魔女たちが子どもだったころ~始まりの一章~
*この小説は未完です。(以下削除)
一、始まり
これはまだ、魔女たちが子どもだったころのお話です。
湖がまだ生まれたてのちいさな泉のころ、山はまだやわらかい緑のうぶ木で覆われていました。朝の空にはにじいろの雲がたなびいて、季節はようやく目覚めたばかりでした。
人間のほとんどが優しい人たちばかりでした。深い神秘の森のおくで魔女たちは、不思議な生き物たちと仲良く穏やかに暮らすことが出来ていたのです。
魔女たちは、時には村々を訪ねて特別なおまじないをして、失くしたものを見つけたり、かるい病気を治したりして、人の役に立っていました。そのころの言葉はまだ強い力を持っていました。言葉たちは今よりずっと自由に、そこここで遊び回ってたのです。その言葉たちと一緒に遊ぶことが出来る特別なものたちが魔女だったのです。
その朝の太陽はまだとても若くて、その光は爽やかな香りを森全体に惜しみなく与えていました。楠の古老が、ブナの生意気盛りの若木が、クヌギの静かな子どもが、朝の眩い光と香りで洗われていました。夜なんてこの世にはまるでなかったかのように、森の空は晴れていました。東の青い赤の空を艶やかな烏が一羽「アゴ、アゴ」と、鳴きながら飛んでいます。「いい天気だよー いい天気だよー」と喜んでいるのです。
烏は、神秘の森の東のあたりに、ふっかりとした若草に覆われた小さな丘を見下ろします。丘の上には、小さくて、でもしっかりとした樫の木で造られた家があります。屋根には、手のひらほどの瑪瑙の丸い薄い板が、雨のささやきも、情熱も、また狂暴な風たちの憤怒さえも受け止めてくれるように敷き詰めれれていて、まるでマゼラン山脈の麓にいるドラゴンの鱗のような煌めきを見せています。窓は優しく描いた円の形をしています。もしも烏がその家を訪って、その決して完璧であることを望まないでこぼこを、その黒い嘴で優しくつんつんと突くならば、そこから一つの物語が立ち上がるでしょう。でも、今はそのときではないようでした。
見知らぬままに物語たちに囲まれているこの家こそ、魔女の子ども『ココ』の家なのでした。ココは語るべきを知り、沈黙の黄金の価値を知る黒鳥と暮らしていました。
「ココ。もう朝ですよ。」黒鳥はお世話を焼きます。そのことが嬉しくて、今もその優美な嘴に続く羽毛の瞳を、涙の熱が薄っすらと覆っているのです。(この黒鳥である彼女は『グー』です。グーは魔女ではありませんが、魔法に愛された特別な鳥なのです。)
「うーん…」ココは、ベッドで目覚めようとしています。まださっきまでの夢たちは瞼の内側にいます。でも、朝の眩しい光りに、夢の中にしかいない誰かの面影が消えていきます。目覚めとは、夢が夢であったことを、確かにします。そして、夢の記憶をすっかりと消してしまうことで、目覚めたということさえも消してしまうのです。
百日紅のつるつるしたベッドには、ふかふかした枯草が形よく平らに敷き詰めてあり、それを大きな黄色い星が散りばめられた藍色のシーツが覆い包んでいます。その上のまっ白なやわらかな枕に頭を載せて、時に寝相わるく眠るココに、グーは昨夜も、薄い紫のやすらぎの毛布をかけてやりました。
ココが、可愛らしい手でその瞼を、むにゃむにゃこすります。
「また、あの夢。あの場所で、あの人たちとあったの。」
それから、夢の思い出を瞼の裏に隠したままで、ココはしばらく黙っていました。
そして、しばらくしてから、グーに聞きました。
「今はどんな朝なの。明るくて涼しくていい香りの、咲いたばかりのお花みたいな朝かな?」
それが、もう夢の想いを切り離そうとしているように聞こえましたので、
「はい、はい。そうですよ。」わざと忙しそうにグーは言いました。グーは、いつもの朝の白い綿のエプロンを軽やかにかけていました。
ココが、ゆったりとした紫のローブに着替えていると、
トントンと、丈夫な樫の木で出来た扉を誰かが、軽やかにノックしました。
トントン。トントン。軽やかな音が続きます。ココは、ナナカマドの赤色の三角ぼうしを頭に載せながら、うっとりとそれを聞いていました。
「はい、はい、どなたですか。」グーが扉を開けようとすると、
「いいの。開けなくてもいいの。」ココには分かっていました。あれは目覚めたばかりの欠伸たちが遊んでいるだけなのです。扉を開けてもきっと何も見えなくて、あたりにクスクスと笑い声が消えていくだけなのです。それはあんまりきまぐれなので、魔女にもどう相手をしていいのか分からないのです。
ココがようやく着替え終わったようです。東向きの窓辺から光を浴びて、今日という朝の様子をまるで初めて見るように驚いています。朝日の光りがココの身体の形を象っています。後ろから見つめているグーの眼に、ココのその姿は、まるで弾ける小さな花火のように眩しく咲いて輝いていました。
