ダメストフェレスの憂鬱
「さすがに人間のガキにやられるのは情けねぇぞ……」
呆れたようなメフィストフェレス先輩の言葉に、私は言葉を返すことができない。
あの少女――腹井真白からなんとか逃げ切った私はすぐ悪魔の医師・サブナク様に診てもらい辛うじて一命を取り止めた。代わりに私の醜態はすぐ地獄に知れ渡り……こうして地獄の酒場でメフィストフェレス先輩に慰めてもらおうとしたところを、逆にダメ出しされるという事態に陥ってしまった。
「だってまさか、人間界にまだエクソシストなんてやろうとしてる連中がいるなんて思わなかったじゃないですか! まして、あんな女子どもが……」
「相手が一応は神についてあれこれ学んでいる奴だったんだからそういう危険性があるのは当たり前だろう? 今回はそれでも逃げ切れたから良かったが、下手すりゃ消滅させられてたんだぞ」
そう、メフィストフェレス先輩の言う通りだ。
悪魔は人間の言うところの寿命はないし、死や老いといった宿命も存在していない。代わりに人間の魂を食らうことによってエネルギーを貯め込み、それによって地獄での序列や魔力の量が決まる……ベルゼブブ様やアスタロト様といった名を口にするのも恐れ多い大悪魔であったら人間に多少害を為されたところで大した影響もないが、私のような下級悪魔は呆気なく消されてしまう可能性もある。なんとか逃げ切れただけでも感謝すべき、なのだが……
「――いいや。ダメストフェレス、お前の罪はそんなに軽いものではない。おお前はお前の想像以上に、とんでもないことをしでかしてくれたのだぞ」
世界の果てから聞こえてきたような低い声に、私だけでなくメフィストフェレス先輩も恐怖に肩をすくませる。しかし声の主はそんなことなどお構いなく、酒場にいる悪魔たち全員を威圧するように闇からその姿を現す。
「あ、あなた様は……!」
すかさず酒場にいる悪魔たちが跪き、現れたそのお方に絶対的な敬意を示す。もちろん、私とてその例外ではない。目の前に現れた大悪魔――ドラゴンに跨り、長い髪を靡かせる美しい悪魔を前にして私はひたすらに頭を下げる。
「地獄の大公爵、西方を司る怠惰の悪魔アスタロト様! なぜあなたほどの方が、このような場所に……?」
「口を慎め、ダメストフェレス。そして私の名を、気安く呼ぶな」
大悪魔、アスタロト様に冷徹な目でそう言われれば、私は恐怖のあまり固まることしかできない。その場の空気が一気に凍てついたような緊張感に、名前を呼ばれた私だけでなく他の悪魔たちも平伏するしかできなくなっている。地獄の三大支配者が持つ、圧倒的な強さ……絶対的な力の差に、その場にいることすら重荷を感じる中でアスタロト様は忌々し気に私を睨み付ける。
「ダメストフェレス。私に過去と未来を見通す力があることを、知らないわけではあるまいな?」
「はっ、仰る通りにございます。アスタロト様ほどの強大な悪魔であれば、そのようなことは容易く……」
「余計なことを口にするな。お前は地獄に大いなる損失をもたらした大罪人だ。本来ならこの場で首を撥ねてやってもいいのを、サタン様の寛大な処置により私がわざわざこちらに出向いてやっているのだぞ」
アスタロト様の言葉に威圧されつつ、私は一抹の疑問を感じる。地獄に大いなる損失をもたらした、とは一体何のことだろうか。思い当たる節のない私に、アスタロト様はより一層怒りを増したのか苛立ちを隠そうともせず私へ言いつける。
「お前が契約を持ちかけようとした少女、腹井真白はお前との遭遇したことによってエクソシストになる未来が決定したのだ。そのせいであの少女は将来、我らの同胞に大きな損害を与えることになっている。それが、地獄にとってどれだけの損害を与えるか。お前にはわからないのか、このダメ悪魔」
アスタロト様の言葉に、私はさっと血の気が引くのを感じる。
腹井真白。私を祓おうとしたあの少女は私がきっかけで、エクソシストになる決意を固めた。言うまでもなく、エクソシストという神の下僕は悪魔である我々にとって決して面白い存在ではない。だが、たかが一人増えたぐらいで大袈裟な……と考えているとすかさず私の体に小さな蛇が飛んでくる。この蛇はアスタロト様がいつも手に持っていらっしゃる蛇だ、蛇は私の腕に絡みつくと容赦なく牙を私に突き立てる。その激痛に「ぎゃあ!」とみっともない声を上げるとアスタロト様はそんな私を鼻で笑ってみせた。
「愚かなお前に教えてやる。あの少女は人間界でも類まれなる才能を持つ、天才的なエクソシストだ。エクソシストになってからは我らの同胞を打ち滅ぼし、複製品とはいえあのロンギヌスの槍を授けられるまでに成長する。そのせいで我々悪魔たちに大勢の犠牲者が出るのだ。いわばお前は、大勢の悪魔の犠牲者を出すきっかけを作りだしたのだぞ」
冷え切ったアスタロト様の声に、私は周囲から非難の目が向けられるのを感じる。あのメフィストフェレス先輩でさえ、蔑むような目線を私に向けていた。そこでやっと私は、自分のしでかしたことの大きさに気がつく。
腹井真白。あの少女の前に私が姿を現さなければ、彼女は悪魔の存在など信じずに平凡な人間として一生を終えていただろう。だが私が現れたことで悪魔とその眷属の存在を確信するようになり、将来エクソシストになるという道を選ぶようになった。いくら私が下級悪魔とはいえ、まだ学生の段階で既に私を倒しかけることができたのだ。修行を積み、きちんとしたエクソシストになればどれだけ大きな脅威になるかなど想像に難くないだろう。
私に嚙みついた蛇はいつしか鎖になり、そのまま私の体を縛り付ける。醜い蛆虫のようになった私に手を差し伸べてくれる者は、誰もいなかった。ドラゴンの前足に掴まれた私は、アスタロト様にそれでも必死で弁明を試みる。
「も、申し訳ございませんアスタロト様! 私はあなた様のような力がないからあの少女がそんあにも強大な存在になるとは知らなかったのです! これからは気を付けて、このようなことがないようにしますのでどうか……」
「お前に『これから』はない」
私を一瞥するとアスタロト様はその美しい顔を私に近づけ、そのまま何かを呟いた、その瞬間、全身に激しい痛みが走り――もはやまともな言葉も喋れなくなった私に、アスタロト様は非情に告げる。
「馬鹿なお前でも、私の吐く息が毒を持っていることぐらい知っているだろう。お前はその毒で一万年、苦しむ刑を与えた。これからしばらくは人間界に出られなくなるが、悪魔たちの犠牲を考えれば軽いぐらいだ。お優しいサタン様に感謝し、自らのダメさを呪いながら反省するといい」
そのままドラゴンは私の体を放り投げると、アスタロト様と共に高く飛び去ってしまう。私はその場でのたうち回ったが、誰も助けてくれる者などいなかった。
◇
後に伝説的なエクソシストとして恐れられることになる腹井真白。その存在が生まれるきっかけは、地獄の悲しき下級悪魔だった。
地獄の大公爵直々に罰せられた、ダメダメ悪魔ダメストフェレス……そんな二つ名を持つことになったダメストフェレスはその後、魔力を使い果たし消滅するまでずっと憂鬱な顔を続けていたという……。




