6-14 オペラ座の歌姫 後編
仮面の彼はそのまま舞台を降り、役者達がひとまとまりになっている場所へ歩いて行った。
「王子役、生きてるか?」
声をかけると王子役の俳優が手を挙げる。
彼らはそれから何か喋っていて、小道具の腕輪も受け渡されていた。
すぐに話は終わったようで、仮面の彼が舞台に戻ってきた。アウローラの前で膝をつき顔を覗き込んでくる。
「アウローラ聞こえているか? 今から俺が王子役を代わる。歌をきちんと知らないから普通に喋るが、お前もそれに合わせて欲しい」
彼が近くに戻ってきてくれてアウローラは微笑んだ。
懐かしい声が耳朶に心地良い。
昔も、その声で幾度となく名を呼ばれていた気がした。ただ、もっと優しく、甘い声でだったと思うのだけれど。
(そう、私の名はアウローラだった。私を呼ぶあなたは誰?)
仮面に手を伸ばす。その腕を彼に掴まれた。
「仮面を外すのは無しだ」
仮面の下から青い瞳が覗いている。
(いつも横にいて、私を呼んでいたのはあなたじゃないの?)
確信に近い感覚があるのに名前だけが出てこない。
「もっと声を聞かせて」
だから訴えた。その声で語りかけてもらえば何か思い出せそうで、彼の方に身を寄せる。
「そうすれば、お前は俺と劇をしてくれるのか?」
つまらない事を彼は言ってきた。
劇なんてどうでもいいではないか。
楽団は遠くへ行ったままだし、他の役者達も戻ってきていない。逆らい難い言葉を言ってくるユーキだって、今は離れた所で傍観している。
自由に動けるのは今だけだ。
「アウローラ?」
「もっと優しく」
呼んで欲しい。昔みたいに。そうして甘く愛を囁いて欲しい。
「ねぇ、ベリザリオ」
彼の身体が強張った。この反応は当たりだったのだろう。
そうだった。
思い出したくても思い出せなかった夫の名前はベリザリオ。世界の誰より大好きな人。
「そんな話し方なのは私を騙すため?」
名前が出てきたら他にも色々と思い出してきた。どういう接し方をしていたのかも。
ベリザリオの瞳が揺れ、目を閉じたかと思うと深く息を吐いた。
再び目を開いた雰囲気はとても柔らかい。
「お前には敵わないね。どうして分かったんだい?」
「だって、私はあなたの妻だもの」
いつものベリザリオに戻ってくれたのにアウローラは満足し、彼の胸に飛び込んだ。そこから彼を見上げ、顔の輪郭を手でなぞる。
「あなた、なんで仮面なんてつけているの? それをつけるのはオペラ座の怪人くらいでしょう? いつも寝てばかりいたから、きちんと覚えてなかったの?」
完璧なはずのベリザリオの間違いに笑みが浮かんだ。
オペラ座に来ても彼は寝てばかりだった。チャリティの時は仕事だと思っているからか起きていたけれど、プライベートで来た時は、下手したら公演が始まった途端に寝ていた。
「ここの椅子は寝心地がいいんだよ」
と、困ったように笑いながらいつも謝ってくれていたけれど、普段の無理のせいだというのは丸わかりだった。
だから、少しでも彼に休んでもらうために、事あるごとにオペラ座に行きたがった。もちろんオペラもバレエもクラシックの演奏会も好きだったけれど、横で幸せそうに眠るベリザリオの寝顔を眺めるのが一番楽しかった。
そんなベリザリオがアウローラから身を離し立ち上がる。
「お前を驚かせようと思って正体を隠せる物を探したんだが、楽屋にこれしか無かったんだよ。どうせ私達は飛び入りだ。怪人の格好をした王子で演じても、観客は劇が更におかしくなった程度にしか感じないさ」
ダンスを誘うように礼をすると、片手を差し出してきた。
「哀れな怪人と共に劇をやっていただけませんか? チェネレントラ」
彼が向けてくる眼差しはとても切ない。
(何でそんな悲しそうな目をしてるの?)
気にはなったけれど、誘う声に負けてアウローラは彼の手を取った。
思い出した傍から記憶は消えていっている。今は思い出しているベリザリオの事だって、いつ分からなくなってしまうか知れない。
彼がいつアウローラの前に現れたのかですら、もう思い出せない。
分かる間に、少しでも共に時間を過ごしたいと思うのは悪いことではないだろう。
「始めるぞ、アウローラ」
「はい」
アウローラが頷くと、ベリザリオが舞台の裾に一旦避けた。
周囲の人々に何か言われているようだけれど、彼は何も言わずに、真っ直ぐこちらを見つめてきている。
嬉しいはずなのに、どことなく感じる切なさが胸を締め付ける。
ベリザリオが舞台の中央へ歩いてきた。アウローラの右手をとると腕にはまる腕輪に視線を落とす。
「あの舞踏会の夜、私に腕輪を託した姫君はあなただったのですね」
宣言通り、本来歌であるはずの部分がセリフになっている。彼は合わせてくれと言っていたけれど、考えようとする傍から思考が解けていってままならない。
歌ったら嫌がられるだろうか。
判断がつかず、アウローラは黙って頷いた。
ベリザリオにとってはそれで十分だったらしく、すいっと劇を進めていく。
「どうしてその姿のあなたが嫌いでなどあるでしょう。初めてお会いした時から私はあなたに恋していたのです。結婚してください、チェネレントラ」
アウローラの左腕に腕輪をはめたベリザリオはそのまま手の甲にキスをした。顔を上げ、答えを求めてくる瞳に籠るのは熱と哀愁だ。
そんな辛そうな目を向けないで欲しい。
そんな目はもう見たくなかった。
(? 私、この感じを知っている?)
ベリザリオはいつも悠然と笑っていたはずだ。苦笑くらいはしても、こんな、切実に何かを求めるような事などしなかった。
では、いつ?
どんな状況なら、彼をこんな空気にさせるのだ?
答えを求め記憶の海に飛び込むと、ベリザリオがアウローラを呼ぶ声が聞こえた。
呼び声というより、叫び声というのが正しいのかもしれない。
何度も、何度も、喉が潰れるのではないかとこちらが心配してしまいそうな悲痛な叫びだ。その時の彼は血で汚れた手を必死にこちらに伸ばしていて。
そうだ。この時、彼は必死に何かを求めていた。
伸ばされる手の先にいるはずの自分は何をしていただろう?
ベリザリオと同じように血で汚れていて、凄く、痛くて苦しかった気がする。
「ああ……」
掘り起こしてしまった記憶にアウローラの瞳から涙が溢れた。
「アウローラ?」
とても小さな声でベリザリオが心配そうに声をかけてくる。
彼の複雑な表情の理由も理解できてしまった。
だって、自分は既に死んだはずの人間なのだから。




