第一章 2:天使か羊か魔人なのか
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死んだらどうなるんだっけ。
牧師様がおっしゃった話によれば、この世の終わりと神様のご降臨が成られた時に死者は全て墓から出てきて裁かれるんだっけ。
じゃあ、魔女の私には関係ないな。人間じゃないんだもん。墓に埋葬なんてしてもらえるわけも無いし。
「じゃあなんで君はそう思っているのかな? 意識が戻ったみたいで良かった良かった」
聞き覚えのある声で、私は目が覚めた。
天井。村や近隣の町の粗末な建物の天井よりずっと高く、教会の天井より低い。使われている木材は少し黒ずんで重みを感じる。
身体は温かく、深く、柔らかい何かに包まれている。天井から眼を逸らして見ると、純白の丁寧に上等な生地で織られたシーツが皺を寄せていた。
これはもしかして、ベッドというヤツなのだろうか。
「おはよう、魔女っ子ちゃん。寄生干渉魔法でちょっと君の思考に触れちゃったけど、そういうのってダメだからね。ちゃんとお喋りして笑ってわかり合わないと。お名前教えてくれる? あ、それとも喉渇いてたりする? お腹空いてない? ぼくの名前を先に知りたいかな?」
可愛らしい少女の声が私の周囲を巡り、矢継ぎ早の質問の最後に、天井を遮って私の顔を覗き込む者が見えた。
金色の大きな瞳。それがまず真っ先に強い印象を覚えるものだった。
雲のように真っ白で、雲のようにふわふわな長い髪は波打っており、ちょっと触ってみたい。
そこで、私は髪の生え際にある頭――耳のちょっと上部分に巨大で異質な物があることに気づいた。
角だ。捩れ、渦巻く、重そうな角が両側頭部から生えている。
まるで羊のような女の子だと思った。
「私は……ソーニャ」
「うんうん。ぼくの名前はマリー・リー・ユニカ。ご覧の通り、魔人だよ。平人の子のソーニャ」
特徴的な角を指先でつんつんしながら、にこにこと笑顔で羊みたいな少女――マリーはそう言った。
それだけで、私の胸の奥に血潮が滾った。指先が痛くなるほどの、衝動が込み上げてきた。
「ソーニャ」
「ん? 名前はもう聞いたけど、どしたの? もしかして、フルネームはソーニャ・ソーニャとか?」
「違う。違うの。名前、名前をもっと呼んで」
「うん、ソーニャ。痛かったんだろうね。死にそうだったもんね。ソーニャ、もう大丈夫だよ。ぼくが君を大切にしてあげるよソーニャ」
涙が溢れてきた。
それだけでもう十分幸せだったのに、マリーは私を抱き寄せてくれた。
小柄で痩せっぽちの私は、年上のお姉さんらしいマリーの身体に持て余る。ぎゅっと包み込まれて、白い髪が鼻をくすぐって、雲の中にいるみたいだ。
ここは天国なのかな。魔女の私がこんな所に、こんな――
「私はソーニャ」
「うん」
「私はソーニャでいいんだ」
「そうだよ」
「何が魔女よ!! ざまあ見ろ!! 死んだ! みんな死んだ! マリーが殺してくれたんだよね?」
「そうだよ。でもソーニャが本気になって、ちゃんと魔法を学んでいる本物の魔女だったのなら、ソーニャだけで皆殺しにできたと思うけどね、あんな下等人種」
私は笑っていた。笑うのなんて、いつぶりだろう。私が愛想笑いでもがんばって浮かべると、それだけで気味悪がられて、いつの間にか心も顔も何もかも動かなくなっていた。
マリーと話しているわずかな時間で、私はもうほとんど思い出せないくらい幼い頃、まだママとパパにちゃんと人間扱いされていた頃の感覚が、当たり前が、蘇ってきた。
