人殺し
「なんだ、お前」
仁志吾郎(32)は突然現れた私を見てさして驚いた様子もなく、不躾にそう尋ねてくる。
メフィストフェレス先輩の言葉に従い早速ターゲットを絞ることにした私は、未だ人間どもが叶えられそうにない願いを持ったこの男に目を付けた。
私の前にいる人間は仁志吾郎だけではなく、その兄や親「だった」ものが転がっている。まぁ、どれも同じ世帯の人間なので全員「仁志」なのだがそれはさておき——私は相手に考える隙を与えないよう、手短に用件を伝える。
「私は悪魔・ダメストフェレス。創作界隈によくいる、摩訶不思議な世界の商人だ。私と契約すれば死後のお前の魂と引き替えに、その死体を始末し今後の衣食住を保証してやろう」
簡潔に、「どこぞの○○?」などと言われたり熟考したりする時間を与えずシンプルな内容にしたセールストーク。この男が普段からオカルト趣味があり、悪魔や天使の存在をそれなりに信じているのは把握済みだ。だから、今度こそ頷くはず。今回はきっと、私の誘惑を受けるはずだ。
だが、仁志の顔は異常なほど表情が抜け落ちていて……私はそれに、違和感を覚える。
この男はたった今、自らの家族を刃物でメッタ刺しにし「引きこもり」から「殺人犯」へと変貌したはずだ。なのに今、目の前にいる仁志はまるで夢でも見ているかのようにぼーっとしている。悪魔である私の登場に、驚いて現実を受け入れられないのだろうか……と考えていると仁志は薄い唇を、そっと開く。
「いや、俺はもともと自分の家族が嫌いでいつかぶっ殺そうと思ってましたから。それで死刑になるのも仕方ないかなと思ってますし……まぁ、用はないので帰ってくれませんか?」
淡々と、まるで天気の話でもするかのように語る仁志。その目を見ると、私の悪魔としての直感でピンときた。
……あぁ、ダメだコイツは。
人間の中にも色んな奴がいるが、稀にこういう生きたまま死んだような人間が現れてくるのだ。人間としての生を過ごす中で、何かを失ってしまった人間。それを仕方ないものと諦め、流されるままに生きてしまった連中。彼らは人間が言うところのゾンビのような存在で、その魂はスカスカで軽くなってしまっている。そんな人間の魂を奪ったところで、地獄には何のプラスにもならない。悪魔が欲しているのはもっと欲深く、生き汚い魂なのだ。こんな人間を相手にしても、私には何の益もない。
「……それなら、私は帰るとしよう」
「そうしてもらえると助かります。あ、でもちょっと待ってください」
仁志に呼び止められた私は、立ち止まりその仮面のような表情を見据える。仁志は私の頭から爪先までじろりと一瞥すると、ボソッと呟いた。
「なんか、思ってたより『悪魔』って感じしませんね。でも、生きてる間に本物の悪魔が見れて良かったです。ありがとうございます」
「……」
非常に不本意な感謝をされた私は、黙って姿を消す。いつもの硫黄の匂いは仁志が殺した死骸の香りで、あまり目立っていないようだ。そんな中で死体と同じような顔をした仁志は、ぼんやりと立ち尽くしている。
「そろそろ誰か、通報してくんねぇかな」
他人事のようにそう口にした仁志は、私と契約していないにも関わらず既に魂が抜けたような顔をしていた……。