第三章 少年と魔女
1
何者かに腕を引っ張られ、僕は今度こそ死を覚悟した。
悲鳴の一つでもあげれば良かったのだが、もうそんな声も出ない。僕は引っ張られた勢いに負け、部屋の中に放り込まれ、その場でヘタリとしゃがみこんだ。
「静かにして」
僕の腕を引っ張った人物がぴしゃりと言う。
その声の主には覚えがある。顔を見たいが、いつ殺人鬼に見つかるか分からない恐怖に支配された僕は、通路側すら見る事は出来ない。それ以前に情けない事だが、腰が抜けている。
「あぶない あぶないよ なんじ? なんじですか?」
誰に問うでもない、陽気な声が段々と近くなってくる。緊張、恐怖で心臓はバクバクと五月蝿い。こんなにも五月蠅かったら、きっとすぐに見つかってしまう。
永遠とも感じる時間の末、殺人鬼が階段を使う音が聞こえた。
「もう大丈夫」
僕の腕を引っ張ったのはやはり緑目の女の子だった。
許可はあるのだろうか、手には拳銃が握られている。どうしてこんな場所でそんな物を持っているのだろうか。落ちていたのを拾ったにしては、あまりに都合が良すぎる。
――……吸血鬼を退治しに行くの?
――……やってはみたいけれど、吸血鬼って殺せるか? 少し調べたけれど、杭だの銀の弾丸だのあって準備でき……。
銃を見ながら僕はニックとの会話を思い出す。
吸血鬼は銀の弾丸で殺す事が出来る。もしそれが本当ならばこの女の子も僕の友人と同じように吸血鬼を殺す為にここに来ているのだろうか。
「コレは護身用。従兄弟がくれたの。発砲許可は貰ってる。アレは吸血鬼じゃないけど、危険なのに変わりはないから」
銃から目が離せない僕に気が付いたのか、彼女はそう言って銃をベルトに挟んだ。護身用に従兄弟が銃を女の子に渡す? それも気になったが、他にも問うべき箇所がある。
「やっぱり殺人鬼、だよね」
僕には、あの重度肥満の男が吸血鬼だとは思えなかった。
まず吸血鬼の存在自体曖昧に思えているのにあの外見で吸血鬼と言われても納得出来ない。そして、どうしてもイメージしにくいのはそのおかしな言動だろう。
「殺人鬼じゃなくて。食人鬼、かな。鍋の中にあったから」
緑目の子は、さらっとえげつない事を言い部屋の奥へ行く。僕も扉の近くにいたくないので彼女について行った。
映画等で率先して動く事が多いのは大抵男だが、はたして今後、僕が率先して前に行ける事はあるのだろうか。彼女の方が遥かに勇敢だ。
緑目の子は昨日とは違い黒いゴシックのスカートで頭には赤いバラの髪飾りを付けている。それでいてベルトには銃があるのだから、吸血鬼と同様現実味を帯びていない。
鍋の中に何が入っていたの? と、聞くのは自分の精神衛生上やめ「怖くないの?」と代わりに問う。
「驚きはした。それより怖い物は見てるし」
彼女はそう言いながら本棚の本を適当に読んではペラペラとめくって戻している。人が入っているであろう鍋を見てそれよりも怖い物を見ている?
「君は吸血鬼ハンター?」
「違う。でも、いずれやるんだと思う」
今は違う、という訳か。
「君が呼ばれたのは、この殺人鬼をどうにかするため?」
「お喋り好き?」
冷たい。あきらかに拒絶の色が混じった返事に僕は言葉を失う。
一瞬、沈黙に包まれる。
その沈黙が再び恐怖を呼び、僕は懸命に言葉を探す。安心が欲しいから話をしていたいのだが、この女の子は決してそうではないらしい。
「……そうかも。だって分からないよりは分かった方が良いから。……だって、君は僕の事を知ってるのに僕は君の事を知らないから」
それらしい会話を繋げる事が出来たのと、ようやく彼女がこちらを向いてくれたことに再び安堵した僕は次の言葉を探す。
「ケイ」
彼女は突き放すように言葉を紡いだ。まさかちゃんと答えてくれるとは思わなかった。僕は面食らう。
今まですぐに会話が終わるように短い言葉を彼女は使っていた。質問にも曖昧に応えていた。だから、今つなげられる言葉は、一瞬都合のいい僕の幻聴かとも思えた。
「私の名前はケイ・アッシュホード。それで満足?」
ケイ、それが彼女の名前。僕は言葉に出さず、忘れないように繰り返す。こんな状況下で名前を忘れて助け損ねた、助かり損なったなんてなりたくない。
「うん、ありがとう。それで、えっと……」
「今後どうすればいいか、でしょう? 逃げれば良いと思う。私は『無謀で勇敢なあなたの友達』を助けなくちゃいけないから」
言葉の選び方に気を付けている間も彼女は口早に応える。嫌味は置いて僕の友人という事はニックの事だろう。
