第四章 終:ハゲタカの残業
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ティーカップがお皿の上に落ち、割れる甲高い音が鳴り響いた。
ヘルマートさんは、わたしがこの一年間で出会ってきた中でもとびきりに驚愕した表情で、手にしていたカップを落としたことも気づかぬ様子で、完全に固まっている。
「……うそだろ?」
割れたカップから漏れたお茶が、テーブルの端を伝い床に落ちる頃になって、やっと出てきた言葉にジラルドさんは冷徹な声で返した。
「真実だ。セッテフィウミの力を借りて、共和国首都レフィーエの様子をうかがわせると良い。マリーと名乗る魔人令嬢が、共和国料理の修業をしながら『魔女』を家族にして、貴殿の情報を探している。これらが紛うことなき真実だと、すぐにわかるだろう」
「マリーお嬢様がなんで俺なんかを!」
悲鳴じみたヘルマートさんの叫びに、ジラルドさんはため息をついた。
「貴殿はどうやら、己の価値を理解していないらしいな」
「同感です」
件の女性らしき名前の魔人のことは初耳だけれども、夫の性格とジラルドさんの様子双方を省みれば、わたしでも大体何が起こっているのか事態は把握できた。
ジラルドさんは今日来訪してから、一番真剣な目をしてヘルマートさんを睨むように見つめた。
「貴殿が手塩にかけた弟子、マリー様は強いぞ。魔力保有量は私よりやや多い程度だが、魔法の使い方と式が完全に既存の常識を越えている。はっきり言おう。マリー様に一対一で勝てる伯爵は存在しない。あの方が家出した時点でそれなのだ。
今はさらに研鑽を積まれ、挙句の果てに『魔女』もまたマリー様が育てた、いわば貴殿の孫弟子だ。どれだけの潜在能力を持っているのか予想もつかない。帝国本土でも持て余していて、連れ帰ろうにもどれだけの戦力を出せば捕縛できるのかわからず、手をこまねいている状態だ」
帝国の魔人たちの爵位は、血筋で保有される単純な魔力量によって制定され、昇級や下降もあるとヘルマートさんに以前、教えられたことがある。
ただ冠する爵位に応じて帝国を維持する仕事の割り振りがされており、下級男爵や一代限りに拝借される『騎士』は国外活動を主とする。ただ、多くの男爵は分家として与えられる位であり本家の補助支援あるいは予備とされているらしい。
子爵と伯爵は国内領地経営が主な仕事だ。このあたりから実戦経験が乏しくなり、魔力が高いかわりにどのように戦闘で魔法を使えばいいのか理解できていない『貴族らしい貴族』になっていくという。
侯爵以上は、本来極寒の極北圏付近にある帝国本土を人間が住める環境に維持するため、その莫大な魔力を使って常時帝国全土に魔法を起動し続けている一族なのだそうだ。ここまで来ると天災魔法を起こせるけれど、出撃することがそのまま帝国の環境維持に弊害を生み出すので一度も戦闘や攻撃魔法を体験せずに一生を終える魔人も少なくないらしい。
わたしが教えてもらった知識と、ジラルドさんが今お話したこと。
両方を合わせると、無理矢理連れ帰ればそれに見合わない代償を支払う必要がある、歩く災害たるお嬢様をわたしの旦那様は世に解き放ってしまったようだ。それも、いつもの悪い癖で、無自覚に。
「私が貴殿を高く評価しているのは、良くも悪くもマリー様の存在あってこそだ。ユニカ家長子は出来損ないだという評判が、次々引っくり返る功績をマリー様が挙げた理由は、お嬢様御自身の努力と研鑽あってこそだと私に限らず多くの魔人たちが考えていた。
だが、マリー様が家出した理由が、誰かを探すことであり、その誰かが貴殿だとわかったことで私は不審に思い、調べさせてもらったのだよ。たかだか平人並みの『騎士』ですらない出来損ないの魔法使い。それが同じ出来損ないのマリー様を、手のつけられない狼に仕上げたわけだ。
