第8話。サーカス・オペラを観たら不覚にも泣いてしまった。
俺と母を乗せた【乗り物】が中心街を走り、そろそろ目的地のオペラ・ハウスに到着する。
「ジョヴァンニ。タイが曲がっているわよ」
母が注意して、俺の首元に手を伸ばした。
「あ、うん……」
俺は顎を上げて、母に白い蝶ネクタイを直してもらう。
俺と母は、正装を着ている。
俺は、大公の謁見の時の正装とは違う別の正装を着ているのだ。
日本人的感性では馬鹿馬鹿しいと思うが、貴族にはTPO毎に相応しい服装というモノがある。
貴族にとって観劇は、社交の場だ。
服装に手抜きは出来ない。
一口に正装と云っても、貴族社会では色々とある。
国際儀礼格式第一礼装。
正礼装。
準礼装。
略式礼装。
そして、昼夜でも服装規定が変わる。
特に女性のドレスは、昼間なら首・肩・胸元・背中・腕を覆うお堅い格好で、布地は光沢がないモノで色は中間色系が望ましい。
反対に夜は大胆に肩・胸元・背中・腕を出し、布地も光沢ある原色系が用いられていた。
従って、正装はTPO(時間、場所、場合)によって、最低でも8種類ある事になる。
TPOに即した常識の範囲内であれば職業制服や民族衣装の類を着ても構わない。
国際儀礼格式第一礼装と正礼装は衣類に関しては共通する。
違いは、勲章、大綬(肩から腰に斜めに掛ける帯みたいなモノ)を付けるか如何かの違いだ。
その上で男性は、国際儀礼格式第一礼装では帯剣する。
特別な許可がない場合、刃が付いていない鈍のイミテーションか、戦闘用ではない宝飾剣を用いるのが普通で、本当に斬れる実戦武器を所持していると、警備に止められたり怒られる場合もあるので注意が必要だ。
女性は、昼はローブ・モンタントで、夜はローブ・デコルテになり、国際儀礼格式第一礼装の場合は、一族伝来の由緒ある宝飾品類やティアラなどを身に付ける。
大公との公式謁見、公式な儀式典礼、各国からの国賓を饗応する公式晩餐会などに出席するような場合が国際儀礼格式第一礼装で、それ以外の冠婚葬祭や行事などに出席する場合は正礼装。
【リーシア大公国】なら、地球の中世西欧貴族の正装が該当するのだが、これが例の飾り帽子に膝丈半ズボンとタイツという仮装行列みたいな恥ずかしい格好になる訳だ。
外国では、ローマ時代みたいなトガが着用される場合もある。
しかし、これは貴族の場合で、爵位を持たない市民の場合は、男性の場合燕尾服に昼なら白い蝶ネクタイを結び、夜なら黒い蝶ネクタイを結ぶのが一般的だ。
女性は、一般市民もローブ・モンタントとローブ・デコルテで変わらない。
ただし、近年では【リーシア大公国】貴族の男性も正礼装の際に燕尾服を着用する場合がある。
たぶん、みんなも……あの膝丈半ズボンとタイツがダサい……と、薄々勘付いているんだと思うんだよね。
準礼装は男性は昼にモーニング、夜にタキシードを着用して、女性は昼にモーニング・ドレス、夜にカクテル・ドレスを着用する。
これは、貴族も一般市民も共通だ。
今、俺と母が着ているのが、モーニングとモーニング・ドレス。
正直なところ、日本人の感覚では、準礼装でも十分に堅苦しい。
略式礼装は、男性なら背広やビジネス・スーツにネクタイ、女性ならワンピースやキュロット・スカートや長ズボン姿などの砕けた装いが許容される。
ただし、略式礼装は、あくまでも正装の範疇にあるので、決してカジュアル・ウェアではない事には留意しなくてはならない。
・・・
オペラ・ハウス。
オペラ・ハウスに到着した。
俺は、【乗り物】のドアを開けようとして、母に止められる。
ドア・マンが外からドアを開けるまで車内で待つのがマナーらしい。
ドアが開かれ、俺は外に出た。
人が多い。
