第五章 少年と家
1
君がツラいのは分かっているよ。君はとてもツラい思いをしたね。君のペースでゆっくりやるといい。
カウンセリング。うんざりする程そんな言葉を投げかけられた。
最初はとてもありがたかったが、途中から話をする度にあの時の――僕の友人やマリア、そしてケイの事を思い出す。そして話を変えなければと両者は思ったのだろう、最終的にはいつも世間話で落ちついた。
それでも悪夢で夜中に飛び起き、暗闇を恐れる。と、いうのが減ったのは、季節が変わり雪が積もった頃だった。
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫、約束だったし。結構楽しみにしていたんだよ」
何度もそう問われて何度も同じように答える。バスで数分、そして林の中に入る。
僕を含めた五人がそうして「お化け屋敷」と称される家に着いたのは昼前だった。
ここには昔、妻を亡くした男性がいた。男性は消息不明になり、空き家になった。……だというのに、中から声が聞こえる。複数人の影が見える等々……そんな噂が絶えない。
祖父の家に遊びに行く前、ここを探検する約束をしていたのだが、「色々あって大変だっただろう」と勝手に僕だけメンバーから外されるところだった。
確かに、前は探索する事について嫌悪を持っていたが、今はあの事件から少しでも逃避したいのだろうそれでも頼んで友達についていってこの有様だ。やはりついて来なければ良かった。
各々武器になるであろう、けれど職務質問されても問題無いような自称武器を持参してくる。筆箱の中にはカッター、野球をすると偽って持ってきたバッド、僕は悩みに悩んで結局懐中電灯だけで何も持って行かなかった。
家は普通の一軒家、にしては小さい。窓ガラスは汚れていて覗き込んでも室内は見え難いだろうなというのが遠目でわかる。
「入る?」
誰かが聞いてくるが、誰も答えなかった。
この怪しい雰囲気に既に飲み込まれているのだろう。少し遅れてから「入るに決まってんだろ」とこの探検の提案者が先に進む。一人取り残されるのが恐ろしい僕を含めた四人も彼の後について行った。
ふと、僕は先程から鼻を刺激する異臭が気になった。
「臭い」
思わずそう呟いてしまった僕の一言に、皆がギョッとして動きを止める。一様にクンクンと鼻を鳴らしながら臭いを嗅ぎ取ろうとして首を傾げた。
「どんな匂い?」
「なんて言えばいいんだろう……。でも、すごい臭い……」
家に近づくにつれ、臭いは益々酷くなっていく。鼻で息をするのがツライ。気づけばしゃがみ口でハァハァと呼吸しているのは僕だけだった。
「やっぱり疲れだろ? すぐ戻るからココで待ってろ」
待って、と言葉に出なかったのは突然濃霧が発生したからだ。ミルク色の濃い霧はまるで彼らに纏わりつくように発生し、勝手に進んでしまう彼らを包み込みながらそして林全体に広がり――……そしていなくなってしまった。
2
濃霧はまるで彼らについて行くように移動し、再び視界が戻ってくる。確かに林には濃霧が纏わりついているのに僕の周りだけは霧が存在していない。
「なんで?」
呟いて悪臭に吐き気がする。最初こそ動物園に行った時嗅いだ臭いだと思ったが、それを何十倍にも圧縮させたような酷い匂いだ。
数分、吐き気に苦しみながら、それでも人間の体というのは良く出来ているもので、とうとう鼻が違和感を持たなくなってしまった。慣れ、というよりは嗅覚がマヒしたのだろう。
置いて行かれた僕はそっと家に近づき窓を覗き込む。中は綺麗で埃一つ無いように思える。と、突然視界が暗転した。
エレベーターに乗ったような浮遊を感じながら、視界は空が下に、地面が上に移り、グルグルと回転を続け、そして半身に痛みがきた。
視界が回り、頭も回り、そして一層増したこの悪臭。今度こそ僕は嘔吐した。