ヘルマート殿。これは提案だ。我がアールベルク家と貴殿の生家ラガーフォイアは遠縁で血縁関係にあり、それ故同じ熱量操作属性だ。相性がいい。
――私はまだ死ぬつもりはない。だが、もし、志半ばで息絶えた時。私にまだ子供はいない。これを幸いに、私の魔力継承をするつもりはないか」
「お断りだ!!」
今まで完全に硬直していたヘルマートさんは、ジラルドさんの意図不明な、けれど言葉の限りでは大変に分不相応な提案を、言い終わるか否かの速さで、立ち上がり、断固拒否した。
頭に血が昇っているらしいヘルマートさんの脇腹を、わたしは指先でつついた。
「あ、いや、その、ドロテアさん」
「魔力継承とはなんなのですか。本来、保有限界魔力は後天的に伸ばせるものではないはずです。
以前から疑問に思っていました。帝国を統治する魔人とは一体なんなのか。なぜ災害級魔法を行使できるほどの、極北圏を理想郷に造り変えられるほどの魔力を保持し、世代を経て維持できているのか。なぜそんな種族が突然この世に出現したのか。
教えてください、今ここで」
「貴殿が話すべきだ、ヘルマート殿。奥方に対してそれが礼儀というものであろう」
ヘルマートさんは、肩で荒い呼吸をした後、割れたカップの破片を見つめていた。
その一片を取り、慎重に左親指の腹を刺して血を一滴流してわたしに見せた。
「生物は、血に魔力が通っています。この性質を利用して、流血魔術という物理世界に干渉できる魔力量を擬似的に増やす自傷技術があるのは、今更ドロテアさんに説明するまでもありませんね。
でも、本当に魔力が一番詰まっているのは、脊髄です。血なんてその末端の末端、文字通りの一滴でしかありません。そして生物の身体というのはとても複雑で、魔力を循環させる霊脈も脊髄に限らず内臓や骨などに深く濃く絡まっている。魔力が詰まっている。
帝国と今呼ばれる極寒のこの世の果てに流れ着いた祖の魔法使いたちは、多くの人種の中、平人だけが持つ固有能力に気がつきました。気がついてしまったと言うべきかもしれません。雪と永久凍土に覆われ、何も食べるものが無く、多くの仲間が飢え死んでいく中で、先に逝った仲間たちの骨肉を喰らうことで、経験則として知ってしまった。
血筋の繋がりが濃い者であればあるほど、互いを想い合う仲であればあるほど、同属性であればあるほど、継承される魔力割合が増える。人肉を食べることで。それが魔力継承です」
わたしは以前、ヘルマートさんと結婚する前にした初めてのデートでの一件を思い出した。
絶対に、生肉を調理したくないと嫌悪する姿を。
帝国では料理人が名誉ある職業だと認識されているということを。
想い人が好きな料理を、想い人が作ることが帝国では理想とされていることを。
胃液が、込み上げてきたのを、肉体強化魔法の一種で抑え込んだ。
ジラルドさんはそんなわたしの様子に気づいているようだけれど、それでも言葉を続けた。
「ドロテア殿。歴史の話をしよう。我らが魔人の――平人が魔人と名乗るようになった始祖たる話を。
我らの祖先は先天的に魔力量を多く持って産まれてしまった平人と、錬金術師たちの互助組合だった。生まれ持った大きな魔力を制御しきれず、異端者とされ、魔女や悪魔と呼ばれ、迫害され、虐げられた者たち。彼らの能力を当時の科学で分析、考察、実験し、魔法という技術に錬磨したのが、我ら帝国の祖だ。
祖先たちは人間たちにこの新しく無限の可能性を秘めた技術で以って、恩恵を授け、受け入れられようとした。多くの無辜の民に、異端ではなく親愛を求め、魔女や悪魔ではなく天使や神と呼ばれることを望んだ。虐げられたくなかったのだ。はぐれ者でいたくなかったのだ。そのために全てを尽くしたのだ!
