第八章 少年と傷跡
1
男の一撃はマリアの肩に直撃し、彼女は悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。
飛び込んできたマリアの表情は笑顔からそして不意に背後からきた強烈な痛いみに驚き、そして苦痛に歪み、大きな瞳から涙がこぼれる、そんな一連の動きを僕は目の前で見るしかなかった。
ドサリと彼女が倒れたあと悲鳴は二つ上がった。痛みに泣き叫ぶマリアと、彼女を間違って傷つけてしまった大きな男。
あの表情の変化を僕は目と鼻の先で見ていた。見てしまっていた。あの時出した彼女の叫び声も、痛いと泣く声も確かに聴いている。
この家に巣くうのはホムンクルスだ。僕がトラウマとして心に強く残っている彼女が、ホムンクルスを守る魔法陣によって作動し作られているのもわかっている。
彼女は、とっくに死んでいる。
それは分かっている。自覚している。こうして僕は心を病んで何度も何度もカウンセリングに足を運んでいるのは彼女の、彼女の家族のせいだ。
だというのにどうしても僕は彼女が泥で、人糞で、血液で出来ているとは思えなかった。汚れの目立つ黄色のシャツやジーパン、興味津々といった具合で僕を見つめるその赤い瞳、それらがニセモノとは考えられない。
あの時のように現状を理解していないのだろうマリアは僕を見てニコニコほほ笑んでいる。何も知らないからほほ笑んでいられるのだろう。
僕の手を取ろう近寄るので、咄嗟に後ずさる。それにショックを受けたのだろう、彼女の眉がハの字を、口はヘの字を書く。
「マリアと遊びたくないの?」
僕に拒絶されてもめげないマリアは、そんな事を聞いてくる。どうにか彼女を傷つけないように、それでいて「ごめん」と謝る自分のなんと気の弱い事か。
「ごめんね。今は……出来ないんだ」
「じゃあ、いつ遊べる? 明日? すぐあと?」
ろくな教育を受けていない彼女の話し方は独特だ。十代くらいの体なのに言動は六歳程にしか思えない。
それはきっと僕が本物のマリアを見た時に思った事を彼女の印象を、鮮明にホムンクルスを守る魔法陣が映し出しているのだろう。
「今の用事が……終わってから」
「よーじ? マリアも手伝える?」
どうして強く拒絶できない。彼女は泥で出来ている、僕たちとは違うから傷つく心なんて持っていないのだ。動けば、きっと彼女は足の指から泥に還元される。人糞と血液、精液で出来た汚い塊でしかない。
「手伝えないよ。難しいし……」
だというのに、僕の一言に彼女は酷く傷ついた表情を浮かべる。
今にも泣きだしそうな赤い目に、僕は目のやり場に困る。そんな目で見ないでほしい、本当に手伝えることはないのだ。手伝った瞬間に彼女は泥に還元される。
2
ケイに助けを求めようとして、僕は単独行動したのを思い出した。
きっと彼女はついて来てくれるだろうという考えは儚く散る。そういえばマリアを追いかけるとき後ろからケイの足音は聞こえなかった気がする。
「フラスコを見てないかな?」
「ふらすこってなーに?」
マリアに聞くけれど、予想通りの返答が来る。
マリアはずっと家に閉じ込められて何も教わっていない。彼女が食べていたであろう人肉や、人の血液なんて、……まして彼女の餌となる為に何人もの人間が行方不明と告げられたのかすら。
「ガラスで出来た容器なんだけど……いいや。僕廊下に出たいんだけど、退いてもらっていいかな?」
フラスコを守る魔法だというのに、マリアはすんなり退いてくれる。居心地悪さを思いながら僕は廊下に出て隣の部屋の扉を開ける。
そこは死体安置所だった。
入り口から見える限り死体は最低でも四つ。二段ベッドにそれぞれ裸の死体が置かれており、どれも冷え切っている。冷え切っているというよりは凍っていると表現した方がいい。
腐臭を防ぐ為か、冷房が必要以上に効いている。その二台稼働してある冷房の強さは、この部屋に来たばかりの僕の体温も高速に奪っていった。
音を立てながら扉を閉める。
ここも、この部屋もあの時の場所だ。魔法陣はきっとあの屋敷内をも作り上げている。僕があの出来事を少しでも早く忘れようとしているからか、そこまで覚えていないからなのか、記憶が曖昧な場所は全てぼやけており、それが一層恐怖心を煽る。
荒い呼吸のまま僕は痛みを持つ頭をガンと扉にぶつけた。この痛みで動悸も、頭痛も治ればいいなんて思った。けれど、そうはいかないようだ。ヨタヨタと後退し壁にもたれかかる。
「はいらないの?」
後ろでマリアがそう尋ねる。部屋の中をきっと見ていないのだろう、興味津々といった具合に僕と扉を交互に見ている。
「入りたくないんだ」
「でも、何かを探しているんでしょう? 部屋はココしかないよ? マリアが開けてあげよっか」
