5-22 《隠者》レレミータ 後編
金髪眼鏡の周囲にまいておいた粉は、空気中の水に溶けると二酸化炭素と容易に反応し、シアン化水素という気体を発生させる。
これの毒性が強いのだ。
平たく言えば細胞への酸素の取りこみ阻害。高濃度になれば、直接肺の機能を麻痺させて死をもたらす。
ただ、きちんと対処さえすれば復帰はたやすい。
自力でシアン化合物に辿り着いた人物ならその事も知っているだろう。逆に、知り過ぎていて、脅しにならない方を警戒すべきかもしれない。
「アンプルが3本ということは、ジコバルトEDTA、亜硝酸ナトリウム、ヒドロキソコバラミンといったところですか。偽の餌で釣っているわけではなさそうだ。それなら頂きたいのは山々なんですが、この程度なら時間経過で回復します。そんな事のために槍は渡せませんね」
(そこまで分かるのかよ)
とことん自分のペースに持ち込めずジョエレは舌打ちした。
金髪眼鏡がシアン化水素に気付いて対処したのが早過ぎて、体内に取り込まれた量はごくわずかだ。動くのに支障があるのもほんの短時間だろう。
ならば、相手が万全でない間に次の手を打つのが正しい。
「話すことが無いなら、俺はお前とお別れしたい。最期に名前くらいは聞いてやってもいいぞ」
交渉は決裂。用無しになった治療薬をしまう。
代わりに魔杖カドゥケウスを構えた。
「そういえばまだ名乗っていませんでしたね。エアハルト・フォン・ハプスブルク=ロートリゲンと申します。組織内では《隠者》とも呼ばれますが。以後お見知りおきを」
こちらは最期だと言っているのにエアハルトは今後の話をする。とことん会話は噛み合わない。
「んじゃエアハルト、お前むかつくからさっさと死ね。その前に組織の内情を洗いざらい吐いてくれてもいいぞ」
ジョエレは空気中の窒素を捕捉して凍らせた。複数の冷気の槍を作り出し射出する。
対して、エアハルトは胸元からカードを出し指を滑らせる。途端に彼を中心に大気が渦を巻き、槍の軌道を逸らした。
強引に固体化させた窒素の槍は常温常圧下では形状を維持できない。風で弾かれた頃には気体に戻って消えていく。
「相変わらず手品のタネは見せないな」
「タネも仕掛けも有りまくりなんですがね。すぐにネタバレしてはつまらないでしょうから」
「簡単に見えてくれる方が、こちらとしては嬉しいんだけどな!」
構わずジョエレは窒素の槍を撃ち続ける。
しばらく続けていると、元々きつそうだったエアハルトの顔がさらに歪んだ。彼はついに地に膝をつき、それでも歪んだ笑顔を向けてくる。
「氷の槍かと思ってたんですけどね。槍の周囲に白い靄が発生している上に、液化を経ずに昇華。空気を掻き混ぜているせいで比重がよくわかりませんが、ドライアイスでしたか?」
「残念だったな。固体窒素だ」
「ああ、そうですか。どうりで寒くなり方が早いわけだ。それに、頭がくらつきます」
頭がくらついているのは低酸素による症状だろう。
昇華した窒素はエアハルトの周囲に大量に漂い、大気組成を乱す濃度にまでなっている。シアン化水素の中毒症状で酸素の取りこみ能力が落ちている今のエアハルトに、低酸素の空気は苦しいはずだ。
低酸素の空間を抜け出すためか、エアハルトが風の渦を解き、後退するようなそぶりを見せた。
「逃がしてもらえると思ってんのか?」
ジョエレはプラスチック爆弾の主成分であるRDXを合成し、エアハルト目掛けて撃ち出した。最後に起爆薬を合成散布して、火を灯したジッポを投げつけ着火。
大気成分に安定度の高い窒素が多かろうと関係無い。
軍用炸薬にも用いられる無色結晶は大爆発を起こし、荒野の地表を削った。
もう1発くるであろう衝撃を予想して、頭を抱えて地に伏せる。
案の定、最初の爆発より大きな爆発が起こり、地に伏せていたにも関わらずジョエレは吹き飛ばされた。
固体窒素により過度に冷却されていた大気に大きな熱が加えられ、液化していた水分などが一気に気化。それに伴う急激な体積膨張で2度目の爆発を引き起こす――までは予想できていたが、規模が思ったより大きい。
(ぶっつけ本番だし、こんなズレも出るわな)
ようやく転がり終わり、周囲を見回してみたけれど、漂う粉塵で細部は分からない。粉塵を吸い込まないように、外れかけていたマスクを着け直した。
RDXは哺乳類に対して毒性が強い。脱力感、めまい、頭痛、吐き気、痙攣、意識喪失などの症状だけで収まればいいが、くり返し触れると中枢神経系にまで障害が出てくる。
周囲に多くの人がいる状態で使うのは褒められたものではないが、幸い今ほとんどの者は気絶している。大多数が倒れている場所とは離れているし、呼吸も浅くなっているので、そう吸い込まれはしないだろう。
(あいつは……)
ジョエレは立ち上がり、服に付いた埃を払いながら目を凝らした。
一般人なら軽く殺せる攻撃を行ったが、エアハルトは死んでなどいないだろう。いい具合に動けなくなってくれていればいいが、無傷な姿を見せられたりした日には、次どうするか本気で悩んでしまう。
VXガスの合成が頭をちらついたけれど、即廃棄。
人類が創り出した最強の化学物質は毒性が強すぎる。そのうえ皮膚からも吸収されるので、今の装備で使えば自分も害を被る。
