5-4 全かゼロか 前編
◆
30年前。
オルヴィエートから車で30分ほど南下した地にあるチヴィタ・ディ・バニョレージョ。
その周辺に広がる荒野で、爆音と銃声、怒号が轟いている。
ジョエレの酒を奪った老人も当時は40代。現役警官としてその場にいた。
「はぁ、はぁ」
男は塹壕に隠れ潜みながら上がった息を整える。
「こんなの警官のやる仕事じゃないだろ。くそっ」
毒を吐きつつ塹壕から少しだけ頭を出した。
ぶどう畑すらろくに無い荒地に細く頼りない橋が伸びている。橋はどんどん急傾斜になり、最後には、切り立った崖の上にしがみつくような集落へ続いていた。
そここそがチヴィタ。
かつては天空の町と呼ばれていたらしい、現在は登記上無人とされる廃墟だ。
無法者が住みつき、近隣住民は昔から悩まされてはいたが、こんな大事になるとは思っていなかった。
いつの間にやら暴徒達が集まってきていて、教皇庁に反旗を翻すだなどとは。
「よー。お前まだ生きてたんだな」
同僚警官が男と同じ塹壕に潜り込んできた。
「お前もな」
男は苦笑を返す。
「お前、なんか元気そうじゃねーか。ちょっとチヴィタに忍び込んで、ボルジア卿連れ出してきてくれよ」
「無理言うな。お前がやれ」
無理を言ってきてくれる同僚に言葉をそっくり返してやった。
同僚は苦い顔でヘルメットをいじる。
「治安維持軍が来た時に俺達の仕事は終わりだと思ったんだがなぁ」
はぁ、と、2人で嘆息した。
暴徒への初期対応は、必然的に周辺都市の所轄があたることになった。
けれど、相手は武装していて人数が多かった。本営が発表した情報によると5千人。多少は武術訓練を受けている警官といえど対応しきれる数ではない。
それでも、市民のために多大な犠牲を払いながら粘っていると、教皇庁から治安維持軍が派遣されてきた。
時の教理省長官クラウディオ・アミルカレ・ボルジアを指揮官とする治安維持軍は3千人。
人数では暴徒に劣るものの、兵の練度と装備が違う。余裕で暴徒達をチヴィタへと押し返していっていた。
その様を見て、彼らに全て任せればいい。地方警官の仕事はここまでだと安心したものだ。
なのに、2人は未だに銃弾の飛び交う戦場にいる。
「俺達一般警官で戦線維持とか無理過ぎるんだっちゅーの。指揮官不在くらいで本庁の兵が使い物にならないって、なんなんだよ」
同僚が塹壕の壁を殴りつけた。
今、足を引っ張っている問題は正にそれだ。
終始優位だった治安維持軍の動きが途中でぴたりと止まったのだ。そうして、一気に後退してしまった。
わけが分からず混乱している現場に戦線維持の命令だけが出される。
死に物狂いで戦っている途中で、ボルジア卿が暴徒に拘束されたという話を小耳にはさんだ。
「あの人なんで捕まったんだろうな?」
「さぁ? 自分の存在を誇示したくて、調子に乗って前にでも出たんじゃないか?」
ボルジア卿の顔を思い出すとむかつきしかしない。こちらを所轄と見下してきた彼が足を引っ張っているというのが、また腹立たしい。
「いっそ、ボルジア卿が死んでくれた方がいいんじゃね? あの人が怪我するといけないからって、軍、動けないでいるんだろ?」
「そうだな。私もそう思うが、その言葉は他で言わない方がいい。あれでも枢機卿の1人だからな」
もう1人塹壕に転がり込んできて、話に入ってきた。
金髪碧眼の、まだ若そうな男だ。ぱっと見た感じ、30歳にも届いていないだろう。
「前に出るにもここら辺が限界か」
金髪の若者は塹壕から前を見て、再び頭を下げた。
「あ、あんた」
男は彼を指さすが、上手く言葉が出てこない。
「枢機卿がなんでこんな前線にいるんだ?」
なんとかそれだけ言えた。