車寄せからオペラ・ハウスのファサードまで赤絨毯が敷かれている。
あ、今は国中から貴族が集まっている成人の儀がある期間だ。
当然、オペラ・ハウスに観劇に来る貴族も多い。
だから、オペラ・ハウスの出迎えが、こんな仰々しい様子になる訳だ。
「おほんっ……」
【乗り物】の中から、母が左手を伸ばして咳払いをする。
「あ……」
俺は母の手を取った。
公の場では、男性は同行の女性をエスコートしなければならない。
これも面倒な貴族社会のマナーだ。
【乗り物】くらい自分で降りろ……とも思うが、女性のドレスという奴は丈が長くて歩き辛い。
実際問題、パートナーのリードがないと裾を踏ん付けて転ぶ可能性もある。
女性をリードする事は虚礼ではなく、実用的な意味合いもある訳だ。
なら、ドレスなんか着なけりゃ良いのに……という身も蓋もない正論は、貴族社会では通用しない。
「エイプリル・ターペンタイン・カンパネルラ男爵夫人、ジョヴァンニ御子息。写真を撮影致します」
俺が母の手を引いて、少し歩くと出迎えの群衆の中から声を掛けられる。
俺と母は、カメラマンに向かって作り笑いをして見せた。
この写真はファッション雑誌などに掲載されるらしい。
【リーシア大公国】のマスコミ関係者であれば、国内貴族の顔と名前と紋章は、ほぼ覚えられている。
なので、【リーシア大公国】の中を行動する限り、俺は行儀が悪い振る舞いは出来ない。
貴族は肩が凝るのだ。
因みに、母のミドル・ネームのターペンタインというのは、セントラル大陸北方国家【スヴェティア】の南方自治都市【ヘルベチア】を収める領主ユリウス・ターペンタインの家系から嫁いで来た事を意味する。
ユリウス・ターペンタインというのは、【権聖】という称号を持つ【聖格者】で、凄く偉い人らしい。
【聖格者】というのは、今世の世界では……存在そのものが高貴な人間……と見做され、強大な魔物を倒すような破格の戦闘力や、常人ならざる知性を持ち、何と寿命は1千年も生きるそうだ。
母は、そんな偉い御仁の血筋を引く止ん事なき家系の御令嬢だった訳である。
とはいえ、母は件の【権聖】から9代も隔した子孫で、嫡流ではなく傍流の家の娘だから大した事はない。
もちろん、長命な【聖格者】でもなくて、普通のオバさんだ。
俺はヨチヨチ歩きの頃、【ヘルベチア】に里帰りした母に連れられ、一度だけ【権聖】ユリウス・ターペンタインに会った事がある。
俺は、赤ん坊の頃から前世の記憶を持ち自我が確立していたから、当時の事を良く覚えていた。
俺にとっても、【権聖】ユリウス・ターペンタインは、母方の御先祖様に当たる。
ま、俺は養子だから血は繋がってないけどね。
ユリウス・ターペンタインは、好々爺風の穏やかな面差しの老人でニコニコしていたが、糸目の中に覗く眼光がヤケに鋭かったのが印象的だった。
「ほお〜。良き面構えだ。ふむふむ、なるほど。この子は将来、歴史に名を残す大器傑物となるであろうよ」
ユリウス・ターペンタインは、俺を膝に抱き頭を撫でながら言ったのである。
それを聞いた、元来は質素倹約を旨とする緊縮家の祖父が……ジョヴァンニは、あの【権聖】様から、大器傑物と言われた……と、大喜びして、俺の教育の為に大枚を叩いて色々と学ぶ機会を与えてくれたのだから、【権聖】ユリウス・ターペンタインの影響力は絶大らしい。
閑話休題。
俺は母の手を引いて、オペラ・ハウスの桟敷席に着いた。
この桟敷席は、基本的に会員権方式のVIP席になっている。
年会費は高額だ。
オペラ・ハウスの運営資金の大半は、この桟敷席の年会費で賄われているので、ホール席は比較的安く価格設定されている。
【モンティチェーロ】のオペラ・ハウスは大公家の私有財産である為、ホール席は【リーシア大公国】の国民に安価で解放し、市民に娯楽を提供しようという意図があるらしい。
