第二章 少年と吸血鬼
1
体全身が痛かった。
特に頭、何かで殴られたのか分からないが、ジクジクと痛みは止まない。
ゆっくりと目を開けば、まず視界に入ったのは灰色の天井。地面に手をつけば、ヒンヤリと冷たい。触れたそれは土ではなくコンクリート。という事は、今僕は、コンクリートで出来た室内にいる。
痛みに歯を食い縛りながら起き上がる。グワングワンと鳴る頭を抑えて周囲を見れば、捕まったのだと確信した。というのもここは単なる部屋ではない。
全体こそ大きな四角いコンクリートで出来た部屋だが、僕の前には檻がある。並ぶ鉄棒の先には扉がある。しかし、当然のことながら鍵穴がある為、確認しなくとも施錠されているだろう。
牢屋、と表現するのが適切だった。
慌てて助けを呼ぼうと思いポケットから携帯を出そうとするが、外部との連絡を絶つ為かそれは無くなっていた。捕まったのだから当然の事か。
部屋に照明はなく小さな窓から漏れる太陽光だけが頼りだった。ただ、その窓も逃げられないようにする為か木板で乱雑に塞がれている。
窓に近寄ろうとした。けれど、後ろに引っ張られ僕は危うく転びかける。動かない右足を見れば、荒縄が牢である鉄の棒と僕とを繋いでいる。
縄を解こうと弄るが、縛られた箇所はピクリとも動かない。簡単には解けないように何度も何度も固結びをされている。
僕の他にも囚われていたのだろう、檻には切られた縄の残骸があった。切られているのならば、切る為に使った道具がそこらに落ちていないのだろうか。
周囲を見渡すが、それらしい物は無い。捕まえられた側ではなく、捕まえた側がここから出す際に切っているのだろう。
ココから出られないのだろうか。悲観にくれていると、陽光にキラリと何かが反射した。
飛び付くようにその光に触れれば、小さなガラスの破片が落ちている。
僕が使う前の人は不器用だったのか、それともそれ程に急いでいたのか。ガラスで指を切ってしまったのだろう、血痕が点々と床に落ちていた。
血から目を離せないまま僕は縄を切る。ゴリゴリとガラスを押し付けてようやく縄がブツリと切れた。
痛む足に疑問を感じ、ズボンをまくれば、縄と手の跡がくっきりと残っている。縛る際に足を押さえたのか、余程縄がきつく縛られていたのだろう。僕の足は赤く浮腫んでいる。
僕の後に誰か捕まってしまったら……。
不穏な事を考えたくはないが、ガラス片はあった場所に置く。きっと僕の前に来た人もそうしたのだろう。
血痕は転々と移動し、最も暗がりにある奥の壁で不自然に途切れている。床と天井はコンクリートだったがここの壁はいやに脆い。木の板が何枚も立てかけられており、どれも血で汚れている。恐る恐る板を退けて壁を押せば、パタンと音と立ててほんの一部だけだったが壁が倒れた。
大人では通れないが、僕ならば通れそうだ。匍匐前進で僕はその穴を通る。まるで脱出ゲームだな、なんて思ってしまうのは現実逃避をしたいからかもしれない。
どうにかこうにか隣の部屋に来てみれば、そこも埃まみれの部屋だった。牢でないだけいいと思う。
倒れた壁を直しながら僕は一呼吸置いた。
まだ心臓がドキドキと忙しなく鳴っている。思えば祖父の家に来てからずっと驚いてばかりだ。そして、今本当に危ないのかもしれない。
「忠告、聞いてればよかったなぁ」
自分の声は情けなく震え、暗い部屋に吸い込まれていく。
2
あの牢から出たらすぐに誰かと合流出来る。あの壁の先は外で、すぐに逃げられる。そんな甘い事を考えていた自分に心底ガッカリする。
数分、実際には数秒だろか。絶望で動けなかった。それでも、少しずつここから出なければいけないという気持ちに駆られる。
ここはまだ牢でないだけいい、状況的に見て一歩は前進した筈だ。
手掛かりになる血痕や形跡はないのだろうかと、床に這いつくばって探してみる。けれど、血痕はここで途切れていた為、脱出のヒントとしてわざと血を出してくれたようだ。と、同時にここからは自分で考えなければいけないのかと気落ちする。
この部屋は太陽光すら差し込まない。
窓には全て遮光カーテンが閉められていた。そのカーテンの前には棚が置かれ、何が何でも暗さを保持したいという気持ちが見えた。女性が使うような家具はどれも埃が積もっていて使われた形跡はない。