ケイの表情こそ変わらないが嫌味が増えた分、忠告を聞かなかったことに対して不満があるようだった。当然か、ニックの両親は数分の間も彼女を激しく問いただしていた。
「何か手伝えない?」
「足手纏い。前に言った。役に立ちたいなら、すぐにこの場所から出て行って。人に安全な姿を見せた方が良い」
言葉一つ一つが早口で攻撃的に思える。それに、僕の話が終わる前に彼女は話し出すからどうしても会話が円滑に出来ない。それでも、この状況下ではありがたい会話に思えた。
「ここにいるのは、吸血鬼じゃないってことも伝えて、だよね」
「吸血鬼だよ」
ケイは読んでいた本をパタンと閉じて答えた。その弾みに本に積もる埃が舞った。が、彼女は表情すら変えない。表情筋が死んでいる。そのその言葉は彼女を指すのだろう。
「あの人達にとって、ここに住むのは吸血鬼。だから、あんな懸命になってバラで身を守ってる」
「でも、君は「吸血鬼じゃない」って、さっき言ったよね」
「本当は違う。だけど、作り上げられてしまったなら、吸血鬼に変わらない」
「僕は一般人だから、もっと分かり易く言ってくれると助かるんだけど」
本質を言ってくれないケイの話方に嫌気を覚え、思わずきつい口調で問う。それでも彼女は、驚きも大きな反応も見せず、ただ伏し目がちに応えた。
「確証がまだ無いの、証拠も少ない。だから言えない。証拠を集めたいけど一緒に行動はしたくない、リスクが大きいから」
遠くで悲鳴が上がった。反射的に走り出そうとする僕をケイが止める。
「罠かもしれない。私がここを出て二分たったら逃げて」
彼女は再び銃を抜くと扉の方に行く。僕が止めるよりも先にそうして彼女は果敢にも廊下に飛び出し走って行ってしまった。
2
二分。
携帯も、腕時計も無い、それでいて恐怖に支配されている中で数える二分。それはとても難しい話だった。
「三六、三十七、三十八」
足音が聞こえないか耳を澄ませながら、それでいて脳内では数を数える。
逃げる前に聞こえた悲鳴は、ニックだったのかもしれない。最悪の事を考えれば、殺人鬼はあの男はだけではないだろう。
「三十九、四十、四十一」
ケイは確かに「吸血鬼ではない」と言ったのに突然「吸血鬼である」とも言っていたのも気になる。
作られた吸血鬼というのは、一体なんだろうか。フランケンシュタインのように、人工的に作られたのならば「吸血鬼ではある」けれど、純粋な者ではない。しかし、それはあまりにも非現実的だ。
いや、まず吸血鬼がいると考えている時点で、僕の頭は既におかしいのかもしれない。
「四十二、四十二、四十三……四十一……」
マリアは無事なのか。あの細すぎる体でちゃんと逃げ切る事が出来るのだろうか、でも、もしあそこで誘拐されていたのならば、祖母は僕が来ることを止めるはずだ。
そうだ、こんなにおかしい話があるのだから普通は孫を歓迎しないだろう。皆グルなのだとしたら? 他所から人を呼んで犠牲にしていたのならば?
いや、それはない。
あんなに必死にバラばかりを育て、それでいて森に近寄ろうとするのならば注意をしてくる。それでは矛盾してしまう。混乱で頭痛さえしてくる頭を抑えながら僕は二分までの永遠とも思える数字を呟く。
「四十五、四十七、五十一……」
そういえば、ケイは何を読んでいたのだろう。
僕はソロソロと音を立てないよう、再度部屋の奥に戻り本棚を見た。
ケイが読んでいた本は、他の本とは違い埃が払われていたので簡単に見つける事が出来た。何かの詩集だろうか。厚めの本にはリアルで可愛げの無い白黒の挿絵が載っている。ページをペラペラと捲っていると、ヒラリと何かが落ちた。
落ちた紙を捲ってみれば、それは古い写真だった。
スカートを穿いている被写体が一人……女性だろう。ただ、被写体の顔はズタズタに裂かれており、顔は全く分からない。
写真の裏を見れば、約九十年前の日付が記載されている。
ここにいるのが食人鬼、だとして殺しの理由は怨恨だろうか。けれど、写真の裏に書かれていた日付はとうの昔のもので、あの食人鬼がこの被写体の子供、ではなさそうだ。
不意に銃声が響いた。
「ケイ!」
僕は数を数えるのもケイの忠告をも忘れ、本を投げ捨てて廊下に飛び出した。
3
食人鬼の姿は、見えない。
第一、あんな体格であんな独り言が大きかったらすぐに分かる。周囲に気を付けるという事よりも遥かにケイが心配だった。
銃は持ってもやはり成人男性とまだ十代女性の力の差は大きい。彼女も僕と同じくらい危険なのは変わらない。
