パワハラ
輪原葉月(35)は苛立たしげに舌打ちをしながら、家路につく。
今日の彼女は上司からの叱責を受け、その腹立たしさを抱えたままブツブツ独り言を零していた。
1人の女が暗い道で何か呟きながら歩くその光景はともすれば不気味にも見える。だが輪原の気の強さを感じさせる顔つきを見れば彼女が死霊や狂人の類でないことは明らかだ。ただ癇癪を起こしているだけ、よくあるヒステリー。そんな雰囲気を纏いながら輪原は「ったく、なんでアタシが……」と聞く者のない愚痴を垂れ流している。
「人間よ、お前の願いを聞き届けてやろう……」
私がそう話しかければ、輪原は咄嗟に自分の身を庇う動作をしながら「誰!?」と問いかけてくる。
そんな彼女の前で私は空間を歪ませ、夜の帳よりさらに深い闇の穴から身を乗り出し辺りに硫黄の匂いを撒き散らす。
……今回は登場の方法に少し凝ってみた。「ひっ」と短い悲鳴を上げ、尻餅をついた輪原の前で私は尊大な口調を心がけて話す。
「私は地獄の偉大なる悪魔・ダメストフェレスだ。私と契約すれば死後のお前の魂を引き替えに、願いを叶えてやろう。お前は今日、職場の上司から呼び出しを受けたのだろう……?」
青ざめた顔で「なぜそれを」と口にする輪原を前に私はニヤリと微笑む。なんとか姿勢を整え、表情を取り繕う輪原に私はさらに語りかけた。
「お前はパワハラの件で今、困っているだろう。私に願えば死後の魂と引き換えに、それを解決してやる。それどころか会社をお前の思うままに、作り替えることができるぞ……」
「つまり、幸運な人だけが辿り着ける不思議な駄菓子屋の店主みたいなもの?」
「……まぁ、そうだな」
いちいち説明するのも面倒なので、とりあえず適当に頷いておく。
人間の世界では「パワハラ」という、仕事場における精神的苦痛を与える行為が横行している。今、私の前にいる輪原もその渦中にいる人間の1人だ。
ただし——この女はその被害者ではなく、加害者。
輪原は勝ち気な性格であり、今までの人生でも「できることを褒める」より「できないことを咎める」べきだと考え生きてきた。そのため本人は優秀な人間であるものの、他者を認めその成長を賞賛することができない。
加えて、これは輪原自身が全く気がついていないことだが——輪原は部下の女たちに、嫉妬の念を抱いている。まだ若いから、失敗やミスが許される。上からは甘い目で見てもらえるし、下がいないから責任がなく楽でいい。全ては輪原の思い込みであり身勝手なやっかみだが、彼女はそれを受け入れることができない。自分が「嫉妬している」と認めたらより、自分が惨めになってしまうから必死で「部下が悪い」と決めつけ粗探しに躍起になっているのだ。
だが、周囲は違う。自らの嫉妬から目を背け、若い人間を病気や退職に追い込んでいく輪原は「お局」「女王」と呼ばれ忌み嫌われていた。今日はその行動が目に余るということで、輪原の仕事ぶりを買っていた会社が漸く動き出したのだ。ただし、輪原はそれでも自分が悪いとは思っていない。自分は正しいのに、理不尽なことを言われたと信じこうやって1人八つ当たりをしていたのだ。
「なんで、アタシが悪魔と契約しなきゃなんないのよ。アタシは悪くない、正しいことを言ってるだけなのに……」
「周りは、そう思ってくれていないのだろう? お前の行いは正しいが、それを認める人間は誰もいない。私と契約すればそんな状況から抜け出せるのだぞ。さぁ、どうする……」
実際の輪原は正論こそ口にしているが、過剰に騒ぎ立てているその様を見れば悪質なのは輪原の方だ。だが、それに気づかない輪原は理不尽な状況に「追い込まれた」と信じ切っている。
これなら、悪魔である私の誘いを断れないはずだ……そう、にんまり笑った私の顔面に突如鈍い痛みが襲いかかる。輪原が鞄で私を殴りつけたのだ、と気がついたのは血走った目で私を殴打する輪原を目にしてからだ。
「違う! 違う! 違う! アタシは何も悪くない、仕事だってできてる! 正しいのはアタシなんだから、最後はアタシが認められるはず! 悪魔なんかじゃなくて、神様がきちんと見ててくれるはずだもん!」
半狂乱になって取り乱す輪原は、私に全ての怒りをぶつけ喚き散らす。……あぁ、またダメか。どうやらこの女はどうあっても、自分が正しいと信じこんでいるらしい。
自分の非を認めたくないから、周りがおかしいことにする。周りがおかしいのなら、私のような悪魔と契約しなくていい。真に正しい自分が、苦労すべきでない。頑なにそう考えている輪原の前から、私はさっさと姿を消す。あとは輪原の、はぁはぁと荒い息遣いが響くばかりだ。
輪原はこのままパワハラの自覚すら持たず、「正しいこと」を続けるつもりだろう。その結末は無様なものだろうが、彼女が自分を正しいと信じ続ける以上、私にできることは何もない。悪魔はあくまで「契約」を行うものなのだ。契約する意思のない人間に何か為すことはできない。
ひとしきり感情を爆発させた輪原はそのまま鋭い目つきで空を睨み、苛立った様子のまままた帰り道を歩くのだった……。