安心したくて窓に近寄り棚によって隠れきれてない遮光カーテンを少しだけ捲る。それだけで日光が差し込んできた。背伸びをして外を見る。ここは地下なのか僕の目線で丁度地面と人の足が見えた。
人の足――……。
それは、もしかしたら吸血鬼かもしれない。けれど、履き潰された白いスポーツシューズには見覚えがある。どうにか上を見ようと体制を変えて再度覗き込む。
そこにいたのは、失踪したニックだった。
夜中に出かけたといっても彼はパジャマ姿でない。森に入るというていで夏場だというのにあの長袖長ズボンなのだろう。そんな外着を見てメールの内容を思い出す、怒っていたとはいえ本当に一人で単独行動をするとは思わなかった。
ニックの格好はボロボロで腕は怪我したのだろう、既に血にまみれている。その血の量から見るに、森に入って誤って枝で、葉で、皮膚を切ってしまったという訳ではなさそうだ。僕と同じくここに住んでいる吸血鬼に襲われたのだろう。
彼はブツブツと何かを言っているようだ。が、あまりにも小声で聞き取れない。声をかけようにも僕がいるのは地下、彼よりも近い距離で吸血鬼に聞かれてしまっては堪らない。僕は逃げる場所も分からないし、ここでは袋の鼠なのだ。
どうしたものかと考え込む僕を他所に、彼はこちらに気がつく様子もなく頼りない足取りでどこかへ行ってしまった。
あんな状態でいたら危ない、追わなければいけない。
反射的に部屋を出ようと扉を開ければ、ありがたい事に鍵はかかっていない。だが、ギイと軋む音が廊下に響いてしまった。
体が凍りつく。
僕が逃げたという事が分かってしまう。しかし、今せっかく出られた部屋に再度隠れてやり過ごすなんて事は出来なかった。
音を立てないように細心の注意を払いながら廊下を走る。
人はいない、ただ床は時折血で汚れ、気持ち悪さをより一層引き立たせていた。ヒントとして残してくれたぽたぽたと垂れる血とは違う、明確に血を流す《何か》を引きずった痕は決して一つではない。
周囲を警戒しながらも、僕は隣の部屋に身を滑らせた。
3
どうしてその部屋を開けてしまったのだろう。人間、本当に驚くと声は出なくなるようだ。そこは死体安置所だった。
入り口から見える限り死体は最低でも四つ。二段ベッドにそれぞれ裸の死体が置かれており、どれも冷え切っている。冷え切っているというよりは凍っていると表現した方がいい。
夏場だから腐臭を防ぐ為か、冷房が必要以上に効いている。その二台稼働してある冷房の強さは、この部屋に来たばかりの僕の体温も高速に奪っていった。これで死体を凍らせているのか。
何故凍らせる必要があるのか。それ程まで新鮮な血を吸いたいのだろうか。……そうかもしれない、ここに居るのは吸血鬼だ。
異様な光景に体が、脳が強い拒絶を示した。しゃがんで吐き気を堪える。僕もこうなってしまうのだろうかという、不安と絶望が胸や心臓、そして脳、全身を巡る。
森に来るなという言葉は本当だった。どうして、何故僕がこんな事に……。そう悲観に暮れていると、突然近い場所から扉が閉まる音が聞こえた。
見つかるかもしれない、そんな恐怖に駆られて半ばパニックで通路を走る。
あの部屋はなんなんだ? 何の為に置いてある。どうしてその二つ隣に牢屋があって生きている僕をしまったのだろう。
転げそうになりながら僕は階段を駆け上がる。混乱の中、誰とも会わず一階に出る事が出来たのは、日頃の行いが良かったせいか。
一階に上がりすぐ陰に隠れて、呼吸を整える。怖さに歯の根が合わない。自分を抱きしめるようにしながらしゃがみ泣くまいと堪えるが、それでも急激に視界が歪み頬を伝うのは涙だろう。
泣いている暇なんてない。どうにかニックと一緒にここから逃げなければいけない。シャツで涙を拭い僕は深呼吸する。
死体安置所で聞こえた足音はまだ遠かったかのように思える。ニックは外にいたから彼ではない。一階についた、という事は玄関さえ分かればここから逃げる事は可能だ。
心配性の祖母が僕が居なくなった事により僕以上に混乱しているだろう。早く戻って安心させてあげなければ。
足音を殺しながら、まっすぐ進むと広い部屋の真ん中に少女が立っていた。少女はぼんやりした様子で一枚の肖像画を見ている。
