虚無
薄暗い洞窟の中で白銀の龍が横たわる。
一体どれほどそうしていただろうか。雨の中天から降りた後も湖には帰らず、祠の後ろにある滝に隠された洞窟の中で数日を過ごした。
いや、帰らなかったのではない、湖に行く必要が無くなっただけだった。いなりが来てくれないのならば縁もゆかりもない湖に居座る理由はない。
(なら、もっと早くここへ戻るべきだったのに)
まだ雪が残る時期に、白はいなりを拒絶しながらも湖から離れなかった。
(いなりの感情を否定しながらも、私は心のどこかでいなりからの貢ぎ物を待っていた。貢ぎ物を贈られることでいなりの中に私がいることを確かめ、安堵していた)
白は与えられた龍神という役目を演じることに囚われ、己を見失っていた。あの頃は自然の理へ生き物を導くことが何よりも大切だと思っていた。
そして、無くした時に気が付いた。自分が大切だと思っていたそれは一番大切なものを奪うと。
【龍神様、龍神様】
ふと、今一番聞きたくない名を呼ばれた。白は気だるげに瞳を開く。
【どうか、雨を止ませください】
(雨を?)
祈りの言葉に白がぴくりと反応する。人間が頼みに来るということは長期間降り続いているということだ。その事実に白は自嘲する。
(それほどまでに私は悲しんでいたのですね)
――――――――――――――――――――――
【雨は止んだが、日が差さない】
【このままでは作物の根が腐ってしまう】
【冬を越すことはできないぞ】
【龍神様にお供え物をし祈っても雲は晴れない】
【お供え物が足りないのではないか】
【そうだ、きっとそうだ】
【生贄を捧げよう】
【村の大切な月光花を盗もうとしたあのよそ者の女を】
(本当に人間という生き物は愚かです)
一番の原因は雲を晴らすことができない自分にあるが、生贄という手段に辿り着く人間に白はほとほと呆れた。
そして、生贄をよこされたところで人間ではこの洞窟に入っては来れない。その生贄とやらが祠の前で立ち往生するだけだ。
(ですが、早く手を打たなければなりません)
別の神から聞いた話だが、生贄を拒否したところ人間たちはその生贄を役立たずとして殺め、別の生贄をよこしたという。そんなおぞましいことを自分の縄張りでされたくはない。
どうしたものか、と白は約二か月ぶりに体を起こした。
『!』
とにかく、生贄にされてしまった人間を村人にばれないように返そうと思った矢先、洞窟の入り口からこちらに向かってひたひたと足音が聞こえて来た。
(人間や動物は入れないはず………)
『止まりなさい』
「!」
白の命令で足音が止まる。
『どうやってここへ入ったのですか?』
「あ………、龍神様……ですか?」
『質問に答えなさい』
微かに女が息を飲むのが分かった。
「月光花です」
(月の花で?調べる必要がありますね)
白は女性の方向へ背を向けた。
『もう行きなさい。生贄は必要ありません』
「お待ちください!」
女性が駆ける音がし、白はまたそちらへ向いた。
『帰りなさい!』
「帰れません!やっと、やっと月光花を見つけて人間に生贄などと吹き込んだのです!」
『………吹き込んだ?』
女性が洞窟の角で足を止めると、華奢な影が岩肌に映る。
「ある時から長く雨が続いて、止んでもずっと曇り空で………、お体が優れないのかと心配だったのです。でも、祠の場所は分かりませんし、分かったところで今のままでは近づけません。ですが、妖狐の素質がある狐は月光花で覚醒すると聞きました。なので村に忍び込んで月光花に触れ、村人が祠へ案内するように生贄を吹き込んだのです。」
岩肌に映った女性が手ぬぐいを外せば二つの尖った耳が顔を出し、さらにふわふわの二つの尾も現れた。
「白様……、いなりめがそちらに行くことを許してくださいますか?」
『いなり……、なのですか……?』
「はい、私です白様。」
(まさか……本当に……)
『………っ顔を、見せてくださいっ』
白の言葉に導かれ岩陰から姿を見せたいなりは幼い頃の面影を残しつつも大人の女性へと成長を遂げていた。