桟敷席の会員権は大半が大公家や国内の貴族家が持っていて、一部大企業や大商人が権利を持っている。
母は会員権を保有する大商人から、この桟敷席の今日の利用権を買った訳だ。
貴族達は、毎日オペラ・ハウスに来て観劇をする訳ではないので、自分達が観劇予定の日以外は桟敷席を無償や対価を取ってレンタルする場合もある。
だから、桟敷席の会員権を持つ知り合いの貴族に頼めば、無償で観劇出来たかもしれない。
ただし、その場合は、有償・無償を問わず桟敷席の利用権を融通してもらった事で、会員権を持つ貴族に借りを作る事になる。
カンパネルラ家の家風は、他の貴族家に借りを作るのを好ましく思わない。
大商人や大企業から桟敷席の利用権を買っても、融通してもらった事には変わりないが、その場合キチンと領収書などを発行してもらえば、純然たる商取引として後でとやかく言われる心配はないのだ。
ならば、カンパネルラ家が自前でオペラ・ハウスの会員権を保有すれば良いと思うが、前述の通り、祖父を始め代々のカンパネルラ家は、質素倹約を旨とするから……贅沢は敵だ……という考えで、桟敷席の会員権は持たない訳である。
祖父曰く…… カンパネルラ家は、代々財務に携わる家柄なので、質素倹約を行っているのだ……という事だ。
経済を回すには消費は美徳……な筈だが、万が一……財務大臣が散財して破産した……なんて事になったら、職務上の信用がガタ落ちだから、カンパネルラ家がケチなのは当然かもしれない。
俺は、桟敷席からホールを見下ろした。
オペラ・ハウスの内装の設えは、いつもと異なっていて、舞台がホールの中程まで迫り出していて円形舞台になっていた。
なるほど、母が……今日の演目はサーカス・オペラだ……と言っていたから、こういう舞台配置になっているのだろう。
母が注文した飲み物や軽食を飲み食いしていたら、開演ブザーが鳴った。
さてと、オペラやミュージカルが苦手な俺の目に適うかな?
正直、余り期待はしていない。
白塗りで燕尾服を着た初老のパントマイマーが登場して、芝居掛かった口調で前口上を述べる。
彼は、言わばストーリー・テラーだ。
ふむふむ……予め観客への予備知識として、舞台設定の状況説明をする訳だな?
このサーカス・オペラ一座の名前は……【ラ・ストラーダ】。
ストラーダとは道を意味する。
オリジナルの【ラ・ストラーダ】のメンバーは、セントラル大陸南方国家【パダーナ】の【ロムルス】という都市で、大道芸人として日銭を稼いでいた……まつろわぬ民……が中心となって結成されたらしい。
道端で芸を観せる人達の一座だから、【ラ・ストラーダ】という訳だ。
なるほど。
そして、この……豊かな者は金貨で暮らし、まつろわぬ民は歌で暮らす……という演目自体が、大道芸人達の日常の悲喜交々を描いている。
なので、ミュージカルっぽく歌って踊るシーンも、大道芸を生業とする……まつろわぬ民……の日常の情景として落とし込まれているから、唐突に歌い出したり踊り出したりという違和感が少ない。
中々考えられた立て付けの演出になっている。
初老のパントマイマーが引っ込むと、まつろわぬ民の少女が現れた。
彼女が主役のジーナ。
ジーナ役は、ジーナ・アットリーチェという実在の、まつろわぬ民の少女を演じる。
ジーナ・アットリーチェは、年末特番の歌番組ミュージック・フェスティバルに出演していた若いミューズだ。
オリジナルの【ラ・ストラーダ】の看板スターであるジーナ・アットリーチェは……豊かな者は金貨で暮らし、まつろわぬ民は歌で暮らす……の演目上、自分自身の役を演じる訳だ。
自分を演じるなんて、恥ずかしくならないのか?