老婆を思わせる白髪は、ボサボサの長髪もあって亡霊に見えた。彼女はずっと逃げ回っていたのか着ている黄色のTシャツもズボンも汚れている。どちらの衣服も大きいせいでその女の子を益々小さく見せていた。
彼女が一心に見つめている肖像画には何やら男性の絵が描かれている。ここの家具はどれも埃まみれ、埃が被っていない物は乱雑な扱いの物が多かった。が、その画だけは綺麗に飾られていた。
少女は僕に気がつくと、人懐こい笑みを見せてこちらに寄ってくる。
「外は危ないのよ。マリアと一緒にいよ?」
場違いの笑顔、場違いの発言。マリア――……この子も犠牲者なのだろうか。
恐怖に逃げ出す事も出来なかった僕はよせばいいのに頷いてしまった。
外は危ない。というのは吸血鬼の事だろうか。服の汚れ、髪の汚れ、不清潔な体臭。この子の捕まっていた時間は長いだろう。
どうして今もなお無事かは分からないが、その代償に心が壊れてしまっているように思える。言葉も言動もたどたどしい。
「僕の他にも人がいるんだ」
「そうなの? マリアは今起きたから分かんなかった」
「ここは危ないよ。君は逃げないの?」
「守ってくれるよ」
マリアは僕の腕を掴む。白い今にも折れてしまいそうな細い腕小さい手。そして彼女は人のいう事を一切聞かず、僕の手を強引に引っ張って走り出した。
4
周囲を用心もせず、マリアは走り出す。
そんな彼女の足には靴が履かれていない、すでに足の裏は真っ黒に汚れている。彼女は勢いよく一階に存在するその内の一室に入るが、そこには誰も居なかった。
「いない」
落胆する彼女とは反対に僕は安堵する。誰も居なくてとてもいい、居ては困る。
彼女がいないと落胆するという事は、普段ここに誰か居るのだろうか。けれど、その人物が僕たちにとって良いのか、悪いのか、この少女からは結論付けられない。
僕は今すぐマリアを放っておいて速く走って逃げたいのだが、この幼児退行した少女の機嫌を損ねて大泣きされては困る。ニックも探さなければいけない。
「ここには、誰がいるの? 君は知ってる?」
マリアはとても困ったような顔を浮かべるので僕は慌てて止める。
「いいよ。僕も混乱してるから。外に出よう」
「危ないよ」
と、マリアは大きな赤い瞳を不安げに揺らしながら呟く。
「そうだね」
それなりのフォローを入れた時、マリアは初めて怯えの顔をみせた。その視線の先は僕ではない。僕の先の何かを見ている。
マリアは小さく悲鳴を上げ、弾かれたかのように走り出してしまった。
僕も彼女を追いかけようと思ったが、ふと後ろから足音が聞こえて総毛立った。重たいゆっくりとした足音は、そしてピタリとやんだ。
「ニック?」
そうであって欲しかった。僕は恐る恐る振り返って、そして何故もっと早く逃げなかったのだろうと酷く後悔した。
そこにいたのは、決して僕の友達なんかではなかった。僕より遥かに大きい男、けして筋肉質ではないその肥満体は身長こそないのに恐怖と重なって益々彼を巨人に見せている。
大きな汚れた手には切れ味の悪そうな錆れた大きな包丁。黒の長靴に汚れて血の色が判断つかないエプロン。
肉屋。豚や牛を解体するような作業員――……そんな言葉が最初に出て来た。
男の目は焦点が合っていない、トロンとした優しい目だがその瞳はどこか違う所を映している。
男はいたずらっ子のように繰り返し笑いながら、それでいて一体誰に言っているのだろう。あぶない、あぶないと何度もその単語を繰り返し、そして贅肉を揺らしながらこちらに向かってくる。夢うつつな幸せそうな顔で、一体何を考えているのだろう。
死ぬ。
殺される。
直感した。
どこに逃げればいいのかも分からないのに僕は駆け出していた。マリアが怯えて逃げ出したのもこの男を見たからだ。
あれが吸血鬼? 僕には狂った殺人鬼のようにしか見えない。吸血鬼が包丁……多分、あれは肉切り包丁だ――を何故持つ必要があるのだろうか?
混乱する僕を馬鹿にするかのように、クスクスと笑い声が後ろから追ってくる。一体何が面白いのか。僕が混乱しているのがよほど滑稽なのか、それともこの状況に楽しんでいるのか。
あまりの気持ち悪さに怒鳴り散らしたくなった。いや、泣き叫びたくも思うのはこの短時間で精神が尋常じゃなく削られているからだろう。
それでもがむしゃらに走っていると不意に腕を誰かに掴まれ、そして強引に部屋に引きずり込まれた。