地面に両手をつき、ゲホゲホと胃液を吐き散らしながら、手が土に触れていない事に気が付いた。
爪を立ててみてもガリガリというだけで掘る事すら、土の感覚すらない。薄目を開ければ眩暈こそない、涙で歪む視界に映るのはフローリングだった。
驚きで吐き気が吹き飛んだのは幸いだった。ばっと顔を上げればそこは今さっき僕が窓の外から見ていた部屋の中だった。
「何だこれ、皆どこにいるんだよ」
友達の声に僕は窓に駆け寄る。
外は濃霧だ。あまりの霧の濃さに外の景色が全く分からない。ただ様々な方向から困惑の声があがる。
「僕はココだ!」
そう声を上げて部屋の奥で何かが割れる音がした。グラリと視界が歪む。
あぁ、これは、まるでこれはあの時のようではないか。
冷凍された遺体、食人、ノコギリ、血、友人の死、何も悪くない少女の死――……。
嫌な事を思い出す。
また会いたいと思っている友人が、死ぬべきではなかっただろう少女が、鮮明に思い出される。ここは幽霊屋敷だ。吸血鬼とはまた違う。幽霊はあの吸血鬼まがいのように物理では殺してこないだろう。
連れ去り、だとしたら今まさに僕はこの家に連れ去られた。逃げなければと窓を開けようとしたが全く動かない。
生活感のある部屋が益々恐ろしいと思った。埃一つない、カーテンは綺麗、ベッドメイキングはされている
「どこがお化け屋敷なんだ?」
もしかして、ここにいるのは、隔離された生きた人間かもしれない。
幽霊より怖いのは人間、という話を聞いたことがある。現に今年の夏、僕が体験したのも生きた人間がしでかしたことだ。
周囲から再び物音が聞こえないか確認しながら僕は扉に近寄り静かに開ける。ドアは静かに開いたけれど、人の気配が、パタパタと走る足音が僕の心臓を凍らせた。
足音は僕の後ろで止まった。悪臭が、再び強くなる。肩に手を置かれ僕は叫びながらその手を勢いよく振り払った。
ベチャリと、不快な音が聞こえる。
振り返れば驚愕した顔の女性が立っていた。ブロンドの髪、綺麗な顔、大人しそうな雰囲気、僕に振り払われたので驚いたのだろう表情は明らかに普通の人間だった。けれど、延ばされた手は、ちょうど手首から存在していなかった。
手首からは血ではなく黒いドロドロとした何かが垂れ落ちている。壁はそんな泥みたいな物で出来た手がぶつかったのだろう酷く汚れていた。
3
女性は怒っているような今にも泣きそうな顔をしながらヨロヨロと僕に近づいてくる。何かを話そうとしているのだろう口を開閉されているが悪臭を放つばかりで音にならない。
そんな彼女の後ろで、彼女と全く同じ顔つき体格服装女性が部屋から出てくる。そして、僕に、女性に気が付きのそのそと近づいてきた。
手前の女性は手首が無いが、後ろの女性は歩く度にグチャグチャと足を擦り減らしていた。足の親指が取れ、中指が取れ、小指が取れていく、彼女に痛覚というものは存在しないのか同じように口をパクパク動かしながら僕へと手を伸ばしてくる。
それ以上見る事は耐えきれなかった。
僕は悲鳴を上げ、滅茶苦茶に走りだした。
ここはあの夏に閉じ込められた屋敷とは違う。小ぢんまりとした家だった。その上、僕は恐怖に支配されて何も考えていない。走った先が行き止まりで、見えた扉を開ければ掃除置き場だった時、今度こそ僕は気が狂いそうになった。
「息しないで」
覚悟を決めて走り抜けようとした際、上の方から声がし、炸裂音が立て続けに起きた。
女性の頭、肩、背中が撃ち抜かれていく。ドチャドチャと不可解な音を立て倒れていく彼女たちは一瞬にして泥になった。フローリングに広がる泥はもう人の形などない。その泥から発せられる悪臭が喉に痛みをもたらす。
「踏まないようにして。穢いから」
上を見れば、ちょうど二階から女の子の顔が見えた。
「ケイ!」
思わず僕は彼女の名前を呼んでしまう。ケイは笑いもせず、ただ不満そうに目を細めると溜め息をついた。