金髪の若者が着ているのはボルジア卿と同じ深紅の司祭服。枢機卿にしか許されていない服だ。
若者は男の方を向くと柔らかく笑う。
「ボルジア卿の後任の指揮官だからかな。まぁ、でも。私が国務省の人間だからか、軍が今一思うように動かなくてね。掌握に時間を取られていてはこちらの被害が増える一方だから、私だけ先行しただけだよ」
「後任……来たのか」
「ついさっき着いた」
ボルジア卿が拘束されて1日ほどだ。腰の重い教皇庁にしては異例の早さだと言える。
抜擢された人物が適材なのかは怪しいが。
国務省といえば、机に座って書類に埋もれている職場の代表格だ。そんな仕事をしている人物に戦場で指揮など出来るはずがない。
年寄りだらけの枢機卿の中で、若いからとかいう理由だけで役割を押し付けられたのかもしれないと思うと、目の前の若者が哀れにすら思えた。
「あんたも大変そうだな」
相手は雲の上の身分だというのに、男はそんな事を言ってしまった。
何が可笑しかったのか、若い枢機卿は笑う。
「そうだな。でも、こんな、職務外の仕事をさせられている君達よりはましだろう。暴徒を生み出してしまったのは我々行政側の責任だろうからな。尻拭いまでするべきだ」
真面目な顔になった青年が立ち上がった。
塹壕の中とはいえ立てば頭や肩が出る。しかも彼の服は深紅で、非常に目立つ。
「死ぬ気か!?」
男が忠告したけれど若い枢機卿はしゃがまない。それどころか地上へと上がって行ってしまった。そうして拡声器を口元に持っていく。
「私は国務省長官官房長ベリザリオ・ジョルジョ・デッラ・ローヴェレ。暴徒の諸君、私はボルジア卿の解放と、諸君らの投降を要求する!」
それで、言い放った無茶がこれだ。
「あいつ馬鹿か!? んな要求が通れば、俺達だってこんなことしてねぇよ!」
「デッラ・ローヴェレって、今の教皇の出身家だよな。ってことは、あいつ、孫?」
「ぼんぼんらしい安直な要求だな、おい!」
家の名を出せば、普段は何でも思うようになっているのだろう。
それに、ベリザリオがここに来たのは、孫に箔でもつけさせようと、教皇が手を回したのではないかとの疑念まで湧いてくる。
「おい、デッラ・ローヴェレ卿! 名前だけじゃ人は動かせねぇぞ!」
同僚が怒鳴った。
ベリザリオは顔を少しだけこちらに向け薄く笑っている。
「さすがにそれくらいは分かっている」
そう言うと、彼は再び前を向いた。
そうして、手にしていた槍を前に掲げる。
(あれって、《十三使徒》が持っていた奴じゃないか?)
なぜ彼がと疑問が浮かんだが、前線に行くからと奪ってきたのかもしれないとの考えに落ち着く。
どう考えても戦闘のプロに持たせた方が有用だろうに、宝の持ち腐れだ。
男が怪訝に思っている間に、ベリザリオの手の中で槍が青白く光りだした。
彼が槍を一凪すると穂先から無数の閃光が走る。うち1条はチヴィタの最も高い建物に当たり、屋根部分を壊した。
他の閃光は雨のように荒野に降り注ぎ、大量の穴を生んでいく。それなのに、人には全く当たっていないようだ。
けれど、このまま当たらないなんていう保証はどこにもない。
「枢機卿って、神の裁きも代行できるのか!?」
「そんなの俺が知るかっ! ひぃっ!!」
男と同僚は抱き合って小さくなり、恐怖の時間が過ぎ去るのをひたすらに待った。
しばらくするとベリザリオの攻撃が止んだ。
荒野は地形が変わっていて、敵味方誰1人として動かず、ただただ静寂だけが流れる。
「今のはわざと外した。ボルジア卿を解放して諸君らも投降。もしくは全滅。2時間待つ。好きな方を選ぶといい。諸君らの要求である命の保証は、投降するのなら私の名において誓おう」
それだけ言うとベリザリオは槍を下ろした。




