第五章 6:お兄ちゃんどいてそいつ殺せない
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「お兄ちゃんこいつ殺していい?」
そう言った時には、マリーの左手の指が錐状になって伸び、ドロテアと名乗った女の首筋と心臓と額に突きつけられていた。
ヘルマートとドロテアは、共に困ったような笑みを浮かべてマリーを見つめていた。
「ごめんなさいマリーちゃん。わたしが何を言っても言い訳にしか聞こえないと思うので、もっとみっともない言い訳しかできないヘルマートさんの言い分を聞いてください」
「わかった。お兄ちゃん、どうなの?」
「そりゃ俺の奥様ですので、殺さないでほしいに決まっています。あと、ドロテアさんを殺したら、俺も死にます」
へえそうか、と一瞬考えかけるほど、あまりにもヘルマートは平然と今まで通りの調子で、マリーを脅迫した。
マリーも気を取られかけたらしく、丸くなっていた目を吊り上げ直して左の余っていた親指の先をヘルマートのうなじに触れさせ、皮膚を粘土のようにして埋没させる。
「そんなことできるわけない。ぼくの寄生干渉魔法で、もうお兄ちゃんの身体の自由は奪った。頭の上からは自由に喋られるようにしているから、ちゃんとお話しよう? お兄ちゃん」
「マリーお嬢様のことをドロテアさんには話してなかったんです。たぶん、知っていたらああまで強引に結婚してこなかったと……ええ、どうだろう」
「その推測は当たっているよ、お兄ちゃん。奥さんのことよくわかっているみたいだね。お似合いなんだね。ぼくなんかもういらないのかな?」
錐状に伸ばしたマリーの指は、ドロテアのうなじにも触れて侵食していた。二人の魔力は平人並みなので、いくら消耗していてるマリーの魔力でも寄生干渉支配に敵うわけがない。
マリーは二人の思考や記憶をいくらでも読み取り、そして身体の内部から破壊できる状態にある。脅迫も何も無い。やはり馬鹿なのかこの男は。
けれど、今まで私が見てきたことがないくらいに冷たく怒る主人の顔を、やはりだだをこねる子どもを見るかのような余裕とほんの少しの嘲りが込もった目で二人は見ていた。
「そんなことはありませんよお嬢様。僭越ながら、マリーお嬢様は俺が誇れる生徒で妹のように思っていました。今も変わりないです。ただ、お嬢様が俺のような出来損ないのために家出するほど慕っていただいているとは思ってなかったんです。この点に関しては、いくら言葉を重ねても謝罪しきれません」
「それ最近思い出しただけじゃないか。ツェズリ島にいる間、ぼくのことちょっとでも思い出してくれたりした? 心配してくれた? ぼくがどんな想いでメルセリーナとお兄ちゃんの帰りを待っていたかわかる? メルセリーナを置いて家出したぼくの気持ちがわかる?」
「わかるわけありません。俺とお嬢様は違う人間です。そして、島にいる間は、本当に申し訳ないのですが、故郷のことはできるだけ何も思い出さないようにしていました。――お嬢様のことも」
「なんでそこで『思い出すのは辛いから』って思っているのを口にしないのさお兄ちゃんはさ」
「……嘘と逃げ足くらいが俺の取り柄なので」
「残念だったね。両方ぼくに捕まったらもう役に立たないよ。――もういいや。メルセリーナの言う通りにしよう。夫婦仲良く一緒に心を込めて殺して料理して食べてあげる。お兄ちゃんはもう、ぼくの大好きだったお兄ちゃんじゃない」
マリーが私の身体を離し、右腕の手首から先の骨を刃状に変形させて振り上げた。
それでもなお、ヘルマートの余裕の笑みは消えていなかった。
「ああ、それはこちらも残念です。交渉決裂ですね」
ぼっ、という音と共に、何かが焦げる異様な臭いが鼻をついた。キンッ、と軽い金属音が続く。
私は、臭いの先を辿って視線をやり、いつのまにかヘルマートの左の指が全て無くなっていることに気づいた。
――何が起こった?
