第四章 2:友達の友達の兄も友達
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去年の夏、神聖皇国――その国土の形状から俗称として『長靴の国』と呼ばれる――のセッテフィウミ海運本社に到着した時、予想以上の歓待をわたしたち夫婦は受けた。
大陸を抉るように広く長く拡がる海に面するこの神聖皇国は、太古から貿易と戦乱が盛んな大国だったと、博識な夫は田舎の漁村出身で無学なわたしに船の上で説明してくれた。
古くから今に至るまで制海権と貿易権を巡り槍と舌とで戦いが行われ、点在する島々の原住民と侵略者の血みどろの歴史が流れ、終いには平人の内でも大きな勢力と権威を持つ十字教の教皇がおわす国として、色々な意味と事情から難しい立ち位置にある海洋貿易国なのだそうである。
そのような国で、並み居るライバル会社を薙ぎ倒し大きな契約先と大量の船舶を抱えるセッテフィウミ海運は、いくら末娘の紹介状があるからと言っても簡単に協力してくれるとは、わたしは全く考えていなかった。夫のヘルマートさんも同意見だった。
実際には、船から降りて港に到着すると、セッテフィウミ海運の豪奢な馬車がわたしたちを出迎えて、燦々と降り注ぐ陽光の下で輝く立派な庭園を構えた大きな屋敷にあっという間に連れて行ってくれた。気分としては攫われたに近かった。
おまけに玄関前で待ち構えていた色白で黒髪の上品そうな平人の青年は、わたしたちを見たとたんに両腕を広げて満面の笑みを浮かべてこう言った。
「遠方はるばるようこそ! ヘルマート様にドロテア様。妹のクラリッサがずいぶん迷惑をかけたようで、兄として謝辞と礼を言わねば、いやいや報いに応えねばいかぬと気を揉んでいたのですよ。さあさあ長旅でお疲れでありましょう、部屋へとご案内致します」
「……え? あの、その、クラリッサ嬢の、兄上、ご本人、ですよね?」
ヘルマートさんはクラリッサちゃんから貰った紹介状を片手に、片言のように喋った。
相手はこちらに合わせてくれているのか、流暢な連邦王国語なので会話に苦労しないはず、ではあるのだけれど、問題は態度だ。
大仰に天を仰ぎ、青年は深々と頭を下げる。
「ああ、なんてことだ。私としたことが失礼を。客人にして恩人たる貴方方に名乗るのを忘れていたとは。おっしゃられる通り、セッテフィウミ家の次男、チェチーリオ・セッテフィウミと申します。セッテフィウミ海運の社と家の双方において、妹の我儘に協力してくれたこと、心よりお礼申し上げたく待っておりました」
「いやいやいやいや。待ってくださいチェチーリオ様。頭を上げてください。いやホントお願いします。俺たちはそんな大層な人間ではありません」
ヘルマートさん、すごく慌てている。でもわたしも呆気に取られている。
大貿易会社のご令息――二十歳行くか行かないかくらいだろうか?――が、直々に得体も略歴も知れない夫婦を、妹の恩人というだけで歓迎するにも限度というものがある。
まずは使用人を通して、しかるべき客室で偉そうに踏ん反り返って挨拶するはず……たぶんそう。
神聖皇国という、訪れたことのない国の民であるうえに、相手は大商人とはいえ貴族ではないから、わたしが持っている常識とはかけ離れた感覚を持っているのかもしれない。
うん、とにかくそう思っておこう。
「何をおっしゃいますか! 妹からの電報を読む限り、全面的に貴方方を信頼し協力し、私の采配であらゆる支援をせよという内容でありました。あの聡く賢いクラリッサが信じたのであれば、私は私の判断以上に貴方方夫婦を信頼し、客人としてもてなさねば!」
「ええ……」
「あ! そうですか、社長である父がこの場にいないことが……くぅっ。しかし、私どもは貿易業の関係上、兄も父も多忙で本社に滞在する期間が短く、代理として次男である私が――」
「いやいやだからもう十分以上なんです。十二分なんです。どれだけ妹様を信頼なさっているんですか」