分解されるのが遅くて土地は死ぬし、いいことなど1つもない。
これは本当に最後の手段だ。
(にしても、制限を切っての連続使用はそろそろ限界だな)
杖の温度が随分上がっていた。
今は亡きエルメーテとの思い出の品だ。無理をさせて壊すのは本懐ではない。
「人に手品手品言ってくれますが、あなたのやる事もいい加減魔法がかってますよね。《愚者》より《魔術師》の方が合っているのでは?」
エアハルトの声が聞こえてきたのでそちらに目を向ける。
彼は普通に立っていた。
服はあちらこちら焼け焦げ、皮膚にも火傷らしき赤い腫れがあるが、それだけだ。大きな違いは眼鏡が無くなっていることくらい。
爆風で吹き飛んだのだと思ったのだが、そうではなかったようで、エアハルトがポケットから眼鏡を取り出し掛けた。
彼の青緑の瞳はジョエレに向けられているようで少し違う。
となると、その先にあるのはチヴィタ。もしくはレオナルド達だ。
「あちらが気になるのか?」
「ええ、まぁ。一応取引相手ですから」
エアハルトが《穿てし魔槍》を前に掲げる。
「この槍を譲り受ける代わりに、復讐の手助けをする契約でしたからね」
「復讐?」
「個人情報を勝手に流出させるわけにはいかないので、本人にでも聞いてください。まぁ、乱を起こすための人員手配とあなたの足止めで、契約分の仕事はしましたかね」
彼は自らの状態を確認するように身体を動かすと、
「火傷の治療もしたいですし、ここら辺が引き際ですかね」
何の執着も無さそうに言った。
「そういうわけで私は帰りますので。また声は掛けに来るとしましょう」
本気で帰るつもりなのか身まで翻す。
ジョエレは慌てて足元の石を蹴り、エアハルトにぶつけた。
「おい、ちょっと待てよ! はいそうですかって帰すわけがねぇだろ」
「付いてきて頂いても結構ですがね。でも、いいんですか? 私に構うより、彼女をさっさと病院に連れて行った方がいいと思うんですが」
エアハルトが振り返った。
彼の言葉の意味が分からず、ジョエレの眉間に皺がよる。
「彼女? 病院?」
「その様子だと彼女――マラテスタの令嬢が倒れた事を知らないとか?」
「は?」
「ひょっとして、一緒にいた青年に渡しておいた手紙も受け取っていらっしゃらない?」
エアハルトの言葉は相変わらず意味が分からない。
イラつきをぶつける為に杖で物質を合成しようとしたけれど、思い直して銃を取り出す。エアハルトの顔面目掛けて発砲した。
彼のすぐ近くで弾は止まったけれど、構わず銃口は向けたままにしておく。
「俺に分かるように説明しろ」
エアハルトが嘆息して身体をジョエレに向けた。前で腕を組み、世間話のように言ってくる。
「昨日の夕方くらいでしたかね? あなた達の泊まってるホテルで、うずくまってる彼女を見かけたんですよ。幸いもう落ち着きそうでしたけど、心臓病は断続的に症状が出てくる。油断しない方がいいでしょうね」
「なんで心臓病なんて分かるんだ? ぱっと見て分かるもんじゃないだろ」
「分かりますよ。以前危篤状態の彼女を治療したのは私ですから」
思いもしていなかった情報にジョエレは言葉に詰まった。
ルチアを預かる時、昔の彼女は病弱だったのだとディアーナから聞いてはいた。けれど、心臓病だとは初耳だし、本人だって、そんなそぶり欠片も見せなかった。
偶然で昔の症状なんて出てこない。
となると、エアハルトの話の真実味が一気に増す。こんな仕事などさっさと終わらせて、一刻も早くルチアの元へ戻るべきだ。
「もういいですかね? 預けておいた手紙は、今となってはどうでもいいですけど」
逡巡しているジョエレをよそにエアハルトが首を傾げた。
弱っているエアハルトをさらに痛めつける道もある。けれど、それで情報を吐く保証がない。
不確定な行動を続けるより、身内の生命維持の方が大切だ。
「さっさと帰れ。今度来る時は、手土産の情報を置いて帰るだけにしろよ」
ジョエレにはそう返すしかなかった。
エアハルトは笑顔を浮かべ服の中から何かを取り出した。視認しにくいが、大きな布のように見える。
彼がそれで身体を覆うと、あっという間に姿が周囲に溶け込んだ。注意して見れば違和感に気付けるが、ぱっと見ただけでは分からない。
高度な光学迷彩が施されている道具なのだろう。つくづく、技術力だけは無駄に高い。
「それではまたお会いしましょう。次は良い返事をもらえると期待していますよ」
荒野にエアハルトの声だけが流れた。
理論上、0℃の水が100℃の水蒸気になると体積は約1,700倍になります。
理想気体の状態方程式 pV=nRT より
1気圧下で温度を100℃まで上げてやった水1gの体積は、
p(気圧)=1(atm)
n(物質量)=w/M(水の分子量は18)=1/18(mol)
R(気体定数)=0.082
T(絶対温度)=100+273=373K
それぞれの数値を式に代入すると、V=1.6992L(約1.7L)
0℃で水1gは1mLとされています。1mLしかなかったものが1,700mLまで大きくなりました。
ここから体積膨張1,700倍が導かれます。