僕の静止を聞かず、マリアは扉を開ける。
彼女があの光景を見てパニックに陥るのをどう止めようか判断する前に、そのパニックになったのは僕だった。
扉の先には死体安置所なんかではなく、代わりに森が広がっていた。
マリアを照り付ける日差し、纏わりつくつくような熱い風。夏の森。振り返れば、扉は既に消失している。
いつの間にか、森の中に僕たち二人はポツンと立っていた。
3
「何が……一体どうなっているんだ」
僕はようやく扉から視線を外し、振り返る。
目前に、あの大きな男が立っていた。あの夏、吸血鬼と呼ばれた殺人鬼。食べる為に僕の友達であるニックを殺し僕らに襲い掛かった恐怖の対象。
そんな大柄な男は、涙で、鼻水で汚れている顔を益々くしゃりと憤怒に歪め、そして僕に向けて包丁を振りかぶる。
「おにいちゃん!」
と、同時に僕の元へ、丁度僕と大男の間に入るように、現状に気が付いていないであろう笑顔のマリアが割って入った。
それは一瞬の出来事だった。
恐怖のあまり笑いそうになる。今、自分がどんな顔をし、彼女を見ているのか分からない。
男の一撃はマリアの肩に直撃し、彼女は悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。
飛び込んできたマリアの表情は笑顔からそして不意に背後からきた強烈な痛いみに驚き、そして苦痛に歪み、大きな瞳から涙が零れる、そんな一連の動きを僕は目の前で見るしかなかった。
ドサリと彼女が倒れたあと、悲鳴は3つあがった。痛みに泣き叫ぶマリアと、彼女を間違って傷つけてしまった大きな男、そして僕だった。
「やめてくれ! 見たくないんだ!」
泣き叫ぶ僕は地面に崩れ落ち、痛む頭を押さえる。
マリアの顔が思い出されて忘れられない。
この二人も泥だ、ホムンクルスに間違いない。
これは既に起きた出来事なのだ。だというのに、地面に突っ伏しヒクヒクと体を痙攣させるマリアは一向に泥に還らない。大男は、あの時と同じように悲鳴を上げ、そしてどこぞへと走って行った。
「いたい。いたいよ……」
マリアの声は弱々しくなっていく。
生が消えていく、虚ろな瞳で僕を見つめる。
あの時、助けに来てくれた隊員に介護されている時、彼女は僕を見ていた。見ていたと思う。あの赤い瞳で僕に「死にたくない」と訴えかけていた。
これはあの時の記憶だ。僕は再び見ているだけなのだ。
「フラスコを……」
頬を伝うのは涙だ。呼吸がし難いのは、嗚咽を出して泣いているからだ。視界が涙で歪む。思い出したくない事をこうも鮮明に映像だけではなく、肉体として、たとえ泥で出来ていたとしてもリアルに作られてしまった。
あの時のケイも同じだったのだろうか。
葬儀で刺された挙げ句、焼死体で発見された叔父を見たのだろう。そして彼女はその叔父を――……たとえニセモノだとしても撃ち殺したのだ。
「フラスコを割らないと……」
僕はケイのように強くない。だから、次第に生気を失っていくマリアを二度も殺す訳にはいかなかった。
4
動けない僕だったけれど、森の中でキラリと輝く物を視界の隅でとらえた。
フラスコであってほしいと願いを込めながら、それに駆け寄ってみればここには似つかわしくない僕が求めていた物が置かれてある。
森の中で黒い靄を出すフラスコ、それに血を注ぐ為の不思議な機械が置かれている。
「これだ」
フラスコは黒い煙を吐きながら延々とホムンクルスを作ろうとしている。
丁度、一つ作ろうとしているのだろう、フラスコから眼球が確認出来た。僕に壊されないように再びマリアを作ろうとしているのか、その眼球に赤い瞳が浮かんでくる。
「これがあるからいけないんだ」
血液を入れるチューブを乱暴に引き抜き、異臭を放つフラスコを手に取る。
「なぁ、何してんだよ」
ふと、懐かしい声に僕は止まった。
目の前には友達のニックが立っている。
アレも泥だ、ホムンクルスだ。
彼はあの大きな男によって殺された。あの時の目を、僕は見ている。けれど、目の前にいるのは、懐かしい声で懐かしい笑みを浮かべる僕の友人だ。
あまりの懐かしさに、僕は再び涙を流す。
彼の葬儀は誰もが泣いていて、悲惨な死に方をした彼に僕は最後の挨拶すら出来なかった。彼の顔を見る事すら叶わなかったのは、彼の両親が誰にも見せないと言っていたからだ。
「前に言ってたお化け屋敷の探索だっけ? 俺も連れて行ってほしいんだけど」
人懐っこい笑みで死んだ筈の友人は笑う。
また前みたいに世間話がしたい、彼の就職先はどうなったのだろうか。僕の日常は一変した、結構大変だったけれど前には確実に進んでいる筈、今はもう筈だったになってしまったけれどそんな話がしたい。