そんな当たり前を私から奪って、【魔女】と呼んで私をいじめて蔑み踏みつけ殺そうとしてきた連中は、もう生きていない。生き物は死ぬ瞬間、背骨の光りの質が変わるから、あの焦げた臭いがした時に私はマリーが何をしたのか朦朧と途切れる意識の合間に気づくことができた。
そこで、あれ? ってなった。
「マリーの背骨、光ってない」
「あっ、今のソーニャには霊脈が見えないんだね。仕方ないよ。あれだけ血を流したんだから。ぼくの治癒魔法で無理矢理血を造って死なないようにしたけど、その分ソーニャ自身の魔力を使わせてもらったから。ぼくの魔力でも造血魔法は使えなくもないけど、治癒魔法って本人自身にちゃんと治してもらった方が後遺症少なく済むからね。ソーニャはまだ魔力には余裕があったから、全部自分で補いきれたみたいだね。えらいえらい」
マリーは私の身体をベッドの上に座らせるようにしてから腕を解き、ロクに洗っていないフケだらけの私の頭を撫でてくれた。
思わずびくりと頭を下げる。マリーは「あれ?」と首を傾げた。
「どしたの? 別に叩くつもりなんかないよ? ぼくは怖くない魔人だよ?」
「マリーの……」
「うん」
「貴女の綺麗な手を、私みたいな汚い身体で汚したくなくて」
「アハハッ。確かに今のソーニャは汚いかも。でもさ、これ、ぼくのお兄ちゃんの受け売りなんだけど聞いてくれるかな?」
マリーはあっさりと私の有様を認めてくれた。
そのうえで、視線を泳がせて、少し頬を赤らめて弾んだ声で語る。
「身体なんていくらでも後から綺麗にできる。とくに、寄生干渉属性であるユニカ家のぼくみたいな魔人なら。でも心は、魂は一度汚れたらその染みや淀みは簡単に消せないものなんだってさ。だからねソーニャ。ぼくに遠慮なんかしなくていいよ。浄化と治癒こそユニカ家の本分だからね」
「……いいの?」
「いいに決まっているじゃん。もしソーニャがだめな理由に心当たりがあるなら、ちゃんと言葉にしてほしいかな? こうしてお喋りできるのって、互いに生きている間だけの期間限定特権だもん」
「無いよ……違うよ。なんで、なんで私みたいな魔女を、マリーはこんなに……優しくしてくれるの?」
少しずつ落ち着いて周りを見れば、私が寝かされている場所がどれだけ豪奢でお金のかかった場所なのかわかる。
今まで教会の燭台や村長の家にある時計くらいでしか見たことのない、いやそれよりずっと手の込んだ調度品の数々が、この広い広い部屋にはたくさん並べられている。
窓なんか、すごく大きいのに隙間風が全然吹き込んでこない。
差し込む日の光が見たこともない生地で織られた絨毯を照らしている。
私なんかがこんな所にいる資格はない。これは、お貴族様やお金持ちの商人なんかがいていい場所だ。
マリーは、質素な旅装束を着ているけど平人ではない彼女の美しく異質な姿は、そんな場所にこそ相応しい。
改めて彼女は私の脂で固まった黒髪をわしゃわしゃと撫でてくれた。
「そうだね。これもお兄ちゃんやぼくの妹からの受け売りだけど、順番こっこにお話しようか。ぼくはサクッと答えから先に言った方が楽で早くて好きなんだけど、それってお喋りじゃなくて押し付けなんだって。そういうのダメって言われちゃった。ソーニャにはわかる?」
私は頷く。とてもわかる。なぜ私が魔女なのか、誰もちゃんと教えてくれなかった。断片的な嫌悪と蔑みと恐怖の感情をぶつけられるだけだった。
するとマリーは改めて嬉しそうに私の垢まみれの頬に頬ずりしてくる。
嗚呼、頭が沸騰しそうだ。雲みたいな髪が私の頭を包み込んで頭の熱も和らげてくれる。
「可愛いなぁソーニャは。平人でも、豚でも牛でも学ぶことは多いってお兄ちゃんは言っていたけど、本当だね。君と出会えてぼくは幸運だよ」