「え? うそ、何してるんだよお兄ちゃん」
マリーの声は掠れて、上擦っていた。
ころころと転がって来た銀色の飾り気のない指輪が私の靴に当たり、止まる。
「肉体強化魔法は自分の肉体内で発動しますけど、本当は他の属性魔法も自分の肉体内で発動できるんです。生体電流を操作する電気操作属性を使えるマリーちゃんの方が、それはよく知っているんじゃないですか?」
「解説はいいんだよ! 正気なの!? わけわかんないよ! ぼくが止めなきゃ左手、せっかく治したのに全部燃やすつもりだったじゃないか! なんなんだよ二人とも。頭おかしいよ」
苦痛に顔を歪ませる夫の替わりと言わんばかりに、ドロテアの方がヘルマートが何をやったのか教えてくれた。
この男は、寄生干渉魔法で身体を支配されても、無理矢理死ぬ気で霊脈を最大励起させれば、自分の肉体の一部分を超高熱化させ、炭化させることはできるのだ。
そのうえ、マリーの言うことが本当なのなら、左手を丸ごと焼くつもりだったらしい。魔法式構築と起動に気づいたマリーが無理矢理止めたから、この程度で済んだとは言えない。
逆だ。マリーですら起動を止められないほどにこの男の魔法は速い。
マリーに治療してもらった身体を、マリーの目前であっさりと切り捨てたその意図は、私にも何がなんだか全くわからない。完全に狂気の沙汰だ。
らしくもなく、マリーが動揺するのも無理はない。私だって同じ気持ちだ。
この夫婦は何を考えているのか本当に、心の底から意味がわからない。
怖い。
「マリーちゃん。ヘルマートさんは、たぶん次は心臓か脳か脊髄のどこか一部分を炭化させようとしています。教えてもらったんですけど、この部分ってどれも魔人が魔力継承する部分でとくに大切にされている部位なんですよね? 寄生干渉の支配で、この内どれが燃えるのかわからないのに、完全に一切の瑕疵なく絶対に止められますか?」
「……ぼくに殺されて食べられるくらいなら、傷物になって自殺するって?」
「わたしも正直なところ意味がわからないんですけど、ヘルマートさんは『マリーお嬢様を信じる』って言って聞かなくて。信じてやる行為が普通、逆ですよね? あ、わたしはどういう風に殺してくれても構いませんよ。夫と一緒に地獄に落ちるのはもう婚姻届を出した時に約束していますので」
「ぼくは今ものすごくお腹が減って、ものすごくお兄ちゃんにお腹を立てて、ものすごく頭に来ているんだよ? 自分でも何をするかわからない。ドロテア、君の身体をじっくり丁寧に生きているのを後悔するほど壊してから治して、それを何度繰り返したっていいんだよ?」
唇をわななかせて、金色の瞳を夕闇に紅く光らせるマリーの声は粘っこく甘く、私が聞いたことのない色を帯びている。
魔人としての一端を見せたマリーに対し、それでもやっぱり、この夫婦の笑顔は一顧だにしなかった。
「そうですね。それもマリーちゃんの権利です」
「でも、それは、俺を先に殺してから、の話です。今、ドロテアさんに攻撃、したら、もう輪胴拳銃遊びを始めます。――法式札って知ってますよね? マリーお嬢様」
片手の指を焼いた苦痛に耐えているのだろう。脂汗を額に流しながら、ヘルマートは笑って、話し始めた。
「俺、実は爆破魔法式の札、身体のあちこちに……もう思考を読み取りましたよね。で、まぁ輪胴拳銃遊びっていうのは」
「裏社会の悪い大人なんかが、度胸試しや制裁、それこそただの遊びでやる運試しです。輪胴拳銃の弾倉に一発だけ弾丸を入れて、くるくるしゃかーって弾倉を回して、ぱちんと銃に戻して、自分の頭に突きつけて、一回ずつ引き金を引く遊びです」
「狂ってる」
「わたしもそう思います。マリーちゃんの感想は正しいですから、命を大事にしない大人になんか、なっちゃだめですよ?」
「アンタたちがそれを言ってもなんの説得力も無いでしょうが!」
私も、怒りと恐怖に堪えきれなくなってきた。
魔法式はもう物理世界に出力している。照準は二人の頭で、後は魔力点火さえ行えば二人は死ぬ。
なのに、ドロテアという女は余裕の笑みを少し崩して、優しげに目を細めて私を見つめた。
「ソーニャちゃんも優しいね」
「は?」
「そう、わたしたち夫婦はとっても悪い大人になっちゃった反面教師。でも、だからって気に入らないからって、すぐには殺さない。マリーちゃんを思って、できるのにやらない。すごく素敵な関係だと、わたしは思うよ」
マリーは、目を閉じ、ため息をついて肩を落とした。
伸ばしていた腕も身体構造変化魔法も解き、魔法式を展開したままの私の頬を両手で挟みこんで、額に口づけをする。
「ソーニャ、いいよ。魔法を解いて」
「マリーがそう言うなら止めるけど、どうしたの?」
マリーは明らかに苛々とした視線を二人に何度か投げかけてから、魔法式を解除した私に抱き着いた。
「もうこれ以上続けるとぼくの頭がおかしくなりそうだ。お兄ちゃんがなんでおかしくなったのかわからないけど、これを続けるとぼくもそっちに引き込まれそうなのが、怖い」
「……うん」
私は傍で見ていただけだから、まだいい。
でも選択権を握っていたマリーの焦燥や恐怖は、私の比では無かったはずだ。
この夫婦は狂っている。ほんのわずかな間、会話を見ていただけで理解できた。
ただイカれているのならまだいい。けれど、マリーの性格を熟知したうえで、マリーの優しさや弱さにも全部つけこみ、命乞いするどころか自殺しようとする。
理解不可能の愚行もいいところだ。なのに、なぜか、私の胸の奥から『どうなってもいいのなら、どうしたっていい』という囁きが聞こえてきて、理解できそうになるのが、たまらなく怖い。
「さあ! 交渉も一段落ついたところですし、本当にさっさと移動しちゃいましょう! お二人は旅荷物を預けたままだと思うので、取りに行ってきてください。わたしたち夫婦はここで待っています。というか、ヘルマートさんが馬鹿をやったので動けません」
ぱんっ、と両手を合わせたドロテアは宵闇になりつつある通りに合わない笑顔を浮かべ続けている。本当に気がおかしくなりそうだ。
私は抱き着いたままのマリーの耳元に、小声で語りかけた。
「ホテルで荷物取ったら、もう逃げない? こいつらと私、あまり話したくない」
「……気持ちはわかるけど、おかしくなっちゃっているけど、お兄ちゃんはお兄ちゃんなんだ。ここで逃げたら、ぼくが家出した理由も捨てちゃって、妹にも顔向けできない」
「わかった。じゃあ私も逃げない。マリーを守る」
私は昨夜マリーの命令を言い訳に逃げたせいで、マリーは壊れて帰ってきた。保ち直したように見えるのは取り繕っているだけで、色々起こったせいで内心はさらにぐちゃぐちゃだろう。
マリーが向き合うと決めたのなら、私はそんなマリーを支えたい。