僕が持つフラスコからは白い手が伸びてくる。あと少しでここから再びホムンクルスが生みだされる。
「ごめん」
そう答えるのが精一杯だった。
もうこの世にいない友人を見てしまったら、僕はもう二度とフラスコを割る事が出来ない。叫び声は僕のだったのか、フラスコの中に今か今かと待っていたホムンクルスだったのか。
パシャンとフラスコが割れるより先に、ニックは「いいよ」と優しい声で言ってくれたような気がした。
フラスコが割れた瞬間泥が四方に弾け飛んだ。森を見せていた世界が、空間が溶けるように異様な色でグルグルとかき回されながら本来の姿に変わっていく。
後ろを振り返れば倒れていたマリアも泥に戻っており、目の前にいたであろうニックの場所にも泥が一つ山になっていた。
「おかえり」
ケイの声に僕は再び我に返った。
5
気が付けば、僕はクローゼットの前に倒れていた。
フラスコは割れて床に散らばっている、
クローゼットの中も、僕も泥まみれだった。そして、僕の側にはミイラ化した男の死体が転がっている。その死体はもう何年も前だろうが胸には大事そうにノートパソコンを抱いている。
「最初に「行かないで」って言ったのにね」
そう咎めるケイの声音が優しいあたり、彼女なりに労ってくれているのだろう。辺りを見回せばケイが「パソコンがない」と言っていた二階の部屋に思えた。
「何があった? この死体は?」
「クローゼットの中にフラスコがあっただけ、魔法陣が少しそこからはみ出ていて本棚を漁っていたあなたが偶然踏んだの。……それで……、ちょっとあったみたいだけど、あなたはクローゼットを開けてフラスコを手に取って割った。この死体がホムンクルスを作った男。血液を与え過ぎて死んだってところ」
ケイはそこまで言うと少し悩んで「怖かったでしょう。おつかれさま」と言葉を足した。そして死体からノートパソコンを奪い取った。証拠隠滅、といったところだろうか。
「嫌な体験だった。君は強いんだね」
魔女だから。とだけ彼女は答えると、座り込んでいる僕に手を伸ばした。
甘えて僕は手を握ろうかと思ったけれど、自分がホムンクルスの種で汚れている事に気が付いて慌てて手を引っ込めた。が、それをケイは強引に掴み僕を立たせる。
「汚れちゃったけどいいの?」
彼女は黙ったまま指を鳴らす。すると、不思議なことに服に付着していた泥が落ちた。
「魔法?」
「魔法じゃない。泥は落ちる物だから」
不可解な言葉を残しケイは歩き出す。床に散らばる泥を避けながら僕たちは階段を下りていく。
僕が最初にいた部屋に戻ってきた。
「早くしないとあなたの友達が肝試しに戻ってくる。あなたはもう一度ここに入ってこなくちゃね」
「僕は……遠慮しておくよ」
「それが賢明。彼らも目的も無く歩き続けて疲れているだろうし」
彼女は開いている窓の前に立った。ここから出たら、普通の日常に戻れる事が出来る。
6
「いい事知りたい?」
早くこの家から出たくて窓に身を乗り出した僕に、ケイは突然そんな事を聞いた。僕は身を乗り出したまま「うん」と頷く。
「私の名前。ケイじゃない、ホタルっていうの。天城 螢。日本人じゃないあなたには難しいと思うけど」
「個人情報は機密じゃないの?」
「売名行為くらいはしたいから」
「売名って……」
僕は笑いながら振り返ると、そこにはもうケイの姿はない。
代わりに「おーい」と言う友人らの声に僕は慌てて窓から飛び出た。
地面に着地した途端パタンと静かに窓は閉ざされ、鍵がゆっくりとかかった。
僕はその一連を見届けたあと、友達の所へと駆けて行った。
皆、相当歩き回ったのだろう、各々くたびれた顔をしている。
「ごめん。やっぱり気持ち悪いから帰る。探検なら君たちで行ってくれる?」
すると、友達らは皆不思議そうに顔を見合わせるとまじまじと僕を見た。
「探検? 俺らはお前を探しに来たんだぞ」
「『息子がいない』って、お前のお母さんに頼まれてきたんだからな」
話が変わっている。と、思ったが、言葉にしなかった。ホムンクルスを見られない為のケイの魔法なのだろう。
「散歩してたら迷子になったんだ。ごめん」
僕がそう答えると、『見つかってよかった』だの『危うく警察に連絡するところだったんだからな』などとそれぞれ言ってくる。
「ごめん、ごめん」
僕は適当に謝りながら、先程まで入っていた家をチラリと見る。けれど、そこにあったのは、似ても似つかないドアも窓ガラスさえないただの朽ち果てた家だった。
先程までの事がまるで夢のようだ。
悪夢には違いなかった、けれど、それでどこか大事な物のように思えた。
僕は友達に、ホムンクルスではない人たちに呼ばれ、そうして再び普通の日常に帰った。