「さめないうちに食べなさいね。」
グーが朝ごはんの香りがゆをくるみの木の椀によそって、声を掛けます。それは、ふわりとやさしく朝の身体を温めてくれる、ココの大好きな甘くてさわやかなおかゆです。特別なハーブと採りたての季節の葉野菜、そして新鮮な川魚の切り身を少し入れて、じっくりとお米と煮込んだものです。(これは、グーのとくいな料理の中のひとつですから、もちろん蛍石の砂糖とクジャク石のスパイスも入っています。)
「ふふ、ありがとう。」
ぴかぴかにみがかれた樫の木の床の上を、ありがとうの言葉がきらきらところがっていきます。ほんとうの言葉は目に見えるのです。水かきのある足元にやってきたそれを、グーは黒い風切り羽の両手を器用に使ってすくいあげました。
「きれいね。こちらこそよ。」
親しさがやわらかい霧のようにグーの黒い羽に覆われたつやつやとした身体からたちのぼります。朝のひかりがプリズムになって、ココにはまるでグーが虹の霞に包まれたように見えるのでした。
ココたちの家のテーブルは大きな緑柱石で出来ています。丸いテーブルについた四本の脚は六角柱で、ミルクがかったエメラルド色です。四つある椅子は四角い無垢の紫檀で作られていて、ちょうどいいくぼみとかたむきの座り心地のとても良いものです。
ココが、深く光を満たすそのテーブルで、アツアツのおかゆをふーふーと食べていると、
ドスン。ドスン。
今度は誰かが激しく扉を叩きました。あまりに強く激しいので、小さなココたちの家の厚い窓ガラスまで震えているほどです。
「誰ですか、こんな朝から。」グーが急いで扉を開けると、石の亀の大きな鼻先と鉢合わせしました。その石の亀は、その大きな木の実のような黒い瞳に、必死さを漲らせていました。
「たいへんだよ。たいへんなんだ。」
「あら、どうしたの。大きな声を出して。」
(大きな声で慌てているこの石の亀『ゴロ』は、実はまだ子どもなのです。身体は石窯ほどもあって、もう百年以上も生きていますけれども。)
ゴロは、ココたちの家の小さな玄関から、中へ入ろうともしません。
「スズメバチだらけだ。たいへんなんだよ。しずくをとりにいけないよ。」
「え。スズメバチ。まあまあ、そんなに慌てて。落ち着いて。中に入って、一角牛のミルクでも飲んで。」
あまりに慌てるものですから、ゴロの太い足元にはもじゃもじゃとした黒い『焦り』が絡まっていました。グーはこんなにも慌てているゴロを初めて見たのでした。
グーは、大振りな白い広いボウルに、一角牛のミルクを満たして、緑柱石のテーブルのすぐ傍の床に置いてやりました。ゴロは、よく冷えたそれを舐めてようやくいつものように落ち着いたらしく、のんびりと話し出しました。それによると、どうやら生まれたての泉の周りにスズメバチが巣を作ったらしいのでした。
「まあ、それは大変ね。でも、スズメバチといっても、ゴロだったらつんつんされるぐらいで、大丈夫でしょう。」
「それがねぇ。おおきいんだよぉ。とおってもねぇ。あれはつんつんじゃあすまないねぇ。」
ゴロはミルクを大きくて厚い舌で、びちゃりごくんと舐めて飲みながら話します。
「はねはねぇ、ココのうでよりもながいんじゃないかなぁ。あしはココとおんなじくらいあるかなぁ。とおってもおおきなおとでうるさいしねぇ。」
「ええっ。そんなに。」
その話が本当なのは、ゴロの背中で、『いたずらの妖精』がくりっとした瞳を輝かせていることで確かでした。ゴロは、もうすっかり落ち着いて、まだまだ足りなさそうに空になったボウルを、からんと舐めています。妖精は、つるつるとした御影石のようなゴロの背中の一番高くなっているところにちょこんと座り、好奇心と怖さの入りまざった透きとおるわくわくの羽を閉じたり開いたりしています。それを見ているココも、なんだかわくわくしてきました。
「グー。こうしちゃいられない。大魔女さまのところに行ってくる。」
焦り始めたココに、グーは言い聞かせます。グーの真摯さが、この小さな家中に満ちていきます。
「待って。こういうときこそ、しっかりと食べていきなさい。大切なことよ。」
グーは、慌ててもじゃもじゃの『焦り』が足元に生えそうになっているココに、香りがゆを三杯も食べさせました。もちろん、ゴロにも一角牛のミルクをたっぷりと飲ませました。
「ふー。お腹いっぱい。」
「ゴロもだよぉ。」
そうして、確かに二人の頭と肩のあたりに、ミルク色の小さな『満腹のキツネ』が、丸くなって眠るのを見てから、グーはようやく、
「いってらっしゃい。」
と、送り出したのでした。
続く
(削除)