まあ、良い。
実際のジーナは【山羊足人】だったが、このジーナ役を演じるノリコという少女は【人】なので、衣装と特殊メイクで【山羊足人】に扮している。
ノリコという少女が演じる主役のジーナは、冒頭のソロで、いきなりトチった。
あ、いや、トチった演出か?
パンフレットによると、オリジナルの……豊かな者は金貨で暮らし、まつろわぬ民は歌で暮らす……の初演で、実際にジーナが派手に歌をトチってしまい、それを……自分は、まだ大道芸人としては未熟だ……という咄嗟の機転で失敗を誤魔化したのが……リアリティがある……と評判になり、以後は台詞と演出として取り入れられたらしい。
面白いエピソードだ。
序盤はジーナの境遇が中心に描かれる。
ジーナは、怪我で芸が出来なくなった母の代わりに幼い妹のアイーダを連れて、街で芸を披露するが余り稼ぎが良くない。
まつろわぬ民は、街の人々から差別的な扱いをされる場合もあり、色々と辛い目にも遭う。
姉妹が、生きて行く為に、また母の為に、健気に芸をする様子が涙を誘う、泣かせる演出になっていた。
舞台転換があって、突然【悪魔】が衛士隊長を操って傀儡にする。
荒唐無稽……いや、この世界には【悪魔】とかのオカルト存在が実在するのだ。
俺自身【妖精】のティントレットを連れているしね。
中盤は、大道芸人(に扮した演者)達が、舞台狭しと歌い踊り曲芸や軽技を披露する。
ホール席のかぶり付きからは、舞台上に実際チップが投げ込まれていた。
こうして、オペラ・ハウス全体が道端で芸を披露して投げ銭で暮らす、まつろわぬ民の生活空間に仮託される。
まつろわぬ民が、衛士隊長から無実の罪を着せられて逃げ回るシーン。
【ケンタウロス】族の背中で、軽技師達がアクロバットを観せる活劇が繰り広げられた。
やがて、ジーナが独唱を取って、まつろわぬ民に決起を呼び掛ける。
コーラスが重なって、最後は大合唱となった。
ジーナ達と、衛士隊による対決シーン。
だが、結局ジーナは衛士に逮捕される。
ジーナは仲間のまつろわぬ民を逃す為に、追手を引き付けた結果、捕まってしまったのだ。
はいはい、自己犠牲ね……。
ジーナは、刑場に引き摺り出され火炙りにされようとしていた。
ジーナは最期に……学校に行って勉強というモノがしてみたかった……という実に普通の素朴な願望を歌う。
ジーナ達まつろわぬ民は、基本的に国家に帰属していないから義務教育すら受けられない。
死際に、ジーナが子供っぽい平凡な願望を吐露するのが逆に切なくなる。
多くの観客は泣いていた。
母も泣いている。
縛られたジーナの足元に積み上げられた薪に火が点けられた。
万事休す。
すると、突然何の脈絡もなくワイヤーで吊るされた【創造主】の御使という設定の女性が降りて来てアリアを歌った。
そして【悪魔】は呆気なく滅された。
えっ?
いきなり?
何の伏線もなく?
これは……機械仕掛けの神……と云って、あらゆるピンチや不幸を神や妖精などの高次元存在が登場して無理矢理解決してしまう演出手法だ。
ザ・ご都合主義。
そして、大団円。
まつろわぬ民と街の住民達の大合唱。
ジーナ達まつろわぬ民は、街の住人達から受け入れられて、幸せに暮らしましたとさ。
めでたし、めでたし。
所詮は荒唐無稽で非現実的な物語だ……。
感動しなかったのかって?
感動したさ。
号泣だよ。
お読み頂き、ありがとうございます。
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本作は「ゲームマスター・なかのひと」のスピンオフ作品です。
本編「ゲームマスター・なかのひと」も、ご一読下さると幸いでございます。
・・・
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