話しながら、マリーは私と視線を合わせる距離にまで離れ、ベッドに腰かけた。
幸運というのなら、私がマリーと出会えたことこそ最高の幸せだ。分不相応な幸いだ。
「ソーニャが魔女なのは、魔力がすんごく多いからだね。ただのそんじょそこらの平人でここまで魔力量が高い個体はぼくも初めて見るよ。養殖モノじゃなくて天然だからなおさらすごいよソーニャは。やっぱり内陸部には行くもんだよね。移民船団に乗れない掘り出し者が眠っている」
「魔力……って何?」
「ソーニャ、生き物の背骨が光って見えるんでしょ? それはね、魔力が高い人間の証拠だよ。背骨には――正確には脊髄なんだけど――魔力がたっぷり詰まっているんだ。で、背骨から身体中の指先に至るまで魔力は循環している。心臓が血液を送るのと同じように。魔力が高すぎてちゃんと制御できていないと、霊脈が眼球神経にまで干渉して他人の霊脈まで見えちゃうんだよねぇ」
「……霊脈?」
「あ、ごめん。言い忘れていた。基本的には背骨に詰まった魔力の塊のことを言うんだけど、さっき説明したように霊脈は背骨を中心に全身に細く行き渡っているモノなの。生来魔力が高い人間ほど、この末端霊脈が太くてね。ソーニャが他の平人には見えていないものが見えていたのは、そのせいだよ」
ちゃんと理由があるんじゃないか。
呪いだとか、化け物だとか、悪魔だとか、わけのわからない理由より、ずっと筋が通って納得ができる。私の感覚と説明が完全に一致している。
マリーが指先をくるくる回すと、キラキラした氷の粒が空中を舞った。天井へと渦巻くように氷の粒は増え続けて上昇して行く。
「今ぼくが使っているのは熱量操作属性魔法で、大気中の水分を冷やして氷にして、同時に氷よりちょっと離れた場所の空気を暖めるのと冷やすのを同時にこちょこちょーってやって、つむじ風を作っているの。これ、お兄ちゃんの得意技なんだ。魔法式、すごく綺麗でしょ? ……って、まだソーニャには魔法式が見えないかな? 見えても理解できないか」
「……うん、すごい。ぜんぜんわかんない。きれい」
呆気に取られて見ていたが、マリーがぱんっ、と両手を叩くと氷の粒は溶けて水滴となり、落ちて、そして湯気がもうもうと絨毯のあたりを覆っていた。
マリーは氷粒を指先に一つまみ残していた。私の口の中にそれを突っ込み、にんまりと笑う。
やっぱり、彼女は天使じゃなかろうか。天使に角が生えているのかなんて知らないけれど。
「ソーニャ。これが魔法だよ。ソーニャは電気操作属性だから今みたいなことはできないけど、ぼくも電気操作属性の適正は多少あるから、教えられるモノは教えてあげられる」
「……いいの?」
「魔法は結構難しいよ? だから使えなくても落ち込まなくていいからね。ソーニャがちゃんと自分の魔法を暴走させない程度に制御できないと、ソーニャ自身が困るから。それくらいは教えてあげるのが、ぼくの義務。ぼくは貴族だからね」
「……だから、なんで、私に、そんなに優しくしてくれるの?」
この、一夜にして私の欲しかったものを全て与えてくれた天使のような羊のような魔人の少女は、何が目的で私みたいな魔女をこんなに良くしてくれたのだろう。
理由がなければ、私は彼女に恩返しできない。この優しさに報いることができない。
私の全てを捧げるにも、やり方がわからないと、そう、それこそマリーの言っていたようにただの押し付けになってしまう。
マリーは白く繊細で柔らかな指を私の頬に伸ばし、顔を近づけてきた。
そして額に口づけをした。
「ソーニャはぼくのペットだから」