「会いたくないって言ったのに……。霧払いしたのにダメだったのね」
今年の夏、僕は彼女によって助けられた。『ケイ・アッシュホード』と名乗る女の子は『自称、魔女』らしい。あの時も吸血鬼の噂を聞いて依頼を受けたようだが。……という事は今回も魔女が出なければいけない案件なのだろうか。
「霧? あの濃霧は君が出したの?」
「うん。危ないから入ってこないようにしたの。あなたが単独行動をとったから囲い損ねた」
「わざとじゃないよ。臭くて気持ち悪かったんだ。周りの人には分からなかったみたいだけど……臭いよね?」
僕は泥を踏まないようにしながらケイの元によっていく。
ケイは魔女らしからぬフリルのついたリボンの髪飾りとそれに合わせた可愛らしいコートドレスの姿だったが、片手に持つのはそれに似合わぬ拳銃を持っている。
魔女と自称する割には武器が銃なのだからちぐはぐすぎる為未だに信じられない。
「うん。当然だと思う。ここに入ってこれたなら、呼ばれたのね。引き寄せの呪いもあったからしかたないわ」
ケイは拳銃に銃弾を装填している。けれど、今回のは実弾ではなくBB弾のようだった。
4
「今回、実弾は要らないと思う。勝手な動きされたら迷惑だから言っておくと、ココにいるのはホムンクルス」
「ホルンクルス……?」
装填が終わったのだろうケイはようやく僕を見た。が、その視線はとても刺々しく痛い。馬鹿にしているのが、手に取るように分かる。
「ホムンクルス。人造人間。さっきの彼女がそう」
わざとゆっくり発音し彼女は言い、床に広がった二つある泥の塊を指さす。
「パラケルススが行った人造人間の錬金術。簡単に説明するとヒトの精液、ハーブ、人糞、血液……他にもあるけどそれらを使って出来ている。それにこれは失敗作だから余計臭いの」
最初言っている意味が分からなかった。バラケ……というのは人間の事を指しているのだろうか。けれど、途中から理解できたのは、この泥は人のクソと血で出来た……。
人造人間を創る気持ち悪さとこの泥の正体を知って僕は再び嘔吐しかけた。
四つん這いになりゲホゲホと咳き込む僕をケイは再び溜め息をついて見ている。しかし、冷たい目のまま、僕の背中を撫でてくれるあたりまだ優しさというものをこの魔女は持っている。それでいて、僕から急激に嘔吐感が減ったあたり、何か魔法でもかけられたのだろう。
「僕らココで声を聴いたり。影を見たりって噂を聞いてここに来たんだ。あながち間違いってわけじゃないよね。女の人だし」
「うん。その影がホムンクルス……この泥で出来た女性だと思う。この家から出られない代わりに量産してるみたい。私はそれを止めに来たんだけど――……」
ケイはそこまで言うと、不意に拳銃を抜き突然後ろに発砲する。
その先には同じように表情が読めない女性がいた。額と撃ち抜かれたホムンクルスはドチャリと音をたてて再び泥……人糞と血液で出来上がった泥に還っていく。
「ホムンクルスがこうも多くて邪魔なの。野次馬も来るし」
呆れるケイが称した野次馬というのは僕たちの事だろう。
「手分けして探す事は出来ないからついて来てくれると嬉しい。ついて来なかったら見捨てるけど」
僕が謝る前に相変わらず冷たい物言いで発言を潰す彼女に怖さを覚える。夏、あの時もそうだった。そうして惨めな僕はあの時のように彼女の後について行った。
「今回は魔女の仕事なんだね」
「そうね。前回は散々だった。沢山質問された」
確かに都合よく銃を持っているのも、彼女がどうしてあそこに呼ばれたのかも説明は、理解は難しいだろう。
「魔法でどうにか丸め込めないの?」
僕の発言にケイは心底呆れたようだった。舌打ちさえも聞こえたと思う。
「困ると魔法に頼るの、やめた方がいいけど。それにそんな事出来るなら……」
彼女はそこまで言って俯くと、なんでもないと話をやめてしまった。