事件
次の日の学校は最悪だった。
同じクラスの生徒が昨晩、交通事故にあったらしい。俺は通学路から教室の廊下までの間の生徒のひそひそ話で、おおよその情報を掴んだ。空気は空気なりに場の雰囲気を掴まないといけないのだ。わずかな会話からキーワードを得て、ストーリーを組み立てる。教室の扉を開けた時にはおおよその光景を予想できた。だから、注目されることなくそっと教室へ入ることに成功したのだ。
騒然とした教室内。ところどころ生徒が固まってひそひそ話をしている光景。笑い声は一切ない。重苦しい空気が包み込む。
「うっ……まりこが……まりこが……」
小さな声と嗚咽が耳に入ってきた。俺はそっとその声の方向を見る。
(麻生さんだ……)
麻生さんはクラス1、いや、学校で一番の美少女だ。腰まである長い髪はクセ毛がまったくないストレート。長いまつ毛とパッチリした目が魅惑的である。そして、高校一年生にして十分な発育した身体。身長もあるからモデルとしてスカウトされてもおかしくないスペックだ。そして性格も正直で真面目、誰にでも優しくて気配りができる。パーフェクトな存在である。
(俺からはもっとも存在の遠い、輝く人、シャイニングレディ……。なんじゃ、それ!)
事故に合った生徒はクラスの女子。そして麻生さんの友人だったらしくて、可憐な麻生さんが泣いている。泣いている姿も可愛いと思ってしまうのは、俺が変態だからじゃない。
10人の男が10人とも(これはグッとくるよね……)と心の中でつぶやいてしまうのは間違いがない。俺は視線を落とす。教室の床から机の脚。視線を上げると見えてくる。
3つ折りにした白いソックスに包まれた足首。さらに上げるときちんと制服を着こなした清楚な女子が悲しみにくれている姿。
(ああ……やっぱり、グッとくるね)
そして数人の女子が麻生さんを囲って同じく泣いている。麻生さんに比べるとみんな七人の小人に見える。麻生さんは白雪姫か。
(そういえば、麻生さんの取り巻き女子の一人がいないような……)
事故に合った女子の下の名前を俺はもちろん知らない。
いつものように黙って、俺は椅子に座りカバンから教科書を出した。(トン!)と教室内に異質な音が響いた。教科書を揃えた時の音だ。クラスの重苦しい雰囲気に空気なりに溶け込んだつもりだった。だが、その態度と不本意に鳴った音が無神経に映ったのであろう。突然、後ろの席の男子が俺の胸ぐらを掴んできた。スポーツ刈りにした野球部の奴だ。
「おい、渡辺、クラスメイトが意識不明の重体なのにその平然とした態度はなんだよ!」
完全にとばっちりだ。俺は生死を彷徨っているクラスメイトを侮辱したつもりはない。ただ、クラスメイトとはいえ、顔も思い出せないから悲しい気持ちが沸いてこないのだ。それでも俺は悲しそうなフリをして、教科書を出したつもりだが、悲しそうな教科書の出し方はどんなものか知らないから、何かこの男の気に障ったに違いない。
「ぼ、僕は別に……」
教室では敬語キャラの俺。いつものように気の弱そうなキャラを演じた。そんな俺の演技を見抜いたのか、掴む手に力が入ったのが分かった。
「なんか、ムカつく。お前、いつも俺たちのこと、無視しているだろ!」
(はあ?)
俺は心の中で毒づいた。(おいおい、無視していたの、お前らだろが!)だが、突っかかってきた男子の名前を俺は知らない。いつもは7人の小人の如く、ただのモブ。クラスメイトAとしか見えてなかった一人だ。そのクラスメイトAは俺をすごい形相でにらむ。その顔を見て俺は思った。
(ああ、こいつ、その交通事故にあった子が好きだったんだ……)
なんとなく分かってしまった。空気たる俺の鋭い洞察力だ。だが、そうだとしてもこれは完全にとばっちり。状況は変わらない。
「おい、やめろよ、一樹」
「渡辺には関係ないだろ」
周りの男子が声をかける。というか、普通に俺の名前を知っていたことに感心する俺。まあ、クラスメイトならそれが普通であろうが。
さて、現在の状態に戻ろう。こういう場合、矛先を収める方法を提示しないと拳を振り上げた方は格好がつかない。だから、この助け舟に便乗すればいいのに、この名前を知らない(一樹とか言われていたが)クラスメイトは、俺のシャツを掴んだまま離さない。この男、完全にタイミングを逸しやがった。
(おい、この馬鹿、興奮し過ぎて引き際を謝りやがった。誰かもう一回、止めてくれ)
俺は素早く視線を旋回させる。だが、呆れ返ったのか再び声をかけそうな男子がいない。このままでは、一発殴られるパターンになる。クラスメイトの不幸を無視したという濡れ衣を着せられたうえ、痛い目を見る俺を想像する。
(最悪だ!)
「小林君、止めて!」
男子生徒ではなく、幾分、甲高い女子生徒の声。
再度、声をかけてくれたのは、思いがけない人物であった。そう、クラスの人気者、男子憧れの麻生さんだ。
(あ、麻生さん……)
「渡辺くんはそんな人じゃないよ。暴力は止めて!」
先程まで友達のために泣いていた麻生さん。涙で目を腫らした状態だが、それでも毅然とした声を放ってくださった。
(おお……女神だわ、この人)
「わ、わかったよ……」
やっと小林の奴、振り上げた拳を下ろすことに成功した。そしてバツが悪そうに椅子に腰を下ろした。
それは俺も同じだ。何だか、バツが悪い。こっちは被害者なのにだ。いつも、空気を演じていたのに目立ってしまったではないか。
「渡辺くんも、真理子の意識が戻ることを祈ってあげてね」
そう麻生さんは小さな声で俺に言った。俺は自然と頷いた。そして、麻生さんは再び、ハンカチを取り出して目にあてた。
そんな麻生さんと俺の様子を教室の片隅で苦々しく見ている奴がいたことを、俺は気付けなかった。
そいつは麻生さんの名前をぎっしり書いたノートの次のページに俺の名前を書き、そして「死ね」と続けた。そしてその文字を黙々と書き続けた。