廊下を歩くと階段が見える。さっきマリアとはぐれた僕は、いつの間にか二階に駆け上がっていたようだった。となると、ケイと一緒に部屋に隠れていた時に聞こえた、ドタドタと階段を使う足音は食人鬼が階段を下りるために使ったと予想出来る。
一階に下りようとした手前で今度はマリアを見つけた。
銃声に驚いたのだろう。元々白い肌をより一層青白くさせ、彼女は自分の腕で自分を抱きしめている。それでもガタガタと体が震えている辺り、心身とも限界なのが見て取れた。
「大丈夫」
そう宥める。マリアはコクコクと頷く。必死に落ち着こうとしているのだろう。たどたどしい僕の言葉に耳を貸している。
マリアの震えが収まった頃合いを見て、僕たちはこっそり階段を下りようとした。
ザリザリと嫌な音がした、何かを引きずる、そんな音だ。
「あぶないよ。もり、もりにおにげ、おにげ。おにげ」
例の独り言とドスンドスンという足音が下から聞こえる。血の気が引いた。
「マリア、僕の後ろにいて。見ちゃダメだよ」
階段の手摺りに隠れて下を見る。独り言と足音、そして何かを引きずる音はちょうど真下だ。
「なんじ、なんじ。あぶない」
変わらない先程と同じようなエプロン、黒いゴム長靴、風呂に入っていないのだろう。体臭が汗の匂いと混じり悪臭を放っている。その食人鬼は、人の足を掴んでいた。足を持たれた誰かは抵抗も見せず、ただただズリズリと引きずられている。
それは血に汚れたニックだった、
ニックはまだ生きているのか、胸元は少し動いている。ぼんやりとした目で僕を捉えると何かを話たげに口を動かしている。
――……ここにいるのは、殺人鬼?
――……食人鬼、の方が近いかな。
頭痛。吐き気。
僕は、耐えられなかった。
口を押さえ、呼吸を整えようと何度も深く息を吸う。その度、悪臭が鼻と喉を焼き益々吐き気を催した。
「どうしたの?」
覗いたマリアは僕の制止もきかず彼らを見、悲鳴をあげた。食人鬼はこちらを見るとぼんやりとした顔を輝かせた。
「まいあちゃん!」
舌っ足らずで上手に発音出来ていない。男の興味対象が変わったのだろう。もう口すら動かさないニックを乱暴に放り投げて、ドタドタとこちらに走ってくる。
「逃げて!」
僕は震えるマリアの腕を掴み、強引に走り出した。
4
息が切れるまで走る、走る、走る。
マリアは泣きながら必死に僕についてくる。赤い瞳には、今にもこぼれそうな涙が溜まっている。きっと視界が涙で歪んで見難いだろう。僕もついさっき体験済みだ。
縺れる足で一生懸命走るのは、僕も同じ。
日頃の運動不足、過度の緊張、理由ならいくらでもある。
それでも二階のいずれかの部屋に逃げ込み扉の後ろに隠れるまで、僕たちは一度も振り返りもしなかったし、転びもしなかった。
「アレは、なに?」
「分からない。でも、良くない人、だと思う」
ここで殺人鬼、食人鬼それでいて吸血鬼だよ等と言ったらマリアは絶対に泣くだろう。今もこんなにガチガチと歯を鳴らし僕の腕に抱きついてくる。
「パパ、パパを呼ばなくちゃ」
「遠いよ。僕も呼べるなら呼びたい。携帯、持ってる? 僕、捨てられちゃったみたいで」
マリアは首を横に振る。やはり被害者は皆連絡手段を絶たれている。
――――ドォン。
発砲音でこそない。が、再び大きな音が響く。
その音でパニックになったのは、僕の隣にいるマリアだけではない。廊下に、恐らく近くにいたのだろう。あの食人鬼の混乱した声が廊下に響き渡った。支離滅裂で何を言っているのか……。けれど、困惑して怒鳴っているのは分かる。
おうおう。と、何かを立て続けにあがる叫び声。発砲音がした場所へと駆ける騒がしい足音
「ケイが危ない!」
声には出すけれど、マリアに腕を捕まれる。
「行かないで。パパが来るから」
「ねぇ、聞いて」
僕はその場にしゃがみマリアの肩を掴む。マリアは思った以上に不健康に痩せていて、今にも肩が折れてしまいそうだ。
「僕たちは捕まったんだよ。逃げないと、ここには誰も来ない。分かるだろう? 森に行っちゃダメって言われてるから」
「そんな事ない!」
マリアは涙も拭かず僕の手を払いのけた。その勢いに気圧されて僕はただ驚いて彼女を見張る。
「迎えに来てくれる! 今は夜だから寝てるだけ!」
マリアはそう叫ぶと僕の静止も聞かず走って行ってしまった。
「夜中?」
僕は遮光カーテンの隙間から差し込む日の光を見ながら呟く。その強さから丁度昼頃だ。
――……僕の他にも人がいるんだ。
――……そうなの? マリアは今起きたから分かんなかった。