「クラリッサはセッテフィウミ家の切り札です。男児として産まれていれば、間違いなく家督を譲ったと父上と兄上と私と亡き祖父全員が認める可能性の塊です」
「…………わかりました。なぜセッテフィウミ家がたった二代でこれほどまでに大きな貿易会社になったか本当によくわかりました」
ヘルマートさんはたぶん『変人家系がたまたま上手いこと時流に乗った』と思っているはずだ。
クラリッサちゃんは確かに常識にとらわれず、聡い女の子だった。将来がかなり心配になるくらいに。
でも、理解ある家族に恵まれたことは幸運だ。あの娘をただの小賢しく生意気な末娘と抑えつけていれば、今よりすごい暴走をしたかもしれない。
それはそれでちょっと興味があるけど、顔には出さない。
「さあともあれ、屋敷の中へ。連邦王国からこの神聖皇国までの長い船旅は堪えたでしょう」
「それはいいんですが、クラリッサ嬢が買い取った牙人の子どもたちのことなのですが……」
「ご心配には及びません。使用人頭を港に待たせており、人間相応の扱いをするよう命じています。これも妹の要望でしたので」
「……あの子どもたちをここまで連れてきておいた俺が言うのもなんですが、あの子たちが恩を仇で返さないという保証はありませんよ」
屋敷の中に入り、廊下を先導するチェチーリオさんの背中に私の旦那様は相も変わらず、相手にとって嫌な印象を覚える忠言をする。
優しさが変な方向で捻じ曲がった不器用な男性。それがわたしのヘルマートさんの評で、だから嫌われるなら役割分担をしなければ、そのためには婚姻という足枷をつけなければいけないと決断させた最大要因だ。
チェチーリオさんはけれど、自信に満ちた笑みを唇にたたえていた。状況が状況でなければ、多くの女の子を落とせそうな笑顔なのがもったいない。
「我が妹がそれを案じていないとでも?」
「……わかってて保護したんですか、クラリッサ嬢は」
「ヘルマート殿も同じではありませんか。妹が信頼するのは常に共犯者です」
「あー……」
クラリッサちゃんの親友だと紹介されたギィジャルガさんの鱗人らしからぬ振る舞いから、わたしも、たぶんヘルマートさんも察した。
「もちろん、牙人の子どもたちがそうならぬよう私どもも細心の注意を払ったうえで保護を続け、しかるべき職に就かせたいと考えています。ですが、牙を剥かれたその時は」
「その時は?」
「幸い、先ほど申したように我が社の要たる社長である父、跡継ぎの兄上、そして切り札のクラリッサ。皆多忙で家族一同揃う日は本当に少ない。犠牲になるとすれば、この私が母上を守って真っ先に立ち、彼らを説得します」
「……下手な貴族より貴族していますよ、チェチーリオ様は」
「いやぁウチはただの運び屋に過ぎませんし、私は貿易商家に生まれながら船酔いがどうしても克服できず、帳面と数字しか能の無い男ですので。そのくらいはやらねば」
チェチーリオさんは、わたしの旦那様と少し性格や生い立ちが似ているのかもしれない。
家の使命を果たせない出来損ないと思って育ち、自分なりにできることを勉強して学び続けてきたけれど、それでも自信が保てず周囲より自分の命を軽く見てしまう。そうした方が楽だから。
今まで黙っていたわたしは、口を開くことにした。
「わたしも帳面や経理など、机の上で紙とペンを動かすことしか能のない人間です」
「ドロテア様――いや、これは失礼を。そのようなつもりは無かったのです」
「こちらこそ無礼な言い分を」
立ち止まった商家の若い次男は、わたしに向かって頭を下げた。
わたしも同じように膝に手を当て、腰まで深く頭を下げて、それから眼を見据えて話の続きをした。
「ただ、チェチーリオ様には、自分がもし家族の誰よりも早くに亡くなった時、残されたご家族のことを考えたうえで、選択肢を多く見積もっていただきたく思うのです」
「……なるほど、本当に妹が信頼するだけのことはあるご夫婦だ。ドロテア様、その忠言、忘れず胸に刻み入れておくことをお約束致します」
そうだといいのだけれど。
どれほど思ったところで、人間は自分自身の想いの重さに動けないものだとわたしは思う。