結果は、異端狩りだった。人間は異質なる者を受け入れられない。その姿形が似ていれば似ているほど、異能を許さない。祖先たちは追われ、人間が住めぬ地に次々と追われ、そして、極北の島に辿り着き、死に逝く仲間を弔うこともできず、だからこそ力を得たのだ。
生まれ持った力が異能であれば、生き残るための業が異端であるならば、ならば我らは望まれるままに異人となろう。魔を操り自然を不自然とし、普通だのと常識ならばと神の御名の下にと我らを迫害した人間どもを隷属させ、お望みの当然と当たり前を――我ら魔人が決めた魔の法をくれてやり、家畜として支配してやろう。
……私は、そのような妄想に取り憑かれていた魔人だった。今も、真実本心を打ち明ければ、人間を見下している。怖いからだ」
魔法帝国は狂っている。
クラリッサちゃんの言葉の意味が、わたしにもようやく理解できた。
わたしがそう在りたいと願い、同時に絶対にそんな恥知らずには成りたくないと思う、善良な小市民。無辜の民。それが魔人と魔法帝国を生み、世界に牙を剥いたというのなら、わたしは――
「気持ちはわかります」
「平人の子のドロテア殿にわかるかね?」
「人間は、常に異端者を探しています。そういう生き物です。だからわたしは普通に、常識的に、指差されないよう生きてきました。ずっと誰かに合わせて生きてきました。理想の女として振る舞っています。愛する夫と一緒にいたいからです。そのためなら、手段を選ばない」
どうすればいいか、まだ考える時間はある。
わたしはヘルマートさんを見上げた。
「マリーちゃんに会いましょう。たぶん、マリーちゃんはあなたに見捨てられたと思っています。あなたの教え子があなたを求めているのなら、あなたがきちんと道を示してあげなくっちゃだめです」
「ドロテアさん。ずいぶん、具体的にわかるんですね……」
「同じ男性を好きになった女の勘です。大体あなたはすぐに自分をどうでもいいからって投げ捨てて、飛び去って、あなたを想っていた人間の気持ちを考えられない卑怯者じゃないですか。わたしの前にそんな女の子を一人作っていたのなら、その娘をまず助けてあげなくちゃだめじゃないですか。なんで今まで黙っていたんですか!」
口にしている内に、感情が抑えきれなくなった。
ヘルマートさんは、わたしが出会った時からこういう男性だった。
だから、視線を落として、とても言いにくそうに、申し訳無さそうに小さく呟く。
「想像もしていなくて。俺なんかが、その、そんなに……」
「まだ言うかヘルマート殿」
「そうですよあなた。自信を持てとは言いませんが、もっとしっかり周りを見てください」
わたしは視野が狭いこの不器用な男性を支えると決めた。だけど、わたしとこの男性が出会う前に起きてしまっていたことはもう今更変えようがないし、支える方法も限られる。
でもそれがどうしたというのだ。
婚姻届にサインした時、わたしはもうとっくの昔に覚悟は決まっている。
「帝国と世界がどうのこうなんて後回しです。一緒に共和国に行きましょう」
「俺はマリーお嬢様に食い殺されるかもしれまんよ?」
「そうならないために知恵を絞って、そうなった時はそうなった時です」
「でも」
「失ったものは戻らない! 時間と忘却だけがお薬! けど、あなたはまだ喪われていない! そんな格好の悪い所長さんなんて、わたしの愛するあなたじゃありません!」
今この一件だけ、わたしはこの男性がハゲタカに戻ることを許したっていい。
失われたモノを取り戻すことを生業としていたのなら、最初っから失われていなかったことを証明してみせるのが、わたしの所長さんの最後の残業だ。
「わたしは事務員としても妻としてもあなたを支えます。わたしを救ってくれたように、マリーちゃんも救ってあげてください」
胸を叩いて訴えると、ヘルマートさんは自分の血が垂れた左親指を見つめ出した。
「そうですね。俺は叔父さんを喪ってやけっぱちになった。マリーお嬢様は俺を失って家出した。なら、この連鎖はまだ生きている俺が断ち切るべきだ」
そうこなくっちゃ。
「はい。よくできました」




