニャもぼくにならって、ぱくりとケーキを齧る。
金色の瞳が輝いた。
「…………」
黙々と、ゆっくりした速度でよく味わうように口を動かして、ごっくんと嚥下して、次の一口に移る。
延々と、それを続けている。頬は紅潮して、口の端にケーキの欠片がこびりついているのなんて気づいていない様子だ。
本当に、なんて可愛い生き物だろう。
「美味しい?」
「…………」
こくりっ、とソーニャは頷いて、もぐもぐと口にしていたケーキを飲み込むと、ぼくを見上げた。
「なにこれ」
「蜂蜜ケーキ。もうちょっといいスパイスとかハーブとか欲しかったんだけど、ホテルの厨房で貰えるものであんまり無理言えなくて、これくらいが用意できる材料だったんだ」
「……どういう意味?」
「ぼくが焼いたんだ、そのケーキ。自慢だけどぼくは結構料理上手だよ。将来は調理師が夢で、共和国には料理の修業も兼ねてやってきたんだ」
お兄ちゃんを探すという目的が一番だけれど、生死不明のお兄ちゃんを世間知らずのぼくが西に東に走り回ったところで居場所を突き止められるわけがない。
仕方ないので、亡命した帝国の魔法使いを見つけてはお話して探すよう協力してもらい、ぼくは基本的に料理の修業や観光を純粋に楽しんでいる。
ソーニャについては『山間の村に魔女がいる』という噂話を耳にして、好奇心だけで様子を見に来たらものすごい娘がいたので、すぐさま村の一番偉い人間に会って、譲ってもらうことにした。
もちろん相応のお金も用意すると言った。確かに言った。いくらぼくが世間知らずのお嬢様でも、対価なしに平人を貰うなんてできるわけがないと知っている。
そうして夜まで待たされて、観測魔法で揉め事が起こっているのはわかっていたけどぼくと彼らでは価値観が違いすぎて言っている意味もよく理解できず、相手に任せるのが一番だと待ち続けた。
けど、村の真ん中に連れてこられたソーニャに暴力が振るわれた瞬間ぼくは外に飛び出た。殺されかけて血まみれになって仰向けに倒れているソーニャを肉眼で確認した瞬間、完全にキレた。
でもまぁ、そのソーニャは今とても美味しそうに、呆然とした様子でぼくが焼いたケーキを食べている。
「マリーは……本当に魔法使いなんだ」
「まぁ、魔人はみんなそうだけどね」
「こんなに美味しいもの、生まれて初めて食べた」
「それ聞くのもう今日で三回目だよ」
「違う。今までとは、違う。マリーが作ってくれたものだから、美味しいの中でも、特別。一番の特別」
「……そっか。それは何よりだよソーニャ」
ケーキを食べ続けるソーニャを眺めて、ぼくはあえて思ったことを口にしなかった。
帝国では、想い人の好物を想い人が作って振る舞うことは求婚の意味と捉えられている。それほどまでに相手を知り、相手を想い、そして食べる。いつか二人の間に生まれた愛しい子孫に、お互い食べられよう、想いと愛を未来に紡いでいこう。
そんな意味が、込められているから。
「たくさん、大好きなものを作っていくといいよソーニャ。料理やお菓子ならぼくが作ってあげる」
「……いいの?」
「もちろん。ぼくはソーニャが大好きだから」
「私も、マリーが、大好き」
あえて言葉にしなくてもいい関係というものが、たぶんこの世界にはあるとぼくは思う。
ぼくはソーニャの主人で、ソーニャはぼくの家族だ。十分言語化できる。
でも、想いを伝えるのは言葉だけじゃなくてもいいし、言葉の上だけでの関係なんて結局か細く形にならないものだから、ぼくは両方が大切だと思う。
できることなら、ソーニャとはそんな関係を築いていきたい。
外譚は各部の合間に、本編では語ると冗長すぎる、あるいはその段階ではまだ語るべきではないと判断したエピソードを挟んでいこうと思います。
一部では作中一年間の時間が流れていったので、その合間に起きた出来事を拾っていく要素が強いです。
本文でソーニャが口にしている一節は箴言第十五章二一節から借用しています。彼女がたびたび聖書の引用をする理由はおいおい書いていこうかと思います。




