相違
(今日もいない………)
白を待つ間いつもいなりが腰かけている岩は、ただ日に照らされている。
(あのお饅頭が悪かったのでしょうか?)
最後に会ったのは三日前。いなりとの出会いは半年前だが雨と厳寒以外でこれほど長く顔を見せないことはなかった。
(心配ですが、私がいなりのもとへ行けば他の生物に混乱を招きかねませんし………
もう少し待ってみましょう。)
そう自分を納得させて、白は湖にゆっくり身を沈める。そして、完全に姿が見えなくなったとき、白銀の鯉が湖に波紋を描いた。
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陽が沈み辺りが闇に包まれる中、その闇を照らす月を湖の底から眺めていた。
他の生物は白のように月を眺めることはせず、すでに寝息を立てている。真似事をして自分も目を閉じてみようか。そう思った時、水面に映る月が波により歪んだ。
『は……ま………、白……さま』
(いなり?)
白は歪む月に向かって上昇する。そして、湖面で跳ねると人の姿に変わり地上に降り立った。
「いなり!」
湖の傍らには、白を呼ぶために湖に手を入れた状態でぐったりと項垂れるいなりがいた。
「どうしたのですか?!」
「白………様、……変なんです………」
「変?何がおかしいのです?」
「体が熱くて……、その、むずむずするんです………、ここと、ここが」
いなりは恥じらいながら上と下を手のひらで軽く触れ、言ってしまった後にさらに恥ずかしくなったのかまた項垂れた。しかし、そんないなりとは対照的に白は大いに安堵していた。
(よかった………、きっとただの発情期ですね)
「いなり、大丈夫ですから落ち着いてください。」
「……いなりは病気じゃないのですか?」
「ええ、違いますよ。いなりは今年が初めてだったのですね。それは一定の齢に達した生物ならばみんなにある発情期というものです。」
「発情期………?」
「はい。おかしいことではありません。あって当たり前のものなのですよ。」
「あって……あたりまえ………」
ふっといなりから緊張が解けたのがわかり、白も胸を撫でおろす。
「いなり、頭がおかしくなっちゃったんじゃないんだ………」
「ええ、違いますよ。ですから、いなりもつがいを………!」
白がいなりに生物としての在り方を説こうとした瞬間、いなりは白の腰に手をまわし体を密着させた。
「あの、いなり………?」
「ずっと、頭の中ぐるぐるしてて、なんでこんなことってずっとわからなかった………!」
自分は経験したことはないが、きっと多くの生物にとっても戸惑うことなのだろうと察し、いなりの背中を優しく撫でる。
「大丈夫です、それでいいのですよ」
「っ、はい……」
もう心配ないだろうと体を離す合図のつもりでいなりの背中を優しく二回叩いた。
生物の成長というのは何度見ても感慨深いものだと白は思った。たった季節が一巡りするだけで全く違う姿を見せる。そして、小さければ小さいほどそれは顕著だ。
先ほどの合図の意に反していなりは先ほどよりも腕に力を込め、白に抱き着く。困るくらい可愛らしい子だ。しかし、いまだに甘えたがりのこの少女も季節がもう一巡りすれば見違えるほど成長するだろう。少し、寂しい気もすると感じた瞬間、濡れた何かが首筋を這った。瞬時にはそれが何なのか白は把握することができなかった。
「はく、さま……」
熱い息が耳を掠め、いなりの右手が白の左胸を覆う。そこでやっと状況を理解した白がいなりを引き剥がした。
「い、いなり!違います!」
突然の白の行動に驚いたいなりは火照った目はそのままに首を傾げる。
「違う?」
「こ、こういうことはつがいと………、同族の雄と行うのです!」
「え、でも、白様はいいって………」
「いいと言ったのは同族の雄が相手である前提でです!目の前にいれば誰でもいいわけではありません!」
焦りやら戸惑いやらで白の息が上がる。一方、先ほどまで混乱していたいなりは一瞬冷め次第に別の感情が混みあがってきた。
「誰でもいい訳じゃないもん!!!」
目を瞑り力の限り叫ぶいなり。
「ずっと、ずっと頭の中ぐるぐるしてたの白様だけだもん!!
ずっと白様のこと考えてたもん!!」
「ど、どうしてそんな………
いえ、何であろうと私ではなくつがいを見つけるのです。
同族の雄です!」
「やだやだやだ!!なんで他のとこに行けなんていうの?!白様がいいのに!白様の馬鹿!!」
「っつ!」
首筋に立てた牙は容易に白い皮膚を貫き、白がその痛みに怯んでいるうちに草の上に組み敷いた。
「いな……り、やめてください!!」
白の許可なく触れることは許されない部分にいなりの手が伸びる。そんな言葉での制止を聞かないいなりに対して白からは普段の優しさが消え失せ、いなりの手を払いのけるとさらに突き飛ばす。
「あ!はく………!」
いなりが白の言葉を聞き入れなかった分だけ白もいなりの言葉を無視して湖に身を投げた。